弥生研究所

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【レビュー】Space Haven

Space Haven(スペースヘイブン)が、5/22に発売されて、10時間ほどプレイしてみましたので、良いところ、悪いところを振り返ってみたいと思います。

まず、Space Haven がどのようなゲームなのかという定義についてですが、Steam のジャンル分けによれば、シミュレーションであり、ストラテジーであるようです。確かにその二つの要素は間違いなくあります。また、Steam では類似品として、RimWorld 等が挙げられています。私は RimWorld をプレイしたことがないので、残念ながら比較はできませんが、私の経験の範囲ですと、Dwarf Fortress の系譜を引いた Gnomoria などと似たゲームになります。Gnomoria は完全なファンタジーテイストですが、Space Haven は完全な SF テイストです。


Space Haven Early Access Trailer

store.steampowered.com

第一印象

Space Haven は Kickstarter で開発が始まり、今回の Steam 発売は、一応正式リリースではなく、早期アクセス版になります。私は、比較的最近になって急速に Space Haven に注目するようになり期待していたのですが、早期アクセス版とは言え期待通りの面白さでした。

まだ10時間程度のプレイなので、ゲームの全てをプレイできるているわけではありませんが、現時点で分かったことについて、良い点や悪い点をまとめました。

良い点

シミュレーションとストラテジーの程よい融合

Space Haven の最も特徴的な要素だと私が思ったのは、自動操作だけではなく、手動操作もあるということです。前述したように、ジャンルがシミュレーションとストラテジーに分類されているのは、自動操作としてのシミュレーションの面と、手動操作としてのストラテジーの面があることを表現していると思います。

ゲームのほとんどは自動操作で行われますが、探索や戦闘などは手動操作で行います。廃棄船を探索すると闇の中に蠢くエイリアンと戦うことになったり、海賊に対してこちらから白兵戦を仕掛けたりすることができます。例えば、Gnormoia ではリスクの高い戦闘なども自動で処理されるので、戦闘自体にストレスが大きくありました。その点 Space Haven では、自動操作と手動操作を使い分けることによって問題をうまく乗り切ったなという印象です。

手動操作による探索と戦闘は、自動操作によるシミュレーションに対して、適度に緊張感を与えてくれるもので、非常に素晴らしいと思いました。

日本語翻訳の質が良い

プレイするにあたって全く支障はありません。当たり前のように多言語対応しているのは、本当に素晴らしいと思います。翻訳の質も十分で、機械的な翻訳はほぼないと思いますし、中華フォントもありません。

グラフィックや音楽は地味

Space Haven はシミュレーションなので、グラフィックの良さをもって、ゲームを面白くするものではありません。グラフィックはいわゆるドット絵で、ゲームとして味わい深さが増しているのと同時に、SF 的なフラットな UI ともマッチしています。ただ、細部は若干雑な面も目につきました。あまりまじまじと見ないであろう小惑星は、私には牡丹餅が浮いているように見える……。雰囲気のあるドット絵という方向性は完璧ですが、もう少し細部まで雰囲気が出ることに今後期待します。

悪い点

UI はまだ改良の余地があるかもしれない

UI については、この手のゲームにしてはよくできている方かなとは思います。Space Haven は、キャラクターなどを手動操作することができるのですが、自動の時は操作の主体が左クリックなのに対し、手動の時は、右クリックが主体になるので、微妙に戸惑います。UI は慣れの影響も大きいので、あまりラジカルに修正するのも問題ですが、いまの UI 自体が問題だらけというわけではないので、いまの UI をベースに少しづつ改善が入ることを期待しています。

技術研究などの要素は無い

技術研究のような要素が必ずしもゲームに必要ではないのですが、技術研究的な要素がゲームレベルデザインの機能を担っている場合があります。Space Haven ではすべての施設や機能が最初から使うことができる一方で、チュートリアルはあるものの、レベルデザインの概念は希薄です。そのため、初見でプレイすると、立てる施設の順番や重要度を理解していないために、資源が枯渇して詰むことがあります。厳密にいえば、交易などで完全に積むことは少ないのかもしれませんが、結局は何度かニューゲームを繰り返すことになると思います。これは、ゲーム内に明確なレベルデザインが無いため、プレーヤーがゲームの構造を理解するために歩み寄る必要があることを意味しています。また、全ての機能がプレーヤーに最初から露出してしまうため、ゲームとしての奥行きが無くなってしまうのも勿体ないところです。

まとめ

早期アクセスゲームは、まだ開発中であることを意味しています。早期アクセス版の売り上げが、今後の開発の進捗に大きく影響するのは言うまでもありません。現状の Space Haven は今後も継続的に開発されるべき、良い作品だと思いました。今後の開発に期待すとともに、開発がとん挫しないことを祈って、感想を書いてみました。もし興味を持たれた方はぜひ、ご購入を検討してみてください。

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ロードバイクの魅力は何なのか

新型コロナウイルスの影響で、自宅で自粛している皆様、お疲れ様です。思うように休日を過ごすことができない中でストレスが溜まっていることと思います。かく言う私は、元来、基本はインドアですが、唯一アウトドアな趣味としてロードバイクを持っています。サイクリング自体は人との接触はありませんが、どこかで感染するリスクがないわけでもありません。私は、万が一のリスクを避けて、今年の二月くらいからずっと自粛中です。仕事はまだ影響が少ないので助かっています。

不安ばかりの社会状況ですが、季節だけは自然と廻って自粛しているのが恨めしいほどの日和になってきました。しかし、ロードバイクには乗れないという、この悶々とした気持ちを文章にぶつけて、ちょっとだけロードバイクの魅力について考えてみたいと思います。

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Photo by Oktay Yildiz on Unsplash

長距離サイクリングをしよう

ロードバイクで一日(日の出から日暮れまで)に移動できる距離は、だいたい200kmくらいです。行程は直線ではないですから、単純な半径に換算すると150kmくらいになります。これは、東京駅を中心に考えると、関東一帯がすっぽり入る広さになります。

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赤い円が半径200km、緑の円が半径150km

日の出とともに東京駅を出発すれば、日が暮れる頃には、軽井沢、草津那須、日光、箱根、富士五湖甲府、銚子、館山、などに着くことができます。それも自転車で。自動車や電車などを使わず、自分の体ひとつと自転車だけで、そこまで行けるのです。化石燃料などを使わず、自分の体が生み出すエネルギーだけで、そこまで行けるのです。自分の体力だけで長距離を移動できる。これが、ロードバイクの最大の魅力です。

普通に考えれば、軽井沢に自動車で行くとしても、ちょっと遠いなあと思うと思います。それを自転車で行こうと考えれば気が遠くなります。しかし、愚直にペダルを回し続ければ、いつか軽井沢までたどり着きます。これってすごいことだと思いませんか。

もちろん、一日に200kmをいきなり走れるわけではありません。普段から運動をして体力に自信がある人でない限り、ある程度の練習で体力をつける必要があります。しかし、200kmという距離は決して常人離れした距離ではなく、健康な人なら十分にたどり着ける距離です。私の個人的な体感でいえば、フルマラソンよりも楽です。別に、200kmという距離にも拘る必要もなくて、自分の体力に合わせた長距離サイクリングを楽しめばいいのです。

千里の行も足下に始まる

思えば、昔の人はみな自分の体ひとつで移動をしていたのであり、老子はこの当たり前の事実をもって「千里之行始於足下」、つまり「千里の行も足下に始まる」と表現しています。この言葉は「千里の道も一歩から始まる」と解釈されますが、とらえ方を変えてみると、どんなに長い旅路でも全て小さな一歩一歩で成り立っている、とも解釈できます。この解釈はむしろ荀子が「不積蹞歩以無至千里」、つまり「蹞歩(きほ)を積まざれば、以って千里に至るなし」とストレートに表現しています。小さな一歩を積み重ねなければ、遠い目的地には至れないということです。

自転車において、ペダルの一回転で進める距離は千里に比べたら僅かなものです。200kmという距離を走ったときに、いったいどれだけペダルを回転させたことになるのか。疲労で体が辛くなった時、私はペダルを回すことだけに集中します。日々のストレスから離れて、ただペダルを回すことだけに集中することは、とても贅沢な時間です。

あえて一歩を小さくすることで得られるもの

私たちの一歩は、科学技術の進歩とともに、どんどん大きくなっています。新幹線や飛行機に乗れば、国内はおろか外国のいたるところまで、体感的には一歩の感覚で到達することができます。その価値を私は否定しません。しかし、こと旅という概念に関しては、どこに行ったか、どれほど遠い地へ行ったかよりも、どれほど歩みを刻んだかが体感的な意味を成すと感じています。

私が初めて200kmを走ったとき、夜明けとともに自宅を出発し、日没後に帰宅しただけなのにもかかわらず、これは旅だなと大げさにも感じて、感動したことがあります。上述した200kmで行ける土地を、電車や自動車でいったとしても、特別な感慨などないと思います。しかし自転車だとすれば、自分の体力だけでここまで来てしまったのかと感動します。そして、走る距離はどんどん伸びていきます。

旅と旅行の違い

ところで、旅と旅行の違いについて考えたことはあるでしょうか。言葉の意味だけを考えれば、どちらも同じ意味を持って、明確な意味の違いを使い分けられることはありません。どちらも、住んでいる家を離れてよその土地へ行くことを意味します。しかし、私たちは、潜在的に意味の違いを感じ取って使い分けることがあります。私は、旅と旅行の違いは「目的の有無」だと思っています。つまり、よその土地へ行くことに目的があるのが旅行、目的がないのが旅です。

旅行には、温泉やグルメ、観光施設、絶景など、行先に目的があります。旅行はそれらの目的を達成するための手段でしかありません。しかし、旅には行先に目的はありません。強いて言うなれば、そこに行く過程こそが目的であり、手段を目的化したものが旅だと考えています。この点で私は、長距離サイクリングを旅だと考えています。

エネルギーに対する移動効率が高い

私たちにとって自転車は、あまりにも身近にありすぎて、実は過小評価されているきらいがあります。ロードバイクを含めた自転車の凄さについて紹介すると、エネルギー効率が高いということが挙げられます。自転車産業振興協会によれば、ある距離を自転車で移動するのに必要なエネルギー量は、徒歩の五分の一とも言われます。また、自動車やジェット機などの化学燃料を使用する乗り物と比べても、六分の一から四分の一だという試算もあるようです。

この高効率だからこそ、自分の体力だけで一日に200kmなどを走れてしまうわけですね。当然、200kmも走れば疲労感は相当あります。でも、その疲労感は小さな一歩を刻んだ証拠です。千里の先にたどり着いた証拠です。疲労感があるからこそ旅としての意味を体感できるのです。旅をするのに、別段、北海道や沖縄、海外に高いお金を払っていく必要はないのです。一歩をわざと小さくすることで、他人にとっては旅とは言えない小さなものでも、自分にとっては大きな旅にすることができます。それをいい塩梅で助けてくれるのがロードバイクです。それがロードバイクの魅力です。

【レビュー】聖剣伝説3 TRIALS of MANA

FF7R が4月10日に発売されましたが、その裏側で聖剣伝説3のリメイクが4月24日に発売されました。FF7Rが話題を掻っ攫っていったのでノーマークだった人が多いのではないでしょうか。最近では聖剣伝説シリーズは、めっきり低迷してしまっていましたが、今回のリメイクは本当に良リメイクです。これを機に、聖剣伝説シリーズが再評価され、次の大型リメイク、新作などに繋がってくれればなあ、と大いに期待が膨らみました。

聖剣伝説3 トライアルズ オブ マナ - PS4

聖剣伝説3 トライアルズ オブ マナ - PS4

  • 発売日: 2020/04/24
  • メディア: Video Game

リメイクとして誠実なできばえ

今回のリメイクは、移植ではなく、ありとあらゆるものを一から作り直したものですが、グラフィックや音楽など何をとっても、雑なつくりだなと思わせるような要素は無く、誠実なつくりという好印象をまず受けました。キャラクターの具体的な造形や、声優によるフルボイスは、オリジナルにはなかったものですが、まるでオリジナルからそうであったかのような自然さで、違和感を感じませんでした。

新要素・変更点

新要素や変更点はかなりの数に上るので、主なものを挙げると以下の通りとなります。

  • 育成ポイントやリンクアビリティによる育成システムの強化
  • クラス4の新規導入
  • サボテン君のご褒美という痒い所に手が届く機能
  • クリア後のコンテンツの追加
  • 攻撃のバリエーションの充実化

どれをとっても、ゲームとしてのボリュームを増やす方向になっています。おそらく、オリジナルのシステムそのものでは、最近のゲームとしてはシンプルすぎると判断したのでしょう。どの新要素・変更点もマイナス評価になるようなものはない、というのが素晴らしいです。

リメイクだからこそ出来たこと

グラフィックは特に注目されていて、アンジェラやリースの可愛さは、もう発売前から騒がれていましたから、もはや強調するまでもないでしょう。アンジェラやリースは、オリジナルの当時から人気がありましたから、その地力に昨今の技術を組み合わせれば、さもありなんという結果です。

私が、特筆したいとしたらシャルロットでしょうか。シャルロットのフルボイスは最高にハマっていて、それだけで主人公にする価値があります。私は、シャルロットがプレイしていてこんなに楽しいキャラだと知りませんでした。オリジナルでは肉声はありませんでしたから、文字のセリフだけでシャルロットの魅力を表現するのは相当難しかったと思います。文字だけだとウザったさやあざとさなどの、ネガティブな印象がどうしても前に出がちなのでしょう。シャルロットのフルボイスは、リメイクだから出来たことの好例だと思います。

BGM は全体的にオーケストラになっていますが、原曲の雰囲気は全く壊れていません。オリジナルに懐古したい人には、原曲に切り替える設定が可能です。こういう細かいところにも配慮が行き届いているあたり、リメイクで心がけるべき温故知新が徹底されています。

アンジェラの最弱の汚名返上

バランス調整が不十分だったと開発者が語る通り、オリジナルには致命的な仕様がありました。それが、敵のカウンターです。オリジナルでは、味方が魔法や必殺技を使用すると、敵が強力な魔法や技で確定で反撃してくるという仕様がありました。このため、魔法や必殺技は終盤の華でもあるにもかかわらず、敵のカウンターを避けるために終盤ほど使われないというジレンマがありました。この、環境の逆風を最も受けたのが、アンジェラです。アンジェラの攻撃は魔法が主体となる為、主人公の三人に選ばれることは少なく、一方で強力な通常攻撃を持つケヴィンなどが重宝される傾向がありました。一言でいえば、キャラクターやクラスには理不尽な格差があったのがオリジナルでした。

リメイクではこのような仕様は綺麗になくなりました。アンジェラは本来の想定であろう強力な魔法を気兼ねなく撃つことができます。かといってアンジェラ一強でもなく、キャラクターの理不尽な格差は完全に解消されていると言えます。

アンジェラの復権から分かるように、オリジナルではダメだった部分が思いつく限りでは解消されているのは地味にすごいことです。

オリジナルのゲームデザインを忠実に踏襲

リメイクとオリジナルの両方に共通して言えることですが、聖剣伝説3はゲームとしてのボリュームはそれほどありません。リメイク版では、割と丁寧にプレイしたとしても、20時間もあればクリア後の追加コンテンツも含めて遊べてしまいます。また、難易度も全体を通して低めで、サクサクと進めることができるのが大きな特徴です。オリジナル版でも、当時小学生であった私が、苦労せずにクリアまで行き着けた記憶があります。

最初に結論を言ってしまうと、聖剣伝説3ゲームデザインは、サクサク進めて、パーティとクラスチェンジの組み合わせに新しい発見をして楽しむ、というものだと考えています。そのため、ボリュームをある程度おさえて、周回しやすくするという作りは、ゲームデザインに沿ったものです。

そもそも、聖剣伝説3は単純にボリュームが少ないのかというとそうではありません。主人公は六人いて、それぞれにストーリーがあり、ラスボスは主人公に応じて三つのパターンに分かれます。全てのラスボスを倒すだけでも、単純に三周する必要があります。つまり、聖剣伝説3は周回することが前提となっていて、そのためのボリュームや難易度になっているのです。

リメイクで追加された、強くてニューゲーム、引継ぎ可能なリンクアビリティ、サボテン君などの要素は、周回のしやすさというゲームデザインの基本的な考え方を踏襲するものになっています。逆に、周回を妨げるような要素、周回のし辛さを感じさせる要素はありません。この点において、リメイクするにあたり、オリジナルのゲームデザインをきっちりと分析し、そのデザインを壊さずに踏襲できる新要素が設計されています。

ちなみに、聖剣伝説3のプレイ体験は、パーティ編成とクラスチェンジに左右されます。その組み合わせがどれだけあるかというと、六人の主人公から三人を選ぶ時点で、6C3通り=20通りあります。さらにクラスチェンジの組み合わせを加えると、一組のパーティ編成には、一人当たり4通りのクラスチェンジがあるので、三人分で4の3乗通り=64通りがあります。これが20通りのパーティ編成それぞれにあるので、全体の組み合わせは64×20通り=1280通りあります。この膨大な組み合わせの中から、火力を求めるもよし、快適さを求めるのもよしなのですから、プレーヤーそれぞれが遊び方を追求することができます。

三国志初心者にオススメする本4+1冊

最近はいろんなところで三国志を知る人が増えたと思いますが、なかでもゲームで三国志を知る人は多いのではないでしょうか。 私が子供のころなどは、三国志のゲームといったらコーエー戦略シミュレーションゲームでしたが、 今では三国無双シリーズもありますし、スマホゲームなどの進出で、三国志を題材にしたゲームが本当に増えました。 三国志をテーマにしたゲームでなくても、三国志とコラボしたりして、三国志の露出はどんどん増えているように思います。

ゲームは面白いですが、しかしゲームだと三国志の全体像は見えないんですよね。 そこで、三国志を知っているようで知らない初心者の方にオススメする本を数冊ご紹介します。 三国志を知るならば何よりも本が一番です。

吉川英治三国志

小説です。 紹介しておいてなんですが、実のところ退屈という感想をよく聞きます。 私は中学時代に擦り切れるくらい読んだものなのですが、なにせ戦前に執筆された三国志ですから、現代の小説と比べるとどこか刺激の少なさを感じるのかもしれません。 小説も進化しているでしょうから、様々なテクニックが施された現代小説に読み慣れていると、吉川英治はどことなく素朴で退屈に感じるのだと思います。 それでもなぜ私が吉川英治をお勧めするかというと、この作品が日本の三国志の文化や価値観の根底を作ったからです。 その後の日本の三国志観に大きく影響を与えた作品ですから、初めて読む三国志としては最適でもあります。 普段、小説をあまり読まない人や、中学生くらいのお子さんにも最適だと思います。

(この表紙が懐かしい!)

横山光輝三国志

漫画です。 劉備とか洛陽とか、そういった中国の人名や地名、固有名詞にそもそも馴染みがない人は、やはり漫画がいいかなと思います。 続出する固有名詞に抵抗を感じる人は意外と多いです。 最初は、人名なのか地名なのか国名なのか直感で分からないのです。 かく言う私もそうでした。 その点、漫画は視覚情報を補ってくれますから、あまり抵抗なく読み進められるのではないでしょうか。 子供でも無理なく読めます。 横山光輝の『三国志』は吉川英治の『三国志』をそのまま漫画にしたものと言ってよいと思います。 実は私にとって初めての三国志横山光輝だったのですけど、全60巻というボリュームが当時小学生であった私には集めるのに根気がいるものだったせいで、私が三国志を通しで読んだのは吉川英治が最初なのでした。 今は漫画喫茶とかありますしね。カジュアルワイド(全25巻)、愛蔵版(全30巻)などもあるので、大人買いするのもありです。

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

  • 作者:横山 光輝
  • 発売日: 1988/11/20
  • メディア: コミック

北方謙三三国志

小説です。 吉川英治の『三国志』に退屈を覚える人には、むしろ北方謙三の『三国志』をお勧めします。 一般にハードボイルドとして知られる著者ですが、その経験が三国志に新しい風を吹き込んでいます。 時代の流れや歴史というマクロな視点よりも、登場人物の生き様のようなミクロな視点で物語が進みます。 クローズアップされる人物には著者の独自性が現れています。 どこか人間臭さが排除されがちな歴史小説の中で、登場人物たちに強い個性をもたせた北方謙三の『三国志』は、三国志の中でも異色といえるでしょう。

三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

李學仁・王欣太蒼天航路

漫画です。 作者の王欣太自身が「吉川英治の『三国志』を読んだが冒頭から嫌気がさした」と述べているように、吉川英治に馴染めなかった人は『蒼天航路』をお勧めします。 ただ普通に読んでも面白いのですが、吉川英治横山光輝が作った三国志のスタンダードを知ってから読むと、これがまた面白いです。 人物に強くフォーカスしたときの表現力は漫画ならではといえるかもしれません。 北方謙三が人物に強くフォーカスして表現しきれなかったもの、あるいは横山光輝が漫画を媒体にしながらも表現しなかったものがこの作品にはあります。

宮城谷昌光三国志

正直に言えば、本書は初心者向きではありません。 三国志が好きだと自覚している人や、歴史好きの人に向けられた小説です。 ですので、三国志をより楽しみたい人への、次のステップとしての本になります。 最大の特徴は三国志演義を筆頭とする脚色が一切なされておらず、史実が重視されている点にあります。 従って、物語の面白さは、歴史の面白さに限りなく近いものになっています。 史実をもう少し詳しく知りたいけど、正史や史書はハードルが高い人には、導入点にもなります。

三国志 第一巻 (文春文庫)

三国志 第一巻 (文春文庫)

まとめ

いかがでしょうか。 上記で紹介した三国志をどれか一つでも通しで読めば、三国志がどんなものかはほぼ理解できるでしょう。 三国志を人に教えることもできます。 これをきっかけに三国志の沼にハマっていくもよし、ハマらないのもよしです。

【FEH】エリウッド育成計画

さんざん話題になっているエリウッドですが、10凸したので、やはり使いやすいですよという話です。

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エリウッド10凸

エリウッドの強みは、実質的な競合がいないところにあります。

エリウッドの特徴をあげてみましょう。

  • 剣・騎馬
  • 疾風迅雷への高い適性(烈剣デュランダルの武器錬成効果)
  • 高い魔防
  • 実際安い

烈剣デュランダル

中でも、特筆すべきは烈剣デュランダルの効果でしょう。

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烈剣デュランダル

  • 攻撃+3
  • 自分から攻撃したとき、
    • 自身の奥義発動カウント変動量+1
    • 敵の奥義発動カウント変動量-1
    • (同系統効果複数時、最大値適用)
  • 自分から攻撃した時、戦闘中、速さ+7、守備+10、敵は追撃不可

☆3排出キャラの中で、ここまで効果がテンコ盛りの武器を持っているキャラはそうそういません。それもそのはずで、この烈剣デュランダルは、☆5限定の総選挙ロイと同等のものだからです。効果として、ステータスアップ、柔剣・剛剣相当、キャンセル相当、瞬撃、という実に四つの効果が付与されています。ただし、柔剣・剛剣相当と、キャンセル相当は元のスキルとは効果が若干異なるので、注意が必要です。

烈剣デュランダルの柔剣・剛剣相当の効果:

  • ステータスによる発動条件がない(本家は速さや攻撃による発動条件がある)
  • 受けでは発動せず、攻めでは必ず発動する(本家は受けでも発動する)
  • 敵の反撃でも発動する(本家は自分の攻撃のみ発動する)

烈剣デュランダルのキャンセル相当の効果:

  • ステータスによる発動条件がない(本家はHPによる発動条件がある)
  • 受けでは発動せず、攻めでは必ず発動する(本家は受けでも発動する)

微妙に発動条件が異なりますので、本家の柔剣・剛剣やキャンセルと同じ感覚で使うとカウント計算が狂います。キャンセルを持っているから巨影討滅戦でも使えるかなと思って使ってみると、烈剣デュランダルのキャンセルは受け時には発動しないので、あまり向いていません。

疾風迅雷の適性

疾風迅雷の適性では、ティバーンが筆頭に上がりますが、正直なところティバーンとすらも競合しないのではないかと思います。例えば、ティバーンは獣・飛行なので、化身状態でないと3距離移動ができません。騎馬であるエリウッドには、配置に気を付けなくても3距離移動を実現できるという優位性があります。また、エリウッドは微妙に高い魔防を誇っています。騎馬で突出して万が一、討ち漏らすような場合でも、案外しぶとく生き残ってくれます。つまり雑に扱っても思ったよりも大丈夫です。これも、ティバーンにはない特徴です。そして何よりも、安い。無課金でも余裕で10凸できるでしょう。そもそも、私はティバーンを持っていませんから、疾風迅雷エリウッドは唯一無二の存在です。流石に素のステータスでは、エリウッドはティバーンに敵いませんが、そこは限界突破でカバーしましょう。

エリウッド HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 39 31 30 23 32 155
ティバーン HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 41 38 31 34 18 162

スキル

前述の通り、烈剣デュランダルの効果が高く、エリウッドの地の素材だけで充分整っているので、スキル構成はほぼ自由になるのが、エリウッドの強みです。高いスキルを継承するもよし、安いスキルでも十分です。烈剣デュランダルの効果や騎馬という移動種も考えれば、受けではなく攻めの構成が適しているのは言うまでもないと思います。最もお手軽な鉄板スキルは、鬼神飛燕の一撃などの一撃系スキルでしょう。疾風迅雷の効果を最大限引き延ばすのであれば、速さを上げたほうが使いやすそうです。

評価

とある理由で食わず嫌いをされていると一部界隈では評価されているエリウッドですが、その強さと便利さを頭で理解しているのと、実際に体感するのでは天と地の差があります。無課金ならば間違いなくエース候補になります。また、2020年4月25日からは神装エリウッドがリリースされますので、食わず嫌いされていた人が、大量に使いだす可能性もあります。なにせ、神装は総合ステータスが+10されるので、それこそティバーンを追い抜くステータスになります。神装でなくても、十分な使い勝手がありますので、食わず嫌いをするのは勿体ないです。この機に育ててみてはいかがでしょうか。

【読書感想文】重耳

中国の春秋時代と言えば、周が東西に分裂してから、晋が三国に分裂するまでの時代を指す。と言っても、すぐにピンとくる時代ではない。何しろ西暦にして紀元前七世紀のことである。二千七百年前の人間の興亡など気が遠くなるというものである。春秋時代の前代を西周と呼び、次代を戦国時代と呼ぶ。この戦国時代の覇者が秦の始皇帝であり、歴史は前漢劉邦に繋がっていく。ここまで時代が下ってようやく、漫画『キングダム』を始めとした馴染みが出てくる。

物語の時代である春秋時代について、もうすこし紹介しておこう。春秋時代は、周という国が中華圏を統一していた。統一と言っても現在の中国大陸全域を統治していたのではなく、黄河流域を中心に点在する都市国家によって、封建制のもと統治が行われていた。周の歴史は、西周の時代も含めると片足が伝説の中に埋もれていて、その始まりは定かではない。紀元前11世紀に武王・姫発が、暴虐を極めた殷の紂王を討ち、周を建国したのが始まりである。時代が下るにつれて、周の権威は衰えるばかりで、諸侯が領土と権勢を争って戦争を絶え間なく起こした。実力を失っても名望を持っていた周が、諸侯に対して一定の影響力を持っていたのが春秋時代であり、周の権威が完全に失墜し、諸侯が王を自称したのが戦国時代である。

この物語の主人公である重耳(ちょうじ)は、この春秋時代の大国、晋の公子である。重耳には多くの兄弟がいたが、特に兄の申生(しんせい)と、弟の夷吾(いご)の二人は、重耳と合わせて引き合いに上がる。物語は典型的な貴種流離譚である。父である詭諸(きしょ)の老齢に伴って、晋の公室に驪姫(りき)の乱と呼ばれる後継者問題が起きた結果、申生は廃嫡されたのち自殺を命じられ、重耳と夷吾は亡命を余儀なくされる。重耳は亡命したとき四十三歳であったが、こののち十九年間の放浪生活を経たのち、祖国に君主として帰還し天下の覇権を手にした。これだけでも、重耳の偉業が良く分かる。重耳は後に春秋五覇の代表格とされる。

驪姫の乱という最大の苦難に当たって、三人の兄弟がとった対応が三者三様であったため、その因果応報を教訓とし、君主への諫言としても引き合いに出される。歴史小説をよく読む人は、重耳の名や、その触りを知っていることが多いかもしれない。

申生の気性は、清廉潔白であり、人として汚い部分を持たず、孝行者であり、ただひたすらに人格者であった。それゆえに朝廷内で、最も衆望を集める存在であった。しかし、人格者であるがゆえに、父からの寵愛が消え、陰謀の魔の手が迫っても、反乱を起こすこともなく、亡命することもなく、自殺することになる。彼が、陰謀の魔の手を予知していなかったわけではない。彼の臣下は、こぞって反乱や亡命を勧めた。しかし、申生は何もしなかった。自分の正当性を、ただ神の判断にゆだね、誹謗中傷に対して自己弁護することもなく、無抵抗を貫いたのである。

夷吾の気性は、才気煥発であった。若くして機知に豊富であり、その分かりやすい優秀さから、申生の次に衆望を集めた。長兄の申生が自殺し、次兄の重耳が亡命すると、みずからも梁へと亡命した。ただし、亡命先が重耳とは異なる辺りに、彼の意向が読み取れる。後に、晋国内の混乱を収めて重臣の里克(りこく)によって迎えられると、それを断った重耳とは対照的に、晋へ帰国し晋公に上った。ただ、その政治は酷薄であり、里克ら重臣の弾圧や、亡命中の重耳の暗殺を謀るなど、才気の下に隠れた小心さが見え隠れする。対外的にも失敗が続き、秦との戦いに敗れると、太子の圉(ぎょ)を人質に出さざるを得ず、秦に対して事実上の従属を強いられた。

重耳の気性は、とらえどころがないというのが率直な表現かもしれない。見方によっては愚鈍にも見えるその性格ゆえに、若いころは特に、三人の公子の中では、もっとも評判が立たなかった。しかし、その器の見えぬ器量ゆえか、重耳のもとには人材が集まり、名声は徐々に上がった。長兄の申生が自殺すると、縁類である北狄の国に亡命する。弟の夷吾が晋に返っても、一貫して帰国せずに放浪した。弟の夷吾が亡くなると、その失政の反動もあって、晋国内の賛同と、秦の後援を得て、ついに、晋公として祖国に帰還する。このとき、重耳は既に六十二歳であった。

申生、重耳、夷吾は、いずれも将来を嘱望された優秀な公子であり、三人は直接争うこともなかったが、結局、晋公として最後に覇権を握ったのは重耳であった。三人からどのような教訓を得るかは、人によって異なるだろう。申生のように人格の善性だけでは、世の中の逆境を乗り切れない。時には毒をもって毒を制すことも必要である。一方で、夷吾のように才能だけで、その内面に善性を欠くようでは、人心は得られず失敗する。文質彬彬という言葉のように、人格の善性と、才能の発露が程よく調和して、初めて重耳のように至るのかもしれない。その重耳が若いころはいたって評価が上がらなかったのだから面白い。

三人の公子は、その結末を置いておけば、いずれも優秀な人物であることに変わりはない。公子たちが優秀であったのは、天性ではなく、その周りの臣下たちが優秀だからであった。そして、優秀な臣下が晋という国に集まったのは、重耳たちの祖父である称(しょう)が類まれな名君だったからである。

称の言葉はよく心に響く。

申生の天性など、はっきりいえば、どうでもよいのだ。明君になれるかなれないかは、師と傅しだいよ。わしの人のよさはな、こういうことを、いまここで汝に頼むところにある。(中略)こういうことは、死ぬまぎわに頼むものよ。さすれば、汝は断れなくなる。が、わしはみたとおり元気そのものだ。断りやすかろう。考えておいてくれ。 上巻、p78

これは、狐氏の賢人と尊称された狐突(ことつ)に対して、生まれたばかりの孫である申生の師になってほしいと頼んだ時の、称の言葉である。物語としては、狐突にはこの申し出を断りたい理由があるのであるが、重要なのはその理由ではない。私が注目したのは、わざわざ断りやすい状況を作って、自分の要求を伝えた、称の人格であった。称と狐突の関係は主君と臣下の関係である。いうなれば、称は狐突に頭ごなしに要求を命じることもできるし、用意周到に断りにくい状況を作って要求を伝えることもできる。ところが、称は狐突に対して交渉の小技を弄すのではなく、ありのままの希望を本心として伝えた。称と狐突は、単なる主従関係、利害関係ではなく、互いにその人格に対して敬意を持っていた。

私は、この称の言葉に深く感じ入るとともに、私自らも、人への要求を伝えるときは断りにくい状態を作らないようにしたいと思うのであった。何故ならば、私自身も時に、人から断りづらい状況下で要求を伝えられることがあるからだ。私は、そういう時、残念ながら、そのような人とは長期的な関係を維持するのは難しいかもしれないと毎回思う。しかし、称と狐突の関係を見てみれば、なにを隠そう、私には単純に敬意が足りず、また尊敬もされていなかったのだということが分かるのである。ただただ反省するばかりである。

称と、重耳は名君であることに異論のある人はいないであろうが、称の子であり、重耳の父である詭諸は暗君と評価されがちなのが歴史の皮肉である。詭諸は武勇に優れて、周辺諸国を次々と滅ぼしたが、晩年は愛妾の驪姫の讒言に踊らされ、その治績を汚してしまった。なにしろ、詭諸は父親の妾にすら手をだす、単純な欲求の持ち主であった。その単純さは、こと軍事には向いていたが、政治、外交には不向きであった。称は詭諸の晩節を知る前に世を去るが、生前、いつしか称が、子である詭諸の器量の限界を受け入れたとき、汝は地味な花になれと言い、器量いっぱいに生きよ、と念じるのであった。

気付いてみれば、『重耳』の物語は親子三代の物語なのである。この三代の中で、不思議なことに私が最も共感したのは、詭諸であった。それは、三代の中で詭諸がもっとも不肖だからなのか。称に父性を多分に感じたのであろうか、器量いっぱいに生きよ――それは、私に言われたような気がした。

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

依存されずに貢献するにはどうしたらよいか

なぜ貢献すると、依存されるのか

仕事の本質は、相手に出来ないことを代わりに請け負うことである。できない理由は、それをやるだけの技能や、資本、時間を持っていない、などが挙がられる。それをおカネの力で解決しようというところに、仕事が発生する。

したがって、仕事を請ける側は、相手ができないことをやることによって、相手に貢献し対価として報酬をえる。仕事を請けた以上、貢献する強い動機が、仕事が受けた側にはある。ところが、この強い動機ゆえに、相手ができないことを先読みしすぎて、相手がやるべきことまで請け負ってしまうと、相手の自立性を奪い、相手から依存されることになる。こういったことは、契約などの形式的な範疇を越えて暗黙的に行われるから、関係は一層難しくなる場合が多い。

相手から信頼されるのと、相手から依存されるのは似ているようで違う。貢献すればするほど、相手からの信頼が高まると同時に、依存のリスクも高まっている。自分の貢献が相手の自立性を突き破っているかどうかは、自分では明確には分からない。依存のリスクの高まり方は相手の自立性しだいで、それ自体は私たち自身が制御することはできない。言い方を変えると、依存されやすい人は、信頼を得やすい優秀な下地を持っている人ともいえる。

貢献していると依存されるのは、本質的なもののように思える。

いつか必ず届く依存のメッセージ

貢献していると、いずれ依存されてしまうのであれば、依存されずに貢献するにはどうしたらよいか、という問いは早くも的を射ていないことが分かる。問題なのは、相手から依存されないことではなく、相手からの依存をどうコントロールするかということになる。

それは、相手からの依存的な要求に対して、自分のルールに従ってノーということである。

上述の通り、相手から依存的な要求が発せられるのは、自分の貢献が相手の自立性を侵しているからである。そもそも、相手から依存的な要求が発せられないことが理想だが、自分の貢献が相手の自立性をどこで侵すかは分からないのでその実現は難しい。相手の心の中を探ることはできないので、コミュニケーションをもってその境界線を見定めるしかないが、そのコミュニケーション自体が相手の自立性を侵すかもしれない。

だから、私たちは依存的な要求に対して、ノーと言うしかない。でも、私たちはノーと言うのが怖い。

ノーと言うルール

相手から依存されたときにノーと言うルールをどうやって決めるか。このルールはおそらく一般化できないのではないかと考えている。ルールは自分と相手の人間関係だけに特化して成り立ち、ありとあらゆる人間関係に当てはめることのできるルールは無いのではないかと思う。私自身も振り返ってみると、ノーと言わなくてもよかったと後悔する場面があれば、ノーと言わなくてはならなかったと後悔する場面もある。これは人間関係ごとに存在している理想点へと、試行錯誤しながら収束させていくしかない。

ノーと言うルール、つまり収束させる理想点を一般化できなくても、収束させる方法を一般化することはできるかもしれない。この方法が正確なものであれば、私たちは限りなく少ない試行錯誤で、ノーと言うルールの理想点に到達することができる。

ノーと言うリスク

これは単純に仕事を失うリスクである。プロセスに目を向けて言うと、相手の信頼を失うリスクである。私たちがノーと言うのが怖いのは、積み上げた信頼を崩したくないからである。

実は、ノーと言って信頼を失うケースは少ないのではないか? 確かに、自分の都合だけを押し通すために、自己中心的にノーと言い続ければ、確実に相手からの信頼を失い、仕事を失う。相手に貢献していないのにも関わらずノーと言えば当然の結果である。しかし、十分な貢献していれば、その中で一度だけノーと言ったところで、信頼を失い仕事を失うことは無い。十分な貢献をしているのにもかかわらず、ノーと言った結果信頼を失うのであれば、相互に貢献に対する認識の齟齬がある。相手が単純に恩知らずなだけの場合もあるかもしれない。

依存性の高い相手にノーと言わずに長期的な関係を構築するのは無理だと考えたほうが良い。ノーと言うのが遅れると、ノーと言う言葉の意味が相手に通用しなくなる。今までやってきたことをやらないというのは、依存性の高い相手には受け入れにくい。つまり、最初が大事である。納得しにくい依頼を受けたとき、一回だけだったらという楽観的な考えや、あるいは一回やってみて考えようという向上的な考えは、相手の依存性を悪化させる。

ノーと言う vs 仕事を失う、という天秤

売上に余裕があれば、ノーと言うリスクは怖くない。幸せはお金で買えるという考え方は、これを根拠とする。かなりパワープレーだけど、これほど強力な方法はない。金銭的に余裕がないというのは、単純に手札が少ないことを意味する。手札が少ないと、悪手でしかないカードを切らざるを得ない場面が出てくる。交渉には、BATNA(代替の手段) や、RV(撤退の基準) という基本概念があるが、これらは、手札を増やすこと、あるいは手札が豊富でなくてはならないことを意味している。一方で、どんなに手札が多くても、プレーヤーである私たちのプレイスキルが伴わなくては、全く意味がない。幸せはお金では買えないという考え方は、これを根拠とする。貴重な手札をどぶに捨てるような、判断能力しかなければ、せっかく手札を豊富に持っていたとしても元も子もない。

まとめ

  • そもそも、依存性の低い人をお客さんとする。
  • 一方で、相手を依存的にさせている自分の責任もある。相手の依存性を高めないように、相手の自立性を侵さないように貢献する必要がある。
  • しかし、貢献しているうちに、相手の依存性を高めてしまう傾向は避けきれない。相手の依存的な要求に対しては、ノーと言う。

相手の目線で考えると私自身も含めて、自分が依存していることに気付いている人は少ない。私も仕事を失いたくはないから、その気持ちがお客さんへの依存に繋がる。この仕事を失ってもやっていけるという状態でないといけない。一方で、お客さんも、私がいなくなって業務が成り立たなくなるようでは、お客さんが私に依存していることになる。いなくなられたら困るけど、なんとかなるくらいでないといけない。いろいろ、考えてここまで書いてきたが、結局のところ、自分を自立させ、自分がなにものにも依存しない、というところに行き着くのかもしれない。