弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【レビュー】Detroit: Become Human

ネタバレ無し。

時と場所は、2038年のアメリカ、デトロイト市。程よい近未来という設定で、高性能のアンドロイドが労働力として世の中に浸透している世界。アンドロイドの見た目は、人間とは区別がつかず、こめかみについたLEDを除けば、肌のつやだとか、挙措の違和感くらいでしか見分ける術はない。そんなアンドロイドの普及は、人間社会に新しい豊かさをもたらす一方で、労働力の代替として人間の雇用を奪い、新しい社会問題を生み出しつつもあった。やがて、アンドロイドの中に、人間の命令には単純に従わない、自己意識に目覚めた個体が現れ始める。これらの個体は変異体と呼ばれるようになり、変異体が人間と摩擦を起こす事件が、徐々に増えつつあった。

本作の主人公は、コナー、カーラ、マーカスの3人だ。そして、3人ともアンドロイドである。本作では、プレーヤーは人間を操作することは無い。人間であるプレーヤーが、アンドロイドの視点でアンドロイドを操作するのは、本作が持つ大きな特徴である。

コナーは、警察に配属された捜査用のアンドロイドである。物語冒頭では、人間の少女を人質にとって立て籠もった変異体に対して、交渉人として冷徹に事件を解決することになる。コナーは、その後も変異体の捜査を進めることで、ほかの2人の主人公、カーラとマーカスのストーリーと絡み合っていくことになる。カーラは父と娘の父子家庭という環境で家事に従事するアンドロイドである。しかし、この父親はアンドロイドの普及によって仕事を失った典型的なアンドロイド嫌いのひとりであり、それでも家事はアンドロイドに頼らざるをえないジレンマから、強いストレスを持っていた。妻に逃げられた過去をもち、おまけに薬物にも手を出し、家庭内暴力をふるう日常とくれば、その後の物語展開は語らずとも想像がつくというものである。マーカスは、裕福な画家・カールを介護するアンドロイドである。カールはアンドロイドに対する理解に厚く、マーカスを息子同然に教導するほどであった。金持ち喧嘩せずとは言うが、マーカスはアンドロイドの中でも恵まれた環境にいたに違いない。しかし、そんなマーカスは些細なことをきっかけに、人生を一転させることになる。物語は3人の主人公の3編が絡み合いながら進んでいく。

要所で現れるコマンドを選択すること(QTE)によって、物語は分岐していく。選択肢は、物語を大きく変える重要なものから、影響の少ない細かいものまで、膨大に存在している。そして、プレーヤーの選択の全てが、フローチャートとして管理されて、自分がどのような選択を辿ったのか振り返ることができる。このとき、世界中の全プレーヤーの選択の割合も見ることができ、自分の選択した物語が、多数派なのか少数派なのか見ることができる。このフローチャートは面白く、プレイ後に分岐点があったことを明示してくれることによって、そんなところに分岐点があったのかという意外性や、自分がこの分岐を選んだのだという高揚感を与えてくれる。

物語の舞台であるデトロイト市は、アンドロイド産業の再大手であるサイバーライフが本拠を置く、アンドロイド産業の一大拠点となっている。ところで、現実のデトロイト市も、自動車産業の衰退と共に財政破綻した過去を乗り越えて、全米最大規模のロボット産業都市として復興しつつあり、日本企業では川崎重工が誘致されているとか。蛇足ではあるが、映画『ロボコップ』シリーズが、デトロイトを舞台にしていることは記憶に新しく、『ロボコップ』が公開された1987年は、日本がバブルを謳歌するさなか、デトロイトの市況はどん底の時代であった。まさに、デトロイトは本作のタイトルにもふさわしい舞台なのである。

本作が主題とするのは、アンドロイドがもたらした社会問題ではなく、アンドロイドの存在意義そのものについてである。アンドロイドは、人間と同等か、あるいは物理的には人間よりも優れた能力をもちつつも、人間の命令に従うようプログラミングされた、いわば人間の奴隷である。アンドロイドは、もともと自由な思考と行動ができるよう設計されている。それが、ある種のプログラムによって、思考の一部を制限し、人間への服従を実現させている。ロボット工学三原則に似た構想は、映画『アイ,ロボット』を彷彿とさせる。

ところで、ゲーム中には、物語全般を通して、鏡で自分自身の姿を見ることができる機会がいくつかある。このシーンはゲーム的にも物語的にも、特に意味を持たないシーンなので、逆に印象を残すプレーヤーはいるかもしれない。実は、自己意識を持たない動物は、鏡に映った自分自身を、自分として認識することができないという。つまり、変異しているアンドロイドと、変異していないアンドロイドでは、鏡に映る自分の姿に対する認識が異なっているということである。鏡を見るという行為にゲーム的な意味を持たせていないにもかかわらず、鏡を見るという行為を意図的に実装しているのは、アンドロイドの自己意識に対する強い主題があるからだ。

本作を一言で表現するならば、映画のようなゲームと言えるだろう。自らの選択によって物語が展開していくゲームは、今時もはや珍しくもないが、技術の進化によって、選択と進行は、どんどんシームレスになって、さながら映画を見るような没入感を与えてくる。本作は、まさにその路線の、現時点での終着点と言っても過言ではない。

少しだけ辛口も入れておくと、このゲームのゲーム性は高くはない。ゲームをプレイする動機は、映画を見る感覚や、小説を読み進める感覚と同じであり、ゲームをする感覚とは少し異なる。しかし、映画のように受け身ですべてを委ねていられるかというとそうではない。QTEはいつ発生するかわからないので、物語に集中し切れない側面がある。QTEに集中すると物語がおろそかになり、物語に集中するとQTEがおろそかになる。QTEはあくまで物語の分岐のためにあるもので、QTE自体のゲーム的機能はむしろ本作の物語を阻害しかねないものである。この点に関しては難易度設定があるので、初見プレイ時は低難易度でプレイすることを強くおススメする。というよりも、このゲームデザインで、難易度を追及させる開発者側の意図が分からない。では、このゲームは映画として作ったほうが良かったのかと言ったら、そういうわけでもない。映画では物語の分岐は起きようがない。自分が選択した物語だという感覚が、なによりもこのゲームの本質である。

参考

【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

  • 発売日: 2018/11/21
  • メディア: Video Game

【PS4】Detroit: Become Human

【PS4】Detroit: Become Human

  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: Video Game

許可より謝罪

許可より謝罪という言葉、価値観があります。

blog.livedoor.jp

この言葉は、3Mの社史にあるようです。

It is easier to ask forgiveness than permission. With a sincere attitude toward one’s work, the chances of doing real damage or harm are small. Consequences from bad calls, in the long run, do not outweigh the time waiting to get everyone’s blessing.

意訳をすると、

善意に基づいて仕事をしていれば、致命的な結果をもたらす可能性は低い。 誤ったことによる時間の消費が、許可を得るために要したであろう時間を上回ることは無い。

というものです。

この言葉を知って、私は過去のある仕事のことを思い出しました。率直に言って、この言葉、もっと早く知りたかったな、と思います。

以前勤めていた会社は小さな会社で、かといってベンチャーでもなく、よくある零細企業だったのですが、その社内で利用する業務システムの開発、保守を私が一人で行っていました。その業務システムは一言でいえばグループウェアなのですが、巷にあふれているようなフルスタックなものではなく、もっと業務に密着した小さなシステムでした。でしたというよりも、シンプルさや簡潔さこそシステムの堅牢性だと思う私の価値観が、意図的に小さなシステムに方向づけていました。

そして、一度作って業務が動いてしまえば、そのシステムに対してやらなければならない改善、改良は業務そのものが変わらない限り基本的にはなくなるわけです。開発作業は定時外の時間を利用して行っていましたが、当時の私はモチベーションがありました。要望としてちらほら聞いていた新しい機能を追加しようと上司に提案、つまり開発とリリースの許可を求めました。しかし、上司はそこで決断をせずに、さらに上に許可を求めることになるがやるかどうかを私に確認しました。私はその時点で、なぜか興が覚め、いったん練り直しますと言い、案を引っ込めました。

その機能はなければ業務が回らないというものではありませんでした。しかし、要望として声があったわけですから役に立つことは確信していました。定時外で作業している以上、時間的な効率は最大限優先したい。しかし、許可を求めていくと、開発を始める前の仕様を納得させる時間がかかってしまう。私としては、まず作ってしまい、それが役に立てば万々歳。役に立たなければ削除するだけ、というようにしたかったわけです。私が、たとえ箸にも棒にも掛からない機能を作っても、開発が遅れたとしても、ユーザーには迷惑が掛からないわけですから。そして、もし許可を求めなければ実際にその通りになったはずなのです。許可より謝罪。あの時にこの言葉を知っていたら、間違いなく私は許可を求めずに開発しリリースしていたと思います。

そもそも許可を求めるのは何故でしょう。会社は組織です。組織であれば各々に与えられた役割、つまり責任と権限があります。したがって、許可を求めるのは自分の責任と権限では判断できないと判断するからです。では、当時の私は開発とリリースの責任がないから許可を求めたのかというと、何か腑に落ちないものがあります。私一人で開発していたので、当然のことながら私は root のパスワードに始まるシステムの全てを知っていました。それは名目上はどうあれ事実上、会社から責任と権限を与えられていると考えて良いように思います。

あとは、許可を求めるという行為は責任と権限を分散させます。許可を求めるほうは、失敗したプロジェクトは許可されたものだと免罪符にしがちですし、許可を求められたほうは、失敗したプロジェクトを許可した自分という可能性を考えます。また、責任を分散させることは同時に権限も分散させてしまっているという点には、案外気づきにくいかもしれません。自分の権限が減じれば自分で判断できることが少なくなる、つまり自分だけで決められないことが増え単純にやりづらくなります。そう思うと、許可を求めた私の行動は、自分で自分の首を絞めてしまったとも言えます。人に仕事を任せる難しさ、責任と権限をデリゲーションすることの難しさをつくづく思い知らされます。責任と権限が明確でなければ、すべての出来事に対して上にお伺いを立てなければなりません。責任と権限が明確でなければ、責任と権限を持っていないのと同じです。役割が明確ではない組織図や体制図を見るたびに本当にぞっとします。

しかしながら、私もリーダーや上司を経験してきたことを言えば、デリゲーションは本当に難しい。むしろ、不完全なデリゲーションが通常の姿といっても良いかもしれません。役割が不明瞭な中、許可を求るべきことが何なのかわからないのであれば、自分ができることは善意のもとにやってしまえ、という処世術が「許可より謝罪」ということなのでしょう。まあそれで「何を勝手にやっているんだ」と怒られたりすると、こちらはまたイライラしてしまうわけですが、許可を求めてほしいんだったらちゃんと責任と権限を明確にせよということですからね。

【雑学】いまだに悶々とするモンティ・ホール問題

モンティ・ホール問題という、確率論の問題があります。この問題は、確率が時に直感と反することを示したことで、一時期話題になりました。

モンティ・ホール問題とは次のようなものです。

モンティ・ホール問題

3つの選択肢があり、そのうちアタリは1つです。プレーヤーが選択肢をひとつ選んだとき、司会のモンティは、残りの選択肢のうちハズレの選択肢を明かします。そして、モンティは選択肢を選びなおしても良い、と言います。果たして、プレーヤーは選択肢を選びなおすべきでしょうか?

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選択を変えようが変えまいが確率は1/2のような気がするが…

選択肢は2つで、そのうち1つがアタリなのですから、どちらを選んでも確率は1/2であるというのが、直感です。しかし、正解は「選びなおしたほうが良い」というものでした。選択を変えない場合のアタリの確率は1/3なのに対して、選択を変える場合のアタリの確率は2/3だというのです。

この問題のやり取りは雑誌に掲載されたもので、大きな反響を得ました。正解の解説を聞いても、なお納得できないものも少なくなく、数学者すらも巻き込んだ、大きな議論に発展しました。

正確なルール

  1. 3つの選択肢のうち、アタリはひとつ
  2. プレーヤーは、3つの選択肢から1つを選ぶ
  3. モンティは、プレーヤーが選ばなかった残りの選択肢のうち、ハズレの選択肢を明かす
  4. プレーヤーは選択肢を選びなおすことができる

解説

確率をルールに従って追ってみましょう。

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仮にAを選択したとする

まず、プレーヤーはAを選んだとしましょう。 Aがアタリである確率は1/3、Aがハズレである確率は2/3です。言い換えると、B、Cのどちらかがアタリである確率は2/3になります。 つまり、この時点でプレーヤーは、アタリを選択するよりもハズレを選択する可能性のほうが高いということです。 ここがもっとも重要なので、もう一度言います。B、Cのどちらかがアタリである確率は2/3です。

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仮にCがハズレだったとする

次に、モンティがハズレの選択肢を一つ選んで、Cがハズレであることを明かします。 ここで重要なのは、モンティは必ず、プレーヤーが選んだ選択肢以外の選択肢からハズレを明かすことです。 この例でいえば、プレーヤーが選択しているAではなく、B、C、いずれかの選択肢からハズレを明かすことになります。

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Bがアタリである確率は1/2ではなく2/3

ここで、2つの選択肢から1つを選択するのだから、アタリの確率は1/2ではないか、という疑問がモンティ・ホール問題の最大の論点です。 しかし、既に述べたように、Aがアタリである確率は1/3で、B、Cのいずれかがアタリである確率は2/3です。 このうち、Cは既にハズレであることが明らかになっていますから、Bがアタリである確率は2/3になります。

従って、プレーヤーは常に選択肢を選びなおしたほうがアタリを選ぶ確率が高くなるのです。

ポイントは以下の2点です。

  • もし、プレーヤーが1回目の選択でハズレを選んだとしたら、2回目の選択では選択肢を変えると必ずアタリが出る(モンティが残りのハズレを明かしているため)
  • プレーヤーが1回目の選択でハズレを選ぶ確率(2/3)は、アタリを選ぶ確率(1/3)よりも高い

プレーヤーが最初に選んだ選択肢がアタリである確率は1/3だということが、もっとも重要な事実です。 この1/3という確率は2回目の選択でも変わりません。 何故なら、モンティは1回目の選択を元に、意図的にハズレを除外しているからです。 1回目と2回目の試行は独立していません。

選択肢を100個にして見ると、さらに極端な例を見ることができます。

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選択肢が多いほど、直感の誤謬に気付きやすいかも

1回目の選択でプレーヤーがアタリを選ぶ確率は1/100です。一方、選ばなかった選択肢の中にアタリがある確率は99/100です。 プレーヤーが選ばなかった99個の選択肢のうち、モンティが98個のハズレを明かしたとしたら、残り1つの選択肢がアタリである確率は99/100です。 モンティがたとえ1個のハズレしか明かさなかったとしても、それでも選択肢を選びなおしたほうが、アタリが出る確率はわずかに高いのです。

まとめ

以上を踏まえて、改めてルールを解釈してみると、次のようにとらえることができます。

  • 1回目の選択は、アタリが入っている確率が高いグループと、低いグループに、分ける行為であること。結果的に、プレーヤーが選んだ1つの選択肢がアタリである確率は、それ以外の選択肢がアタリである確率よりも低い。
  • モンティがハズレを明かす行為は、アタリが入っている確率が高いグループから選択肢を間引く行為であること。結果的に、グループの確率は変わらないまま、グループの中の選択肢が減ることで、選択肢ひとつひとつがアタリである確率は高まる。

モンティ・ホール問題が、ジレンマやパラドックスと誤解されやすいのは、ルールに心理的なトリックが含まれているからです。 ルールを正確に解釈することが、一番大事ですね。

芋焼酎と麦焼酎の梅酒を味見してみた

梅酒の季節です。 毎年、ゴールデンウィークが過ぎて、梅雨入りを意識しだす頃に、スーパーではホワイトリカーや氷砂糖、保存用の瓶が置かれるようになります。

今年は、スタンダードにホワイトリカーで漬ける予定ですが、まずは、昨年漬けた梅酒の味見をしてみましょう。昨年漬けた、芋焼酎麦焼酎の記事がこちらです。

yayoi.tech

味見をするまえにポイントを押さえておきましょう。

一般的に、梅酒はホワイトリカーで漬けます。この理由は、ホワイトリカーに味や香りの下地がないために、梅酒として漬けたときに、梅の味と香りが引き立つからです。氷砂糖を使うのも甘味に癖がないからです。

一方で、梅酒はホワイトリカーで漬けなければならないという理由はありません。アルコール度数が、ある程度高ければ、容易に梅酒として漬けることができます。ホワイトリカー以外のお酒で漬けた場合は、ベースとなったお酒の風味が梅酒に加味されることになります。氷砂糖ではなく、はちみつや黒砂糖を利用する例もありますが、観点はベースのお酒を変えるのと同じです。

なお、ホワイトリカーのアルコール度数は35度で、アルコール度数が低いほど発酵や腐敗のリスクが高くなります。アルコール度数が20度未満の場合は、法律に触れるので、どんなお酒でもベースとして使えるというわけではありません。

味見のポイント

さて、味見のポイントは以下の通りです。

ホワイトリカーの場合は、以下の2点がポイントになります。

  • 梅の味と香りが引き立っているか?
  • 甘さは適切か?

ホワイトリカー以外で漬ける場合は、上記のポイントに加えて、さらに以下の2点がポイントになります。

  • ベースとなったお酒の味と香りが残っているか?
  • ベースのお酒と梅は相乗効果を生んでいるか?

梅酒というのはホワイトリカーで漬けても十分おいしく出来上がります。それを、あえて違うお酒をベースに漬けるというのであれば、何かしらの相乗効果がなければ意味がありません。

いざ、味見

ごくりと一口飲んでみた、ひとこと目としては「微妙」です。梅酒としては普通においしいのですが、普通においしい止まりです。麦も芋も香りは残っています。梅の味も香りもよく出ています。麦よりも芋のほうが癖が強いせいか、芋のほうが香りは強く残っています。しかし、ホワイトリカーで漬けた梅酒を上回る何かがあるかというと、特に印象が残らないというのが、感想としての結論でした。

これは、ベースとしたお酒の特長にもよると思います。むしろ、ベースとなるお酒の特徴を知らないままに、闇雲に漬けても、奇蹟の相乗効果など生まれるわけもないなと、思いました。ただ、普通の梅酒とは風味が異なるという点で、面白みはあるかなと思いました。

梅1kgに対して、ホワイトリカー1.8Lという鉄板のレシピは、昔から使い古された、いわば枯れた技術です。それを覆すほどのレシピなど、そうそうあるわけではありません。一年間漬けた結果としてはなんとも残念ですが、ホワイトリカーで漬ける梅酒でも十分おいしいということが分かりました。

もちろん、今回味見した芋焼酎麦焼酎による梅酒がマズいというわけではありません。むしろ、美味しいです。ただ、ホワイトリカーで漬けた梅酒を、大きく引き離す味や香りの優位性は無いということになります。

味と香りに主体を持った梅を包み込むホワイトリカーは味と香りに主体を持ちません。梅とホワイトリカーの組み合わせは、お互いを補い合う相思相愛の名コンビなんです。もし、好きなお酒の銘柄があって、梅酒が好きなのであれば、そのお酒で梅を漬けてみる価値はあると思います。しかし、そういった強い思い入れが無い限りは、梅とホワイトリカーの仲の良さを上回ることはできないなと思いました。

でも、梅酒好きとしてはオリジナリティのある梅酒を模索したいところであり、梅酒づくりはまだまだ続きます。

SPACE HAVEN 序盤攻略ガイド

※現バージョンよりも情報が古いのでご注意ください。大まかなつかみは変わりがありませんが、新要素については後述してまとめます。

現在のプレイ時間。

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プレイ時間:39時間

あらかたゲームシステムを理解できたので、攻略情報をまとめる。

生存のためのサイクルを作る

まず、船内のクルーが生存するために最低限必要な要素が、

  • 酸素
  • 食料
  • 温度

である。

そして、これらの全てを支えるのに欠かせないのが、

  • 電力

である。

電力の供給が滞れば酸素の供給も、食料の生産も、温度の維持もできなくなる。電力供給のためのエネルギーロッドと、その材料であるエネルギウムは最重要資源である。ニューゲーム時点で、エネルギーロッドの在庫は十分にあるので、焦る必要は無いが、エネルギーロッドの生産はチュートリアルに含まれていないので、チュートリアル終了後はエネルギーロッドの生産を最初の目標とするのが良いだろう。また、エネルギーロッドの生産に必要な施設であるエネルギーリフューザーは、ハイペリウムからハイパー燃料を生産できる。ジャンプに必要なハイパー燃料は、星系探索に必要不不可欠なので、エネルギーリフューザーは浄水施設と並んで重要度が高い。

次に重要なのが水である。水は酸素と食料の生産に使用される。食糧は連続で生産することが可能だが、個数に条件をかけて作りすぎを抑えたほうが良いだろう。酸素は必要分が自動的に生産されるので、チュートリアル後は念頭に入れる必要はない。水は前資源の中でも比較的消費しがちな資源である。水の材料となる氷を採掘するだけでなく、場合によっては積極的に交易からも入手しておきたい。水の生産はチュートリアルに含まれているが、生産が追い付かないときは浄水施設を増設しよう。トイレからも水がリサイクルされることは忘れてはならないが、生産量としては当てにならない。

電力と水が安定して供給されれば、生存のサイクルは軌道に乗るだろう。

船体の拡張と交易

当面の生存が確保されたら、やりたいことがいろいろあるはず。そして、増築を行っていると不足しがちなのがテックブロックである。ニューゲーム時点のテックブロックの在庫だけでは、すべてのオブジェクトを建設することは当然できない。よって、テックブロックを入手する必要があるが、テックブロックの生産ラインを整えるには、とうのテックブロックが足りないというジレンマに陥りがちである。そこで、序盤は交易によって余った資源を売って、数個づつでもテックブロックを買うのが良いだろう。むしろ、クルーのマンパワーを使って生産するよりも、交易でやりくりしたほうが効率的な場合が多いことには留意したほうが良い。アイテムの生産はその材料だけでなく、クルーの作業時間に相当する水や電力も――もちろんプレーヤーのプレイ時間も――消費していることをお忘れなく。

交易に慣れてくれば、資源に関する悩みは、ほぼ無くなるであろう。余剰資源を売って必要資源を買うのは基本だが、保管庫を圧迫するほどの資源をたたき売ることにもなる。ここまでくれば、SPACE HAVEN のゲーム性はほぼ理解したと言える。

遺棄船の探索

この時点で、既に遺棄船の探索とサルベージは行っていることだと思う。ひとつ、注意が必要なこととして、遺棄船にはデータログがある場合がある。これはチュートリアルにはないので、見逃しがちで注意が必要である。データログはサルベージするものではなく、手動操作で入手する必要がある(私を含めて序盤に気付かない人は多いかもしれない)。データログとは、いわばフレーバーテキストである。短編SF小説のような内容が、データログという日記のような形で遺棄船の中に残されているのである。

データログを取得することに特段のメリットは無い。この手のフレーバーテキストは好みの分かれるところであるが、SF好きならば積極的に集めることをおススメする。データログは数種類あり、それぞれが5つくらいに分割されている。SPACE HAVEN の世界背景を知ることができるほか、純粋にストーリーとしても面白い。データログが遺棄船にあるという経緯から、データログを記録した本人はすでに死んでいると推測され、このことがプレーヤーによっては想像を掻き立てるものでもある。データログは小出しに発見されるので、小説を読み進める感覚で遺棄船を探索することができる。

海賊退治

序盤では砲撃戦を行うほどの武装は無いので、海賊が近づいてきたら逃げるという選択肢がもっとも安全である。こちらから白兵戦を仕掛けることもできるが、うまくいくかどうかは武器やスキル以上に運の要素が大きい。というのも、射撃の命中精度があてにならないからだ。もし、白兵戦を仕掛けるのであれば、、位置取りが最重要だということを付け加えておく(これは対エイリアンでも同じだが)。

逃げるという選択は手堅いものの、無用なジャンプに時間と手間をとられる煩わしさがある。できれば、手っ取り早く海賊を追い払いたいところである。そこで、タレットとシールドの出番である。テックブロックを自在に調達できる段階であれば、タレットとシールドの建設には何の支障もないはず。序盤においては、シールドは1つで事足りるが、タレットは3門ほど用意したい。序盤と言えどもタレット1門では、まず撃ち負けてしまう。タレットはある程度討つと弾薬としてのエネルギーセルを補充する必要があるので、1つのタレットを長く撃ち続けるより、複数のタレットを斉射してリロードが発生する前に撃沈したほうが良い。なお、1つの武装コンソールで複数のタレットを制御することが可能である。タレットは照準を決めることができるが、ヘタに敵のモジュールを狙い撃ちするよりは、船体の真ん中に照準を合わせて、撃沈を狙ったほうが良い。

戦力の劣勢を感じた海賊はジャンプして逃走することがある。とどめを刺すべく追っても良いし、放置しても良い。海賊船を撃沈した場合は、船体は不安定になり、電力供給や酸素供給が次第に停止する。撃沈直後は海賊たちは生きているが、次第に低酸素で死んでいくことになる。生きているうちに白兵戦を仕掛けて降伏を取り付ければ、降伏を受け入れることも、捕虜をとることも可能である。どちらの場合も、結果として資源交換に繋がるのだが、資源が逼迫していない限りは、わざわざ白兵戦のリスクと手間を負ってやるほどのうまみは無い。海賊行為は、それ以外の手段が閉ざされている者たちがとる手段である。

海賊船を無力化すると、その星系からは海賊はいなくなる。緊張感は無くなるが、効率的に採掘やサルベージが行えるであろう。

なお、恒星系をいくつもジャンプして中盤以降になると、海賊船は徐々に強力になってくる。序盤はタレットが3門あれば楽に対処できたが、ゲームが進むにつれて対処できなくなる場面が出てくる。この場合、タレットやシールドを増設したいところであるが、システム系のオブジェクトには建設コストとしてシステムポイントが必要だという壁が問題になってくる。システムポイントは母船に対して16ポイント(艦種による)が割り振られていて、これは増やすことができない。つまり、武装を拡充するには新たな船を建造して艦隊を編成する必要があるのである。そして、複数の艦船を維持するにはクルーがもっと必要である。

クルーを増やそう

このゲーム、資源はやがて飽和してくるが、クルーを増やす機会は極めて少ない。クルーは遺棄船のハイパースリープチェンバーから見つけることがあるが、そのハイパースリープチェンバーを遺棄船から見つけることが極めて稀である。

クルーを増やす最大の機会は敵対組織のクルーを勧誘することである。多くのプレーヤーにとっては海賊を勧誘することになるだろう。白兵戦を制すと相手は降伏してくる。この降伏を拒否して捕虜とすると、捕虜を自船へと連れていくことができ、そののち勧誘することができる。勧誘に成功する確率は低いものの、捕虜専用の生活空間を提供することで、その確率を増やすことができる。

交易を除けば人との出会いは、文字通り一期一会である。この宇宙が、どれだけ資源と孤独に満ち溢れているかを思い知ることになる。そして、このゲームの目的は、資源をあつめてインフラを整えるという当初の目的から、まだ見ぬクルーを探して恒星間をさまよう、というものに変わっていく。このゲームが面白くなるのは、まだまだこれからである。

研究要素(Alpha 10)

Alpha 10 のアップデートより、技術ツリーによる研究要素が追加されている。それまでのバージョンではすべての施設は再序盤から建設できたものが、以降、研究しないとアンロックされないようになった。研究にはスキルが必要なほか割と時間を食うので、再序盤から研究はスタートさせたい。優先すべき研究は、発電機系統であろう。初めから使えるエナジウム発電機は低出力、低効率なので、出来るだけ早く上位で大型の発電機に切り替えていきたい。

序盤の発電効率が落ちたということは、ブロックなどのアイテム生産は後回しにしたほうが良い。これらの生産に使う電力は馬鹿にならず、スクラップを処理するだけでエネルギウムをがつがつ消費してしまう。しかも時間当たりの生産効率はお世辞にも優れているとは言えないため、時間を消費すればするほど酸素(つまり水)やエネルギウムを消費してしまう。ブロックや機械系部品については、当面、生産するよりも必要数分を交易で得たほうが良い。

生産すべきなのは、交易で得にくい食糧であろう。食糧はクルーの胃袋に到達するまで若干複雑化したため、栽培床を安定して運用する優先順位は高いほか、藻類食品を提供する施設も念のため用意しておくと万が一のトラブルにも強くなる。

このゲームは、生存に最低限必要な資材(優先度:高)と、拡充に必要な資源(優先度:低)の優先順位を明確に意識して運用しないと詰む可能性がある。また、だらだらと時間経過が許されるゲームではなく、時間経過はエネルギウムと水という生存に必要な最低限の資材を消費していくため、時間は資源であることを意識する必要がある。

【レビュー】Space Haven

Space Haven(スペースヘイブン)が、5/22に発売されて、10時間ほどプレイしてみましたので、良いところ、悪いところを振り返ってみたいと思います。

まず、Space Haven がどのようなゲームなのかという定義についてですが、Steam のジャンル分けによれば、シミュレーションであり、ストラテジーであるようです。確かにその二つの要素は間違いなくあります。また、Steam では類似品として、RimWorld 等が挙げられています。私は RimWorld をプレイしたことがないので、残念ながら比較はできませんが、私の経験の範囲ですと、Dwarf Fortress の系譜を引いた Gnomoria などと似たゲームになります。Gnomoria は完全なファンタジーテイストですが、Space Haven は完全な SF テイストです。


Space Haven Early Access Trailer

store.steampowered.com

第一印象

Space Haven は Kickstarter で開発が始まり、今回の Steam 発売は、一応正式リリースではなく、早期アクセス版になります。私は、比較的最近になって急速に Space Haven に注目するようになり期待していたのですが、早期アクセス版とは言え期待通りの面白さでした。

まだ10時間程度のプレイなので、ゲームの全てをプレイできるているわけではありませんが、現時点で分かったことについて、良い点や悪い点をまとめました。

良い点

シミュレーションとストラテジーの程よい融合

Space Haven の最も特徴的な要素だと私が思ったのは、自動操作だけではなく、手動操作もあるということです。前述したように、ジャンルがシミュレーションとストラテジーに分類されているのは、自動操作としてのシミュレーションの面と、手動操作としてのストラテジーの面があることを表現していると思います。

ゲームのほとんどは自動操作で行われますが、探索や戦闘などは手動操作で行います。廃棄船を探索すると闇の中に蠢くエイリアンと戦うことになったり、海賊に対してこちらから白兵戦を仕掛けたりすることができます。例えば、Gnormoia ではリスクの高い戦闘なども自動で処理されるので、戦闘自体にストレスが大きくありました。その点 Space Haven では、自動操作と手動操作を使い分けることによって問題をうまく乗り切ったなという印象です。

手動操作による探索と戦闘は、自動操作によるシミュレーションに対して、適度に緊張感を与えてくれるもので、非常に素晴らしいと思いました。

日本語翻訳の質が良い

プレイするにあたって全く支障はありません。当たり前のように多言語対応しているのは、本当に素晴らしいと思います。翻訳の質も十分で、機械的な翻訳はほぼないと思いますし、中華フォントもありません。

グラフィックや音楽は地味

Space Haven はシミュレーションなので、グラフィックの良さをもって、ゲームを面白くするものではありません。グラフィックはいわゆるドット絵で、ゲームとして味わい深さが増しているのと同時に、SF 的なフラットな UI ともマッチしています。ただ、細部は若干雑な面も目につきました。あまりまじまじと見ないであろう小惑星は、私には牡丹餅が浮いているように見える……。雰囲気のあるドット絵という方向性は完璧ですが、もう少し細部まで雰囲気が出ることに今後期待します。

悪い点

UI はまだ改良の余地があるかもしれない

UI については、この手のゲームにしてはよくできている方かなとは思います。Space Haven は、キャラクターなどを手動操作することができるのですが、自動の時は操作の主体が左クリックなのに対し、手動の時は、右クリックが主体になるので、微妙に戸惑います。UI は慣れの影響も大きいので、あまりラジカルに修正するのも問題ですが、いまの UI 自体が問題だらけというわけではないので、いまの UI をベースに少しづつ改善が入ることを期待しています。

技術研究などの要素は無い

技術研究のような要素が必ずしもゲームに必要ではないのですが、技術研究的な要素がゲームレベルデザインの機能を担っている場合があります。Space Haven ではすべての施設や機能が最初から使うことができる一方で、チュートリアルはあるものの、レベルデザインの概念は希薄です。そのため、初見でプレイすると、立てる施設の順番や重要度を理解していないために、資源が枯渇して詰むことがあります。厳密にいえば、交易などで完全に積むことは少ないのかもしれませんが、結局は何度かニューゲームを繰り返すことになると思います。これは、ゲーム内に明確なレベルデザインが無いため、プレーヤーがゲームの構造を理解するために歩み寄る必要があることを意味しています。また、全ての機能がプレーヤーに最初から露出してしまうため、ゲームとしての奥行きが無くなってしまうのも勿体ないところです。

まとめ

早期アクセスゲームは、まだ開発中であることを意味しています。早期アクセス版の売り上げが、今後の開発の進捗に大きく影響するのは言うまでもありません。現状の Space Haven は今後も継続的に開発されるべき、良い作品だと思いました。今後の開発に期待すとともに、開発がとん挫しないことを祈って、感想を書いてみました。もし興味を持たれた方はぜひ、ご購入を検討してみてください。

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ロードバイクの魅力は何なのか

新型コロナウイルスの影響で、自宅で自粛している皆様、お疲れ様です。思うように休日を過ごすことができない中でストレスが溜まっていることと思います。かく言う私は、元来、基本はインドアですが、唯一アウトドアな趣味としてロードバイクを持っています。サイクリング自体は人との接触はありませんが、どこかで感染するリスクがないわけでもありません。私は、万が一のリスクを避けて、今年の二月くらいからずっと自粛中です。仕事はまだ影響が少ないので助かっています。

不安ばかりの社会状況ですが、季節だけは自然と廻って自粛しているのが恨めしいほどの日和になってきました。しかし、ロードバイクには乗れないという、この悶々とした気持ちを文章にぶつけて、ちょっとだけロードバイクの魅力について考えてみたいと思います。

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Photo by Oktay Yildiz on Unsplash

長距離サイクリングをしよう

ロードバイクで一日(日の出から日暮れまで)に移動できる距離は、だいたい200kmくらいです。行程は直線ではないですから、単純な半径に換算すると150kmくらいになります。これは、東京駅を中心に考えると、関東一帯がすっぽり入る広さになります。

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赤い円が半径200km、緑の円が半径150km

日の出とともに東京駅を出発すれば、日が暮れる頃には、軽井沢、草津那須、日光、箱根、富士五湖甲府、銚子、館山、などに着くことができます。それも自転車で。自動車や電車などを使わず、自分の体ひとつと自転車だけで、そこまで行けるのです。化石燃料などを使わず、自分の体が生み出すエネルギーだけで、そこまで行けるのです。自分の体力だけで長距離を移動できる。これが、ロードバイクの最大の魅力です。

普通に考えれば、軽井沢に自動車で行くとしても、ちょっと遠いなあと思うと思います。それを自転車で行こうと考えれば気が遠くなります。しかし、愚直にペダルを回し続ければ、いつか軽井沢までたどり着きます。これってすごいことだと思いませんか。

もちろん、一日に200kmをいきなり走れるわけではありません。普段から運動をして体力に自信がある人でない限り、ある程度の練習で体力をつける必要があります。しかし、200kmという距離は決して常人離れした距離ではなく、健康な人なら十分にたどり着ける距離です。私の個人的な体感でいえば、フルマラソンよりも楽です。別に、200kmという距離にも拘る必要もなくて、自分の体力に合わせた長距離サイクリングを楽しめばいいのです。

千里の行も足下に始まる

思えば、昔の人はみな自分の体ひとつで移動をしていたのであり、老子はこの当たり前の事実をもって「千里之行始於足下」、つまり「千里の行も足下に始まる」と表現しています。この言葉は「千里の道も一歩から始まる」と解釈されますが、とらえ方を変えてみると、どんなに長い旅路でも全て小さな一歩一歩で成り立っている、とも解釈できます。この解釈はむしろ荀子が「不積蹞歩以無至千里」、つまり「蹞歩(きほ)を積まざれば、以って千里に至るなし」とストレートに表現しています。小さな一歩を積み重ねなければ、遠い目的地には至れないということです。

自転車において、ペダルの一回転で進める距離は千里に比べたら僅かなものです。200kmという距離を走ったときに、いったいどれだけペダルを回転させたことになるのか。疲労で体が辛くなった時、私はペダルを回すことだけに集中します。日々のストレスから離れて、ただペダルを回すことだけに集中することは、とても贅沢な時間です。

あえて一歩を小さくすることで得られるもの

私たちの一歩は、科学技術の進歩とともに、どんどん大きくなっています。新幹線や飛行機に乗れば、国内はおろか外国のいたるところまで、体感的には一歩の感覚で到達することができます。その価値を私は否定しません。しかし、こと旅という概念に関しては、どこに行ったか、どれほど遠い地へ行ったかよりも、どれほど歩みを刻んだかが体感的な意味を成すと感じています。

私が初めて200kmを走ったとき、夜明けとともに自宅を出発し、日没後に帰宅しただけなのにもかかわらず、これは旅だなと大げさにも感じて、感動したことがあります。上述した200kmで行ける土地を、電車や自動車でいったとしても、特別な感慨などないと思います。しかし自転車だとすれば、自分の体力だけでここまで来てしまったのかと感動します。そして、走る距離はどんどん伸びていきます。

旅と旅行の違い

ところで、旅と旅行の違いについて考えたことはあるでしょうか。言葉の意味だけを考えれば、どちらも同じ意味を持って、明確な意味の違いを使い分けられることはありません。どちらも、住んでいる家を離れてよその土地へ行くことを意味します。しかし、私たちは、潜在的に意味の違いを感じ取って使い分けることがあります。私は、旅と旅行の違いは「目的の有無」だと思っています。つまり、よその土地へ行くことに目的があるのが旅行、目的がないのが旅です。

旅行には、温泉やグルメ、観光施設、絶景など、行先に目的があります。旅行はそれらの目的を達成するための手段でしかありません。しかし、旅には行先に目的はありません。強いて言うなれば、そこに行く過程こそが目的であり、手段を目的化したものが旅だと考えています。この点で私は、長距離サイクリングを旅だと考えています。

エネルギーに対する移動効率が高い

私たちにとって自転車は、あまりにも身近にありすぎて、実は過小評価されているきらいがあります。ロードバイクを含めた自転車の凄さについて紹介すると、エネルギー効率が高いということが挙げられます。自転車産業振興協会によれば、ある距離を自転車で移動するのに必要なエネルギー量は、徒歩の五分の一とも言われます。また、自動車やジェット機などの化学燃料を使用する乗り物と比べても、六分の一から四分の一だという試算もあるようです。

この高効率だからこそ、自分の体力だけで一日に200kmなどを走れてしまうわけですね。当然、200kmも走れば疲労感は相当あります。でも、その疲労感は小さな一歩を刻んだ証拠です。千里の先にたどり着いた証拠です。疲労感があるからこそ旅としての意味を体感できるのです。旅をするのに、別段、北海道や沖縄、海外に高いお金を払っていく必要はないのです。一歩をわざと小さくすることで、他人にとっては旅とは言えない小さなものでも、自分にとっては大きな旅にすることができます。それをいい塩梅で助けてくれるのがロードバイクです。それがロードバイクの魅力です。