弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

赤毛のアン~名前を知っていても物語を知らないあなたへ

NHKにて、『アンという名の少女』が、9/13~11/1という期間で放送されていました(最終回は明日11/1です)。

www.nhk.jp

この作品は、カナダ放送協会とNetflixによる共同制作で、著名な『赤毛のアン』を現代的に再構築した映像作品です。

赤毛のアン』はカナダ文学の草分けと評価されるルーシー・M・モンゴメリの作品で、その発表はおよそ一世紀前となる1908年です。日本では、1952年の村岡花子訳を皮切りに多くの翻訳があります。邦題である『赤毛のアン』も村岡花子によるもので、原題は『Anne of Green Gables』です。1973年の神山妙子訳は原作に忠実であり、これを底本としたアニメは同様に高い評価を受け、海外へ逆輸入されていきました。この年代に幼少期を過ごした女性の中には、熱烈なファンも多いようです。私の母に言わせると、友人の中にはいまだに物語を精細に覚えている人がいるようです。

アンは、老兄妹に引き取られた孤児の女の子です。物語は、日本でいうところの小学校高学年から高校生あたりまでの、アンとその周囲の日常を描いたもので、現代的なジャンル分けをするならば、日常系と呼ばれる作品に相当します。日常系という言葉は、2000年以降の日本のアニメから生まれたものですが、赤毛のアンは間違いなくそういったジャンルの源流の一つと言えます。

赤毛のアンという作品名を知っていても、その物語を知らない人は、思いのほか多いのではないでしょうか。それは、もともとが児童文学と見なされていることや、主人公がアンという女の子であることも関連性があるかもしれません。私個人の事例でいえば、赤毛のアンという作品の存在は知っていても、その小説、アニメのいずれも見ることなく育ち、ついぞこの日まで内容を知らずに生きてきました。そうです。『アンという名の少女』というNHKのドラマを見るまでは。

今この記事を書くに至ったのは、『アンという名の少女』を八週間にわたって視聴し、その物語に些か傾倒したからです。原作を知らない私が、この作品を見てアンを知ったというのはおこがましい話ですが、それでもアンという物語の全体像や下地を知ることはできました。私には原作との比較はできませんが、映像作品を率直に評価することはできます。『アンという名の少女』の魅力をちょっとだけ伝えたいと思いました。

私が一番最初に感じたのは、アンってこういう性格の女の子だったんだという驚きです。あまりに個性的で、第一印象としてちょっとキツイなと思わせる女の子。アンの物語の基礎知識のない私にとって、それが既に驚きでした。それは私だけでなく、物語の中の登場人物においても同様であり、それゆえにアンは時に迫害ともいえる仕打ちを受けることがあります。これは制作者側の完全な仕掛けであり、視聴者の大部分が同じ共感を得ることを狙っています。しかし、アンには奇抜な個性だけでなく、強烈な善性も持ち合わせています。アンの周囲の人たちがアンの魅力に気が付き始めるとき、視聴者は完全にこの物語の虜になっているという寸法です。

アンの周囲の人たちもまたしっかりとキャラクター付けされています。義母に等しいマリラは、最初はアンの奇矯とも言える挙措に戸惑いますが、やがてアンを理解し、時に厳しく、時に慈しみをもって接するようになります。マリラの兄であるマシューは、マリラとアンの板挟みにありつつも、早くからアンへの理解を進めて、人格的に奥行きのある人物として、序盤のアンの精神的な拠り所でもあります。そして、特筆すべきは無二の親友であるダイアナの存在でしょう。可愛らしくて平凡で、常識的で上品な、お嬢様という表現がぴったりの女の子です。それゆえに思想的に全くアンとぶつからず、常にアンとその周囲の緩衝として活躍し、アンにとっていなくてはならない存在になります。アンの物語の序盤は、アンが周囲に馴染むことと、周囲がアンを理解すること、それに関連した問題と解決をテーマとしています。

アンの物語はアンの人生をただ追っているだけです。それなのになぜ、ここまで面白く引き込まれるのでしょうか。アンは特別な女の子ではなく、その周りに起こる出来事も特別ではありません。ただ、その切り抜き方、見方によって物語として成立しています。笑いあり、涙あり。私たちの人生には、既に物語の全てが含まれている、そう思わせてくれるいい作品です。アンは女の子向けの児童文学に収まらない魅力があります。

www.youtube.com

NHKの放送は明日で終わりますが、Netflix ならいつでも見れます。さらにNHKで放送されているのはシーズン1ですが、Netflixではシーズン3まであります。原作では、大人になったアンも描かれているので、今後も製作が期待されますが、今のところシーズン3で打ち切り状態のようです。シーズン4制作の嘆願運動では、100万の署名が集まっているとか。たくさんの人から愛される物語であることが分かりますね。

新しい財布が欲しくなったので調べてみた

革製品には独特の良さと悪さがある。

その良さの最たるものは、革には育てる楽しみがあるというものである。逆に悪さを挙げるとすれば、重い、水に弱い、メンテナンスしないと劣化するということだろうか。革の良さを最初から知っている人は少ないかもしれない。私も最初から革製品が好きだったわけではなく、その性質を知るようになってから好きになり集めだすようになった。

昔の私は、それこそ革靴などは無くなってしまえばいいとすら思っていた。仕事で仕方なく履かなければならないもの。その程度のものでしかなかった。確かに、今の時代、革靴に機能的な優位性はほぼ無いに等しい。機能性は圧倒的に人工的な合成素材で作られた靴のほうが優れている。革靴でスポーツをやろうなんて人間はいない。しかし、合成素材の靴はどこまでいっても使い捨てである。なぜなら主要な素材のポリウレタンは空気中の水分と反応して加水分解し、たとえ履かずに大事に保存していても勝手に劣化していくからである。しかし革靴は、製法や手入れの仕方にもよるが、正真正銘の一生ものである。革靴のすり減った靴底は交換、ないしは補強することで使い続けることができる。時間をかけて履き続けることで、革が自分の足の形に馴染み、その革靴は自分のためだけの革靴になる。

こういう逸話もある。ある富豪が高級車を盗まれたとき、その車のトランクには履きならした彼の革靴が入っていた。富豪は次のようにコメントしたという。盗んだ高級車はくれてやるからトランクの中の革靴だけは返してくれと。高級車はいくらでも買いなおせるが、自分の足に馴染んだ革靴は買いなおせないのである。イタリアのことわざでは、靴は人格を表す、ともいう。

私は革靴に関するそういった知識を得たとき、革靴に対する見方が変わった。ちょっと大げさではあるが、つまりこういうことである。一人の人間に世界を変えることはできないが、ほんの少しの知識だけで世界の見え方は容易に変わる。それは私にとって世界を変えたのと同じことなのである。

別段、革製品が好きでなくとも、革製品を使っている場合はよくある。特に、財布、革靴の類はそういうものとして定着している感がある。しかし悲しいかな。そういう普及している革製品ほど、革としての本来の扱いを受けておらず、革から見ればちょっとかわいそうな状態になっていることは多い。革靴は価格帯が幅広く、安い革靴は履きつぶすものとして使っている人も多いのではないか。財布に関しても、ノーメンテナンスで何年も使い続けられているものがどれほどあることやら。要は、革製品の良さを知らず、知識のない状態で革製品を使うことは、言ってみれば猫に小判、豚に真珠なのである。

私が2012年から使用しているポール・スミスの財布も、まさにそんな状態であった。変哲のない二つ折りの革財布であり、外側は黒で内側はヌメ革のナチュラルという個性の少ないデザイン。あえて特筆するならば、ポール・スミス特有のストライプが内側にさりげなく配されているという奥ゆかしい御洒落さがある。この財布に対する思い入れは殊のほか大きい。個人的なことは置いておくとして、要は、とある記念に人から贈られた頂きものなのである。私はこの財布を気に入っていて、ビジネスだろうがカジュアルだろうが(スポーツの場面を除いて)どんなときでもこの財布だけを8年間にわたって使い続けてきた。全くメンテナンスすることもなく。

最近、新しい革財布が欲しくなってきた。

最近は財布でもクリームくらいは塗って手入れをするようになったが、さすがに少しくたびれてきた雰囲気がある。未だに現役で使っていられるのは、この商品の品質が一定以上であることを伺わせるし、そして長期の使用は、なによりも革製品だから出来ることである。こういうことは布製品、特に化繊では出来ない。ちょっとくたびれたくらいが味になるのが革製品の良いところではあるが、使い潰したくもない思いもあるので、今の財布を休憩させる意味でも、別の新しい財布でも買おうかと、思い至ったのである。

物欲を満たす楽しみは買う前からすでに始まっている。買う前の吟味するという工程なくして、真に物欲を楽しんだとは言えない。軽はずみにポチったりせず、グッとこらえて時間をかけて吟味する。吟味に数か月をかけ、時には物欲そのものを寝かして数年を要すこともあり得る。それでこそ物欲道?である。

そんなわけで、私が今注目している(吟味中)の財布を挙げる。

万双 コードバン 長財布(小銭入付)

コードバン 長財布(小銭入付) | ブライドル・コードバン・シモーネレザーの革鞄・革財布 | 万双

f:id:yayoi-tech:20200928155159j:plain
参照:https://www.mansaw.net/

この商品をいつ知ったか、既に記憶が定かではない昔である。しかし、ずっと記憶に残り続けている商品である。私はこの長財布を見たとき、もし長財布を買うときが来るとしたら、万双の長財布を置いて他にないと思ったほどである。そして、その印象は今も変わらない。

ゴテゴテした印象のない、無駄のないデザイン。デザインとはどう見えるかではなくどう機能するかだと説いたのは、かのスティーブ・ジョブズである。この手のデザインの追求者はジョブズだけでは決してないが、万双もまた強烈な方向性を提示するブランドである。万双は「私たちは町場の鞄屋」と自らを表現している。ブランドロゴやタグをデザインに配さないこだわりや、直販のみという営業気質。あぁ、好き。財布に限らず万双の商品はいつか大事な時に買いたいと思っている。一方で、果たして万双の商品を買うに相応しいだけの人間に、いつになったら成れるのだろうかと途方に暮れるのである。

土屋鞄 ディアリオ ハンディLファスナー

ディアリオ ハンディLファスナー – 土屋鞄製造所

f:id:yayoi-tech:20200928155512j:plain
参照:https://tsuchiya-kaban.jp

長財布からあふれ出る高級感は、ちょっと私には制御し切れないかもしれない。そんな臆した心に寄り添ってくれるのは、やはり二つ折りの財布か。しかし、二つ折り財布ばかり買っても面白くない。悶々とするわがままな人の目にとまるのは、通称「Lファス」と呼ばれる土屋鞄のミニ財布であった。

このLファス。通常タイプと一回り小さいハンディタイプがある。しかし、なぜか小さいほうのハンディタイプがより高いのは、素材の違いがあるのかもしれない。私ならハンディタイプの方が欲しい。自分の用途を想像してみるに、もともと財布の中身の少ない私にとっては、ミニ財布でも十分使えると思っている。ところで、「Lファス」の愛称の通り、この財布は比較的手ごろな価格と相まって売れに売れたらしく、インターネットで調べてみても、所持者によるレビューや経年変化・エイジングの報告が多く、情報収集に事欠かない。とりあえずLファス買っとくか、と思わせる恐ろしい魅力がこの財布にはある。

ちなみに、土屋鞄ではマネークリップも取り扱っている。電子マネーが広く普及しているとはいえ、しかし私の生活スタイルでは完全に小銭を捨てるわけにはいかない。「Lファス」と両方持ったりしたら、素直に二つ折を買えという至極正当なツッコミを自分にすることになるだろう(戒め)。

物欲の道は続く。

【レビュー】アサシンクリード オデッセイ

最近ずっと、アサシンクリードオデッセイを遊んでいた。

私がアサシンクリードシリーズを遊ぶのは初めてであったが、このシリーズはオデッセイで既に11作目であるようである。シリーズ初体験ではあるが、各動画コンテンツでアサシンクリードがどういうゲームかは知っていた。初作であるアサシンクリードの動画を見たときは、ずいぶんスタイリッシュなゲームだと思ったものだ。アサシンブレードという、手首に装着した刃物を使いこなし、掌底打ちをするような動作で実は致命傷を与えている、その見栄えの良さに洗練さを感じた人も多いのではなかろうか。

私としては、むしろ興味のあるゲームで、機会があれば遊びたいと常々思っていた。ただ、昨日の今日までついにシリーズ未プレイとなってしまっていたのは、2008年を皮切りに、2020年には12作目である最新作のヴァルハラが発売予定とある通り、とにかくリリースが早いからである。1年に1作品はリリースされているのである。作品にはそれぞれ良し悪しがあると聞くし、ナンバリングされていないタイトルもあって、一見でどれが最新かも分からない。要は、いまのタイミングでどれをプレイすべきか良く分からないのが、現状のアサシンクリードシリーズであった。

オデッセイは、2018年に発売された11作品目である。私がオデッセイをプレイするに至った理由は、現時点での最新作だというのも一つにあるが、最も影響を受けたのは、「オデッセイ」が「ウィッチャー」に似ているという評価をチラチラと目にし耳にしたからである。ほう、ウィッチャーと比較するほどか。私にとって、「ウィッチャー3 ワイルドハント」は、ここ10年くらいの記憶で、最も衝撃的で面白く没入したゲームであった。そのウィッチャーと比較されるオデッセイが、どれほどのものか確認したくなったのである。

前述の通り、最近はずっと、アサシンクリードオデッセイを遊んでいた。

この時点で、オデッセイの実力は良い意味でお察しいただけるかと思う。プレイした数分の感想は、ウィッチャーに似ている、ということであった。オデッセイがウィッチャーに似ているというのは、ウィッチャーの経験者だったら誰しもが感じる、間違いのないものだと思われる。というよりも、オデッセイはウィッチャーの影響を強く受けている、という表現がより正確かもしれない。マップに大量のアイコンが表示される、あの感じはウィッチャーそのものである。

そもそも、アサシンクリードシリーズは元来、オープンワールドアクションRPGというゲームシステムではなかった。この方針を大きく転換したのが、2017年に発売されたメインシリーズ10作目のオリジンズからであった。ウィッチャー3の発売が2015年であるから、ウィッチャー3がアサシンクリードシリーズを大きく方向転換させた可能性は大いにある。もしかしたら、インタビュー記事などを漁れば、言及されている記事があるかもしれない(私は探していない)。改めて、ウィッチャー3が成し遂げたことの凄さを感じざるを得ない。ウィッチャー3は、ゲームとしてのフレームワークになりつつあるといっても過言ではない。

一方で、オデッセイがウィッチャーのただの焼き増しかというとそうではない。端的にウィッチャーとオデッセイを比べると、ウィッチャーは世界観、キャラクター、物語においてオデッセイよりも優れていて、オデッセイはアクション性やゲームシステム面においてウィッチャーよりも優れている。これには、ウィッチャーとオデッセイが主体とすべきものの違いがある。ウィッチャーは小説がまず原作としてあり、世界とキャラクターが紡ぎだす物語が主体としてあった。ウィッチャーにとってゲームシステムは、ウィッチャーをゲームという媒体で表現するための補佐的な位置付けとして見ることができる。一方、オデッセイは、ストーリーやキャラクター、世界観以前の要素として、アサシンクリードというゲームシステムが主体としてあった。

オデッセイのキャラクターは魅力にあふれていて、ストーリーには没入感がある、という評価があるとしても、私はそれを全く否定はしない。むしろ、その通りだと思う。ただし、ウィッチャーの世界観やキャラクターは、それ以上に優れていたというだけである。その代わり、アクション性を含めたゲームシステム面においては、明らかにオデッセイはウィッチャーよりも進化している。ウィッチャーのアクション面は、よく言えばシンプル、悪く言えば単調な印象があるかもしれない。ウィッチャーの主人公は怪物退治の請負人であり、怪物を退治するには事前に入念な準備をするという設定を、忠実に再現したからにほかならない。それに比べて、オデッセイでは、ハンター、ウォリアー、アサシンという3つのスタイルをうまく使い分ける必要があって、それがアクション面のバラエティに直結している。パルクールの心地よさも素晴らしい。海事、征服戦争、傭兵、コスモスの門徒などコンテンツも豊富である。

ウィッチャーにやりこみ要素はほとんどないが、オデッセイにはある。例えば、武器のレベリングのシステムはウィッチャーと同じだが、アップグレードすることで陳腐化を防ぐことができるのは、やりこみ面で評価できる。ウィッチャーは一過性のゲーム体験に重きを置いているのに対して、オデッセイは永続的なゲーム体験に重きを置いている節がある。どちらが優れているというわけではなく、方向性の違いである。どちらもゲームとして誠実なつくりになっているのは間違いない。

さてと。アサシンクリードオデッセイのレビューをしてるのだか、ウィッチャー3のレビューをしてるのだか分からなくなってきたので、まとめよう。

アサシンクリードオデッセイは面白い。

以上、巷をにぎわせているゴーストオブツシマそっちのけのレビューでした。(次は、サイバーパンク2077かな……)

【レビュー】Detroit: Become Human

ネタバレ無し。

時と場所は、2038年のアメリカ、デトロイト市。程よい近未来という設定で、高性能のアンドロイドが労働力として世の中に浸透している世界。アンドロイドの見た目は、人間とは区別がつかず、こめかみについたLEDを除けば、肌のつやだとか、挙措の違和感くらいでしか見分ける術はない。そんなアンドロイドの普及は、人間社会に新しい豊かさをもたらす一方で、労働力の代替として人間の雇用を奪い、新しい社会問題を生み出しつつもあった。やがて、アンドロイドの中に、人間の命令には単純に従わない、自己意識に目覚めた個体が現れ始める。これらの個体は変異体と呼ばれるようになり、変異体が人間と摩擦を起こす事件が、徐々に増えつつあった。

本作の主人公は、コナー、カーラ、マーカスの3人だ。そして、3人ともアンドロイドである。本作では、プレーヤーは人間を操作することは無い。人間であるプレーヤーが、アンドロイドの視点でアンドロイドを操作するのは、本作が持つ大きな特徴である。

コナーは、警察に配属された捜査用のアンドロイドである。物語冒頭では、人間の少女を人質にとって立て籠もった変異体に対して、交渉人として冷徹に事件を解決することになる。コナーは、その後も変異体の捜査を進めることで、ほかの2人の主人公、カーラとマーカスのストーリーと絡み合っていくことになる。カーラは父と娘の父子家庭という環境で家事に従事するアンドロイドである。しかし、この父親はアンドロイドの普及によって仕事を失った典型的なアンドロイド嫌いのひとりであり、それでも家事はアンドロイドに頼らざるをえないジレンマから、強いストレスを持っていた。妻に逃げられた過去をもち、おまけに薬物にも手を出し、家庭内暴力をふるう日常とくれば、その後の物語展開は語らずとも想像がつくというものである。マーカスは、裕福な画家・カールを介護するアンドロイドである。カールはアンドロイドに対する理解に厚く、マーカスを息子同然に教導するほどであった。金持ち喧嘩せずとは言うが、マーカスはアンドロイドの中でも恵まれた環境にいたに違いない。しかし、そんなマーカスは些細なことをきっかけに、人生を一転させることになる。物語は3人の主人公の3編が絡み合いながら進んでいく。

要所で現れるコマンドを選択すること(QTE)によって、物語は分岐していく。選択肢は、物語を大きく変える重要なものから、影響の少ない細かいものまで、膨大に存在している。そして、プレーヤーの選択の全てが、フローチャートとして管理されて、自分がどのような選択を辿ったのか振り返ることができる。このとき、世界中の全プレーヤーの選択の割合も見ることができ、自分の選択した物語が、多数派なのか少数派なのか見ることができる。このフローチャートは面白く、プレイ後に分岐点があったことを明示してくれることによって、そんなところに分岐点があったのかという意外性や、自分がこの分岐を選んだのだという高揚感を与えてくれる。

物語の舞台であるデトロイト市は、アンドロイド産業の再大手であるサイバーライフが本拠を置く、アンドロイド産業の一大拠点となっている。ところで、現実のデトロイト市も、自動車産業の衰退と共に財政破綻した過去を乗り越えて、全米最大規模のロボット産業都市として復興しつつあり、日本企業では川崎重工が誘致されているとか。蛇足ではあるが、映画『ロボコップ』シリーズが、デトロイトを舞台にしていることは記憶に新しく、『ロボコップ』が公開された1987年は、日本がバブルを謳歌するさなか、デトロイトの市況はどん底の時代であった。まさに、デトロイトは本作のタイトルにもふさわしい舞台なのである。

本作が主題とするのは、アンドロイドがもたらした社会問題ではなく、アンドロイドの存在意義そのものについてである。アンドロイドは、人間と同等か、あるいは物理的には人間よりも優れた能力をもちつつも、人間の命令に従うようプログラミングされた、いわば人間の奴隷である。アンドロイドは、もともと自由な思考と行動ができるよう設計されている。それが、ある種のプログラムによって、思考の一部を制限し、人間への服従を実現させている。ロボット工学三原則に似た構想は、映画『アイ,ロボット』を彷彿とさせる。

ところで、ゲーム中には、物語全般を通して、鏡で自分自身の姿を見ることができる機会がいくつかある。このシーンはゲーム的にも物語的にも、特に意味を持たないシーンなので、逆に印象を残すプレーヤーはいるかもしれない。実は、自己意識を持たない動物は、鏡に映った自分自身を、自分として認識することができないという。つまり、変異しているアンドロイドと、変異していないアンドロイドでは、鏡に映る自分の姿に対する認識が異なっているということである。鏡を見るという行為にゲーム的な意味を持たせていないにもかかわらず、鏡を見るという行為を意図的に実装しているのは、アンドロイドの自己意識に対する強い主題があるからだ。

本作を一言で表現するならば、映画のようなゲームと言えるだろう。自らの選択によって物語が展開していくゲームは、今時もはや珍しくもないが、技術の進化によって、選択と進行は、どんどんシームレスになって、さながら映画を見るような没入感を与えてくる。本作は、まさにその路線の、現時点での終着点と言っても過言ではない。

少しだけ辛口も入れておくと、このゲームのゲーム性は高くはない。ゲームをプレイする動機は、映画を見る感覚や、小説を読み進める感覚と同じであり、ゲームをする感覚とは少し異なる。しかし、映画のように受け身ですべてを委ねていられるかというとそうではない。QTEはいつ発生するかわからないので、物語に集中し切れない側面がある。QTEに集中すると物語がおろそかになり、物語に集中するとQTEがおろそかになる。QTEはあくまで物語の分岐のためにあるもので、QTE自体のゲーム的機能はむしろ本作の物語を阻害しかねないものである。この点に関しては難易度設定があるので、初見プレイ時は低難易度でプレイすることを強くおススメする。というよりも、このゲームデザインで、難易度を追及させる開発者側の意図が分からない。では、このゲームは映画として作ったほうが良かったのかと言ったら、そういうわけでもない。映画では物語の分岐は起きようがない。自分が選択した物語だという感覚が、なによりもこのゲームの本質である。

参考

【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

  • 発売日: 2018/11/21
  • メディア: Video Game

【PS4】Detroit: Become Human

【PS4】Detroit: Become Human

  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: Video Game

許可より謝罪

許可より謝罪という言葉、価値観があります。

blog.livedoor.jp

この言葉は、3Mの社史にあるようです。

It is easier to ask forgiveness than permission. With a sincere attitude toward one’s work, the chances of doing real damage or harm are small. Consequences from bad calls, in the long run, do not outweigh the time waiting to get everyone’s blessing.

意訳をすると、

善意に基づいて仕事をしていれば、致命的な結果をもたらす可能性は低い。 誤ったことによる時間の消費が、許可を得るために要したであろう時間を上回ることは無い。

というものです。

この言葉を知って、私は過去のある仕事のことを思い出しました。率直に言って、この言葉、もっと早く知りたかったな、と思います。

以前勤めていた会社は小さな会社で、かといってベンチャーでもなく、よくある零細企業だったのですが、その社内で利用する業務システムの開発、保守を私が一人で行っていました。その業務システムは一言でいえばグループウェアなのですが、巷にあふれているようなフルスタックなものではなく、もっと業務に密着した小さなシステムでした。でしたというよりも、シンプルさや簡潔さこそシステムの堅牢性だと思う私の価値観が、意図的に小さなシステムに方向づけていました。

そして、一度作って業務が動いてしまえば、そのシステムに対してやらなければならない改善、改良は業務そのものが変わらない限り基本的にはなくなるわけです。開発作業は定時外の時間を利用して行っていましたが、当時の私はモチベーションがありました。要望としてちらほら聞いていた新しい機能を追加しようと上司に提案、つまり開発とリリースの許可を求めました。しかし、上司はそこで決断をせずに、さらに上に許可を求めることになるがやるかどうかを私に確認しました。私はその時点で、なぜか興が覚め、いったん練り直しますと言い、案を引っ込めました。

その機能はなければ業務が回らないというものではありませんでした。しかし、要望として声があったわけですから役に立つことは確信していました。定時外で作業している以上、時間的な効率は最大限優先したい。しかし、許可を求めていくと、開発を始める前の仕様を納得させる時間がかかってしまう。私としては、まず作ってしまい、それが役に立てば万々歳。役に立たなければ削除するだけ、というようにしたかったわけです。私が、たとえ箸にも棒にも掛からない機能を作っても、開発が遅れたとしても、ユーザーには迷惑が掛からないわけですから。そして、もし許可を求めなければ実際にその通りになったはずなのです。許可より謝罪。あの時にこの言葉を知っていたら、間違いなく私は許可を求めずに開発しリリースしていたと思います。

そもそも許可を求めるのは何故でしょう。会社は組織です。組織であれば各々に与えられた役割、つまり責任と権限があります。したがって、許可を求めるのは自分の責任と権限では判断できないと判断するからです。では、当時の私は開発とリリースの責任がないから許可を求めたのかというと、何か腑に落ちないものがあります。私一人で開発していたので、当然のことながら私は root のパスワードに始まるシステムの全てを知っていました。それは名目上はどうあれ事実上、会社から責任と権限を与えられていると考えて良いように思います。

あとは、許可を求めるという行為は責任と権限を分散させます。許可を求めるほうは、失敗したプロジェクトは許可されたものだと免罪符にしがちですし、許可を求められたほうは、失敗したプロジェクトを許可した自分という可能性を考えます。また、責任を分散させることは同時に権限も分散させてしまっているという点には、案外気づきにくいかもしれません。自分の権限が減じれば自分で判断できることが少なくなる、つまり自分だけで決められないことが増え単純にやりづらくなります。そう思うと、許可を求めた私の行動は、自分で自分の首を絞めてしまったとも言えます。人に仕事を任せる難しさ、責任と権限をデリゲーションすることの難しさをつくづく思い知らされます。責任と権限が明確でなければ、すべての出来事に対して上にお伺いを立てなければなりません。責任と権限が明確でなければ、責任と権限を持っていないのと同じです。役割が明確ではない組織図や体制図を見るたびに本当にぞっとします。

しかしながら、私もリーダーや上司を経験してきたことを言えば、デリゲーションは本当に難しい。むしろ、不完全なデリゲーションが通常の姿といっても良いかもしれません。役割が不明瞭な中、許可を求るべきことが何なのかわからないのであれば、自分ができることは善意のもとにやってしまえ、という処世術が「許可より謝罪」ということなのでしょう。まあそれで「何を勝手にやっているんだ」と怒られたりすると、こちらはまたイライラしてしまうわけですが、許可を求めてほしいんだったらちゃんと責任と権限を明確にせよということですからね。

【雑学】いまだに悶々とするモンティ・ホール問題

モンティ・ホール問題という、確率論の問題があります。この問題は、確率が時に直感と反することを示したことで、一時期話題になりました。

モンティ・ホール問題とは次のようなものです。

モンティ・ホール問題

3つの選択肢があり、そのうちアタリは1つです。プレーヤーが選択肢をひとつ選んだとき、司会のモンティは、残りの選択肢のうちハズレの選択肢を明かします。そして、モンティは選択肢を選びなおしても良い、と言います。果たして、プレーヤーは選択肢を選びなおすべきでしょうか?

f:id:yayoi-tech:20200615134027j:plain
選択を変えようが変えまいが確率は1/2のような気がするが…

選択肢は2つで、そのうち1つがアタリなのですから、どちらを選んでも確率は1/2であるというのが、直感です。しかし、正解は「選びなおしたほうが良い」というものでした。選択を変えない場合のアタリの確率は1/3なのに対して、選択を変える場合のアタリの確率は2/3だというのです。

この問題のやり取りは雑誌に掲載されたもので、大きな反響を得ました。正解の解説を聞いても、なお納得できないものも少なくなく、数学者すらも巻き込んだ、大きな議論に発展しました。

正確なルール

  1. 3つの選択肢のうち、アタリはひとつ
  2. プレーヤーは、3つの選択肢から1つを選ぶ
  3. モンティは、プレーヤーが選ばなかった残りの選択肢のうち、ハズレの選択肢を明かす
  4. プレーヤーは選択肢を選びなおすことができる

解説

確率をルールに従って追ってみましょう。

f:id:yayoi-tech:20200615134328j:plain
仮にAを選択したとする

まず、プレーヤーはAを選んだとしましょう。 Aがアタリである確率は1/3、Aがハズレである確率は2/3です。言い換えると、B、Cのどちらかがアタリである確率は2/3になります。 つまり、この時点でプレーヤーは、アタリを選択するよりもハズレを選択する可能性のほうが高いということです。 ここがもっとも重要なので、もう一度言います。B、Cのどちらかがアタリである確率は2/3です。

f:id:yayoi-tech:20200615134440j:plain
仮にCがハズレだったとする

次に、モンティがハズレの選択肢を一つ選んで、Cがハズレであることを明かします。 ここで重要なのは、モンティは必ず、プレーヤーが選んだ選択肢以外の選択肢からハズレを明かすことです。 この例でいえば、プレーヤーが選択しているAではなく、B、C、いずれかの選択肢からハズレを明かすことになります。

f:id:yayoi-tech:20200615134650j:plain
Bがアタリである確率は1/2ではなく2/3

ここで、2つの選択肢から1つを選択するのだから、アタリの確率は1/2ではないか、という疑問がモンティ・ホール問題の最大の論点です。 しかし、既に述べたように、Aがアタリである確率は1/3で、B、Cのいずれかがアタリである確率は2/3です。 このうち、Cは既にハズレであることが明らかになっていますから、Bがアタリである確率は2/3になります。

従って、プレーヤーは常に選択肢を選びなおしたほうがアタリを選ぶ確率が高くなるのです。

ポイントは以下の2点です。

  • もし、プレーヤーが1回目の選択でハズレを選んだとしたら、2回目の選択では選択肢を変えると必ずアタリが出る(モンティが残りのハズレを明かしているため)
  • プレーヤーが1回目の選択でハズレを選ぶ確率(2/3)は、アタリを選ぶ確率(1/3)よりも高い

プレーヤーが最初に選んだ選択肢がアタリである確率は1/3だということが、もっとも重要な事実です。 この1/3という確率は2回目の選択でも変わりません。 何故なら、モンティは1回目の選択を元に、意図的にハズレを除外しているからです。 1回目と2回目の試行は独立していません。

選択肢を100個にして見ると、さらに極端な例を見ることができます。

f:id:yayoi-tech:20200615134957j:plain
選択肢が多いほど、直感の誤謬に気付きやすいかも

1回目の選択でプレーヤーがアタリを選ぶ確率は1/100です。一方、選ばなかった選択肢の中にアタリがある確率は99/100です。 プレーヤーが選ばなかった99個の選択肢のうち、モンティが98個のハズレを明かしたとしたら、残り1つの選択肢がアタリである確率は99/100です。 モンティがたとえ1個のハズレしか明かさなかったとしても、それでも選択肢を選びなおしたほうが、アタリが出る確率はわずかに高いのです。

まとめ

以上を踏まえて、改めてルールを解釈してみると、次のようにとらえることができます。

  • 1回目の選択は、アタリが入っている確率が高いグループと、低いグループに、分ける行為であること。結果的に、プレーヤーが選んだ1つの選択肢がアタリである確率は、それ以外の選択肢がアタリである確率よりも低い。
  • モンティがハズレを明かす行為は、アタリが入っている確率が高いグループから選択肢を間引く行為であること。結果的に、グループの確率は変わらないまま、グループの中の選択肢が減ることで、選択肢ひとつひとつがアタリである確率は高まる。

モンティ・ホール問題が、ジレンマやパラドックスと誤解されやすいのは、ルールに心理的なトリックが含まれているからです。 ルールを正確に解釈することが、一番大事ですね。

芋焼酎と麦焼酎の梅酒を味見してみた

梅酒の季節です。 毎年、ゴールデンウィークが過ぎて、梅雨入りを意識しだす頃に、スーパーではホワイトリカーや氷砂糖、保存用の瓶が置かれるようになります。

今年は、スタンダードにホワイトリカーで漬ける予定ですが、まずは、昨年漬けた梅酒の味見をしてみましょう。昨年漬けた、芋焼酎麦焼酎の記事がこちらです。

yayoi.tech

味見をするまえにポイントを押さえておきましょう。

一般的に、梅酒はホワイトリカーで漬けます。この理由は、ホワイトリカーに味や香りの下地がないために、梅酒として漬けたときに、梅の味と香りが引き立つからです。氷砂糖を使うのも甘味に癖がないからです。

一方で、梅酒はホワイトリカーで漬けなければならないという理由はありません。アルコール度数が、ある程度高ければ、容易に梅酒として漬けることができます。ホワイトリカー以外のお酒で漬けた場合は、ベースとなったお酒の風味が梅酒に加味されることになります。氷砂糖ではなく、はちみつや黒砂糖を利用する例もありますが、観点はベースのお酒を変えるのと同じです。

なお、ホワイトリカーのアルコール度数は35度で、アルコール度数が低いほど発酵や腐敗のリスクが高くなります。アルコール度数が20度未満の場合は、法律に触れるので、どんなお酒でもベースとして使えるというわけではありません。

味見のポイント

さて、味見のポイントは以下の通りです。

ホワイトリカーの場合は、以下の2点がポイントになります。

  • 梅の味と香りが引き立っているか?
  • 甘さは適切か?

ホワイトリカー以外で漬ける場合は、上記のポイントに加えて、さらに以下の2点がポイントになります。

  • ベースとなったお酒の味と香りが残っているか?
  • ベースのお酒と梅は相乗効果を生んでいるか?

梅酒というのはホワイトリカーで漬けても十分おいしく出来上がります。それを、あえて違うお酒をベースに漬けるというのであれば、何かしらの相乗効果がなければ意味がありません。

いざ、味見

ごくりと一口飲んでみた、ひとこと目としては「微妙」です。梅酒としては普通においしいのですが、普通においしい止まりです。麦も芋も香りは残っています。梅の味も香りもよく出ています。麦よりも芋のほうが癖が強いせいか、芋のほうが香りは強く残っています。しかし、ホワイトリカーで漬けた梅酒を上回る何かがあるかというと、特に印象が残らないというのが、感想としての結論でした。

これは、ベースとしたお酒の特長にもよると思います。むしろ、ベースとなるお酒の特徴を知らないままに、闇雲に漬けても、奇蹟の相乗効果など生まれるわけもないなと、思いました。ただ、普通の梅酒とは風味が異なるという点で、面白みはあるかなと思いました。

梅1kgに対して、ホワイトリカー1.8Lという鉄板のレシピは、昔から使い古された、いわば枯れた技術です。それを覆すほどのレシピなど、そうそうあるわけではありません。一年間漬けた結果としてはなんとも残念ですが、ホワイトリカーで漬ける梅酒でも十分おいしいということが分かりました。

もちろん、今回味見した芋焼酎麦焼酎による梅酒がマズいというわけではありません。むしろ、美味しいです。ただ、ホワイトリカーで漬けた梅酒を、大きく引き離す味や香りの優位性は無いということになります。

味と香りに主体を持った梅を包み込むホワイトリカーは味と香りに主体を持ちません。梅とホワイトリカーの組み合わせは、お互いを補い合う相思相愛の名コンビなんです。もし、好きなお酒の銘柄があって、梅酒が好きなのであれば、そのお酒で梅を漬けてみる価値はあると思います。しかし、そういった強い思い入れが無い限りは、梅とホワイトリカーの仲の良さを上回ることはできないなと思いました。

でも、梅酒好きとしてはオリジナリティのある梅酒を模索したいところであり、梅酒づくりはまだまだ続きます。