弥生研究所

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【レビュー】サイバーパンク2077~ありがとうCD PROJEKT RED

【ネタバレ無し】12/10(木)に発売されたサイバーパンク2077の感想を残しておこうと思います。

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改めて説明するまでもないかもしれませんが、サイバーパンク2077はポーランドのゲーム開発会社である CD Projekt RED が開発したアクションRPGです。2077年という近未来、カリフォルニア州のナイトシティという架空の都市を舞台としたオープンワールド系のゲームです。

売上は予約時点で800万本を超え、12/20には累計1300万本を超えたと公式発表されています。さらに、予約分の売り上げが、すでに開発費と広告費の全額を越えている見込みを発表しています。一方で、発売前には当初4/16であった発売日と9/17に延期し、その後、11/19、12/10と、最終的には累計で3度に渡って発売を延期し、開発の困難さを露呈しました。延期に至らせた品質の向上に関しては、発売時点でも十分であったとはいえず、多くのバグを抱えた本作は批判を受け、返品対応やダウンロード版の販売中止などが発生しました。

さて、ではひとりのプレーヤーからみたサイバーパンク2077はどうでしょうか。私は、発売日に購入し、12/31今日時点でプレイ時間は100時間を超えた位です。メインストーリーは一通り消化し、いわゆる一週目はクリアした状態です。今は、二週目をプレイ中で、一週目で消化できなかったサイドジョブや選択肢を楽しんでいるところです。プラットフォームはPS4(通常版)のダウンロード版です。

まず、世間でも騒がれているバグ、つまりゲームとしての価値の前に、製品としての品質について言及したほうが良いでしょう。残念ながら、品質に関しては褒められた状態ではないのは間違いありません。一番困るのはプレイ中にフリーズして落ちることでしょうか。これは数時間に一度の頻度で発生しました。ただし、オートセーブやクイックセーブが用意されているので、いきなり終了しても致命的なことはありませんでした。とはいえ、クリア後のエンドロールで強制終了したときはさすがに興ざめして閉口しましたが。進行不能バグもあるようですが、私は幸い遭遇することはありませんでした。一部のサイドジョブは一時的に進行できないものもありましたが、最終的に進行不能という状態になったことはありません。一部の界隈では返品や訴訟などの問題として大きくなっているものの、遊べないレベルのものではなく、作品自体はむしろ遊んで十分楽しいものです。なお、私のプラットフォームは通常版のPS4であるからにして、最もバグに遭遇する頻度が高いプレーヤー層の一人であることは間違いないでしょう。その私が、サイバーパンク2077は十分楽しめる品質に至っていると判断しています。CD Projekt RED の前作であるウィッチャー3もバグが多かったことを顧みれば、サイバーパンク2077の品質も今後改善されていくことが期待できます。低い品質の原因については推測の域を出ませんが、コロナ禍の影響を除けば、発売時期がPS4とPS5の過渡期に当たったというのが主な原因ではないかと思います。PS4ではグラフィックの劣化ぶりが騒がれましたが、実際、PS4でプレイする私でも読み込みの遅れは、ほぼ常時発生していました。サイバーパンク2077は、どちらかと言えばPCのフラッグシップモデルで最適化されていました。開発元の CD Projekt RED は、コンシューマーゲーム機での映像表現について、広報の考慮が足りていなかった旨を公式に発表しており、これが同社の返品対応へと繋がっています。

次にゲームとしての本質について少し触れます。ウィッチャー3のプレーヤーであった私にとって、サイバーパンク2077の挑戦は一人称視点(FPS)であったということです。これにより、結果的に何がもたらされたかというと、主人公であるVの個性が前面に出るのを抑え、プレーヤーをより主人公としての立ち位置に寄せることになりました。ウィッチャー3はゲラルトという強烈な個性をもった主人公を三人称視点で描くことで、プレーヤーは主人公に共感する傍観者でしかありませんでした。これは、最終的にどちらが好みかという結論に帰着するものの、プレーヤー自身が物語の主人公になってほしいという開発側の意図をくみ取れるもので、それは十分機能していると感じました。その点で、キャラクターメイキングで選択できる性別は、プレーヤー自身の性別認識に添ったほうが良いだろうと思ったくらいです。自分自身を男性だと認識するプレーヤーが女性主人公を操作すると、プレイしていてどことなく違和感を感じます。それはプレーヤーが主人公の傍観者ではなく、主人公そのものであることを意図しているからであろうと推測します。

ゲームとしての本質に関しては、ゲーム性と物語に分けることができます。ゲーム性は一人称視点という特徴に加えて、アクション面に着目することができます。サイバーパンク2077は主に、FPSとしてのアクションに注目が向きがちですが、実はそれだけにとどまらない多様なプレイ体験を実装しています。主人公のビルドによっては、全くの別のゲームではないかと言えるほど、ゲーム体験に違いがあります。まず、本来FPSを独擅場とする銃火器について、言わずもがな多くのバリエーションがあります。ハンドガン、マシンガン、ショットガンと言った従来の種別に加えて、それぞれの武器種がパワー、テック、スマートといった独自の分類に分けられています。それぞれの分類に対して使い勝手が異なるので、同じハンドガンという種類を使ってもゲーム性がかなり違います。ただ目標をエイムして引き金を引くだけの行為にバリエーションを持たせたことは、ゲーム性の向上に高く貢献しています。例えば、グランドセフトオート5(以下、GTA5)は、近代的な街並みを自由に歩き回るという点で、サイバーパンク2077と似た印象を持つことができます。ただ、GTA5には武器の違いはあれど、エイムしてトリガーする単純作業に違いがありませんでした。フォールアウト4(以下、FO4)では、V.A.T.S. と呼ばれるコマンド式のシステムがエイム・トリガーの単純作業に幅を持たせることに成功しました。ほかにもバイオショックや、ボーダーランズなど、FPSというシステム性でRPGの分野に進出したゲームは、いずれも単なるエイム・トリガーにならないような工夫が見られます。今では、純粋なエイム・トリガー型のゲームは、競技性を強めてEスポーツの分野へと進出し、あくまでも一人遊びであるRPGの中では、もはや選ばれにくい選択肢かもしれません。サイバーパンク2077は、RPGFPSを実現するための、ひとつの解をまた生み出しのではないかと思います。個性的な武器で飽きさせない特徴は、どことなくボーダーランズと同じ方向性を感じました。銃火器だけではありません。近接武器にもかなり力が入っています。サイバーウェアやパークを組み合わせると、一方的に敵をなぎ倒していくことができます。ステルスプレイに徹しようとすれば、メタルギアソリッドのようなプレイ感を得ることもできます。さらに、クイックハックなどを駆使すれば、それこそ攻殻機動隊さながらに、電脳戦で一方的に相手を無力化することが可能です。とにかく、自分が目指すプレイスタイルによって、その都度新しいサイバーパンク2077を知ることになります。

物語に関しても大きく舵を切ってきました。発売前からすでに言及されていたことですが、メインストーリーはウィッチャー3に比べるとだいぶ短くなっています。それでも、プレーヤーを飽きさせない牽引役として物語は十分に機能していました。もし、ボリューム不足を感じたのであれば、これから予定されているダウンロードコンテンツに期待しても良いのではないでしょうか。私は、何の事前知識もなくサイバーパンク2077を遊び始めた口ですが、グイグイと引き込む展開の中で、明らかになる深いテーマ性と、壮大な世界背景には意外な気持ちがしました。サイバーパンク2077にどのようなテーマを見出すかは、プレーヤーそれぞれだと思います。私は、サイバーパンク2077が狙っているテーマは、生き方と死に方、つまり死生観だと思います。科学技術の発展により、肉体と機械と精神は、より不可分になっていきます。それに付随する問題は数多くのSF作品がテーマとして扱ってきました。サイバーパンク2077もその系譜の一つと言えるでしょう。どんなに、科学技術が発展しても、生まれて死ぬという生命としての宿命は避けられません。そこから生まれる苦悩や幸福に関しては、原始の頃から全く変わらないものです。人間は変わっているようで全く変わっていないのです。でも、もしそれが変わるとしたら……。もし、まだプレイしていない人がいたら、もしクリアしていない人がいたら、ぜひ自分だけのストーリーを全うしてください。

思えば、CD Projekt RED のゲームを遊ぶのはウィッチャー3以来のことでした。それは、血塗られた美酒にて、ゲラルトにカメラ目線で微笑みかけられて以来の再会です。私は、あのエンドロール直前の最後のシーンこそが、CD Projekt RED の姿勢の神髄だと思っています。彼らのものづくりの先には、常にプレーヤーである私たちがいます。作中の主人公がプレーヤーに直接メッセージを送る手法は、今までにない感動を私にもたらしました。その感動の熾火が私をサイバーパンク2077へと仕向け、彼らの誠意に当てられたからこそ予約販売が800万本を超えたのです。彼らの誠意はまだ健在です。返品対応もその一つです。彼らはプレーヤーに対して誠実であり続けています。

私が、サイバーパンク2077の感想として言いたいことは一言なのです。ただ、ありがとう、その一言なのです。度重なる発売延期とコロナ禍の中で、開発会社内ではクランチと呼ばれる過労状態があったことも報道されました。彼らは、そしてサイバーパンク2077は、十分に私の期待に応えてくれました。こんなゲーム体験を提供してくれて、本当にありがとう。発売日が12/10という年末に延期されたことで、私はむしろ充実した年末を過ごすことができたかもしれません。一日中ゲーム漬けになるのは久しぶりのことです。おかげで、私なりに良い年を迎えることができそうですよ。本当は、もう少し早くサイバーパンク2077について書きたいところだったのですが、ついついプレイを優先してしましました。

それでは、最後に一言。

「よお、チューマ。いい年を迎えろよ。」(森川智之さんの声で)

【PS4】サイバーパンク2077

【PS4】サイバーパンク2077

  • 発売日: 2020/12/10
  • メディア: Video Game

ルパン三世 THE FIRST~ブレイク・スナイダー流に解析する物語の構造

物語の管理を主力とする業界では、この本は当たり前の本でもあるらしいです。門外漢の私にとっては、そういった当たり前の本と出会うことも難しかったりするのですが、それゆえにいざ出会って読んでみると、この手の本は目から鱗が落ちるような経験をすることが多いです。

ところで、11月27日、『ルパン三世 THE FIRST』が地上波で初放送となっていました。

lupin-3rd-movie.com

せっかくなので、『ルパン三世 THE FIRST』を『SAVE THE CAT』流に分析したいと思います。

本当のジャンルとは

『SAVE THE CAT』が面白いのは、物語のジャンルに新しい軸を作ったことです。ブレイク・スナイダーはこれだけとは限らないと釘を刺したうえで、以下のジャンルを提唱しています。

  1. 家の中のモンスター
  2. 金の羊毛
  3. 魔法のランプ
  4. 難題に直面した平凡な奴
  5. 人生の節目
  6. バディとの友情
  7. なぜやったのか?
  8. バカの勝利
  9. 組織のなかで
  10. スーパーヒーロー

一般的に、物語のジャンルと言えば、アクション、ホラー、コメディ、SFなど、そういった類のジャンルを思い浮かべると思います。ブレイク・スナイダーが提唱するジャンルは一見、何なのか良く分かりません。しかし、この新しいジャンルで物語を見てみると、思いもよらない二つの作品が、実は同じジャンルということがあります。例えば、『スター・ウォーズ』と『オーシャンズ11』が同じジャンルとは俄かには信じられないことでしょう(ちなみに、両者はどちらも金の羊毛というジャンルです)。

では、今作『THE FIRST』のジャンルは何でしょうか。私はバディとの友情だと考えます。ひとつひとつのジャンルの説明は『SAVE THE CAT』を実際に読んでもらうこととして、バディの友情とは、反発しつつも信頼関係を築いていく過程を物語にしたものです。ルパン三世シリーズはおおむね、バディとの友情を主軸に置きつつ、異なるジャンルを隠し味として加える手法を取っています。ルパン三世が、作品によって印象を異にするのは、隠し味として加えられているサブジャンルが異なるからです。例えば、『ワルサーP38』では、家の中のモンスター、組織のなかで、といったサブジャンルが加えられています。家の中のモンスターというジャンルは、ジョーズやエイリアンに共通するもので、極限の緊張感を特徴とします。『カリオストロの城』は、金の羊毛というサブジャンルが加えられています。カリオストロの財宝を狙ったルパンが得たものは、最終的に財宝ではなく、過去との決別、主人公たちの精神的な成長だけでした。今作のサブジャンルをあえて考えるとすれば、人生の節目でしょうか。リティシアがランベールという養育者から自立していく物語と、今作を捉えることもできます。

主人公は誰か

結論から言えば、今作の主人公は、リティシアです。実はルパン三世シリーズの主人公は、ほとんどの場合ルパンではありません。何故かというと、ルパン三世シリーズは認知度を高めコンテンツとして成熟するにつれて、主人公であるルパンが主人公の役割を全うしにくくなったからです。これは、長く続くシリーズ物の宿命でもあります。この問題の解決策として、ルパン三世シリーズはルパンではなく、ゲストキャラクターに主人公の役割を負わせるようになりました。

では、物語における主人公の役割とは何でしょうか。それは、視聴者に共感してもらうことです。そして、共感してもらうためには、主人公は決定的な問題を抱え、その問題を解決することによって、変化していくことが求められます。問題を抱えず、変化しない登場人物は主人公の役割を全うできません。

今作のルパンは何も問題を抱えず、何も葛藤せず、何も変化しません。これは次元、五右衛門、不二子、銭形をとっても当てはまります。変化すべき対象として捉えられるのは、常にリティシアだけです。葛藤を持つ者だけが主人公となります。

ビートシートに当てはめる

『SAVE THE CAT』ではブレイク・スナイダー・ビート・シートという物語のテンプレートを紹介しています。このテンプレートは、英雄の旅と呼ばれる神話に通じるものでもありますが、その詳細は『SAVE THE CAT』を読んでください。ここでは、『THE FIRST』を実際にビートシートに当てはめることで、物語の展開を分析します。

  • オープニング・イメージ
    • アバンタイトルまで。ブレッソン教授が、娘夫婦に日記を託して自宅から逃亡させる。ブレッソンはその直後に突入したナチス兵たちの凶弾に倒れる。逃亡を図った夫婦もナチスの追跡を受け、カーチェイスのすえ事故死する。生き残ったのはまだ赤ん坊である夫婦の娘・リティシアだけ。追跡者であるランベールも負傷し、リティシアが抱いていた鍵のみを奪って現場から逃亡する。
    • この時点で、登場人物の名前までは明かされないが、主要な人物であるリティシアとランベールは登場している。この事件を発端にしてリティシアには強力な運命の拘束が待ち受けているであろうことを視聴者に予感させる。
  • テーマの提示
    • リティシアは日記を盗む過程で、同じく日記を盗もうとしたルパンと鉢合わせする。「泥棒は嫌々やるもんじゃねぇぜ」ルパンはリティシアを見た直後から、リティシアが本心から日記を盗もうとしていないことを見抜く。このセリフは、序盤だけでなく物語の節目で幾度となく形を変えて表現される。
  • セットアップ
    • 最終的に日記を奪い去ったのはランベールに雇われた不二子であった。盗みが不調に終わったルパンは銭形に捕縛されるが、次元と五右衛門の助けによって解放される。冒頭の日記の争奪戦によって、ルパンシリーズの主要となる登場人物はすべて出そろう。一方、ゲストとなる登場人物も同様に出そろう。ランベールの背後にいるゲラルトと呼ばれる男の存在が明らかになる。
  • きっかけ
    • リティシアとルパンの出会いが、リティシアへのきっかけとなっている。しかし、リティシアは簡単には変化しない。簡単に変化するような変化には意味がないからだ。リティシアはルパンに協力するふりをしてランベールに通じ、ルパンを利用しようとする。
  • 悩みのとき
    • リティシアには、考古学に対する非凡な情熱と才能ゆえに、ボストン大学への進学という夢があった。リティシアは、進学にはランベールの賛同と援助が不可欠と考えており、そのリティシアの思いを逆手に取るランベールは、リティシアの才能を私欲のために利用していた。リティシアもまた、ランベールのために本心ではないことをすることに葛藤があった。世界の何が変化すべきなのか、視聴者は理解する。
  • 第1ターニング・ポイント
    • 日記には、エクリプスと呼ばれるエネルギー発生装置に関する情報が記載されていた。ルパンの助けによって日記を得たリティシアはルパンに銃口を向ける。ルパンはランベールたちに拘束される。しかし、リティシアは、ゲラルトがナチスの復活を目指すアーネンエルベの一員であること、そしてエクリプスをそのために利用しようとしていることを知ると、激しく葛藤する。ゲラルトは真実を知ったリティシアを殺すべく迫るが、間一髪リティシアを救ったのがルパンであった。
    • リティシアはこの第1ターニング・ポイントをもって、ルパンを利用する立場から、ルパンに協力する立場となる。同時に、ランベールの束縛と庇護を受ける立場から、自立した立場となる。この変化は不可逆である。リティシアは、自らが背負っていた運命の拘束を、自らの力で解く第一歩を踏み出した。
    • リティシアが機内からパラシュート無しで追放されるシーンは、閉鎖的な環境から開放的な新世界への変化を象徴している。また、パラシュート無しで飛び込んだ(飛び込まざるを得なかった)リティシアを救ったのがルパンであったことは、リティシアがまだ導き手を必要としていることを示唆している。
  • サブプロット
    • ルパンシリーズにおけるサブプロットは、ルパンシリーズを象徴する掛け合いと取ることができる。ブレイク・スナイダーによれば、サブプロットはロマンスの形を取ることが多いとされ、ルパンシリーズもまた例外ではない。本作のヒロインであるリティシアがルパンにささやかな好意を寄せていることは明らかである。『カリオストロの城』におけるクラリス然り、ヒロインとルパンの関係性はルパンシリーズの定番である。ヒロインとの関係性はルパンだけに止まらない。『燃えよ斬鉄剣』では五右衛門と桔梗がその役を果たした。さらに『炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜』でヒロインの相手役となったのは、なんと銭形であった。
  • お楽しみ
    • 日記を読み解いたルパン一行は、敵を出し抜いてエクリプスが眠るとされる遺跡を攻略する。遺跡内には様々な罠があり、ランベールたちが立ち往生する中、ルパンたちはメンバーそれぞれの活躍によって試練を乗り越えていく。
  • ミッドポイント
    • ルパンたちは、試練を乗り越えた先にエクリプスを発見する。しかし、まさに成功直前というところで、ランベールたちに不意を突かれ、リティシアは捕まり、エクリプスは奪われる。物語の主導権が、ルパンたちからランベールたちへ移る。
  • 迫りくる悪い奴ら
    • エクリプスを起動させたランベールはブラックホールを生み出して、あたり一帯を消滅させる。その尋常ならざる力を得たランベールは半ば狂人となって、ゲラルトの意向すら無視して、自らが世界の王になると言う。ランベールの中の権勢欲と劣等感が、最大に発露するシーンである。
  • 全てを失って
    • リティシアが失ったものはランベールである。エクリプスを止めようとするリティシアに銃を向けるゲラルト。まさにゲラルトが発砲する瞬間、リティシアの代わりに銃弾を受けたのがランベールであった。死に際のランベールの回想には、リティシアを養育した動機は私欲であったとしても、そこには愛が全く無かったわけではないことを表現している。また、リティシアにとっても、ランベールがどんなに非道な人間だったとしても、育ての親であることに変わりがなかった。リティシアは唯一の家族を失う。
  • 心の暗闇
    • ランベールを失い、ルパンたちを失ったリティシアは、ゲラルトにとらわれて、ヒトラーと対面する。失意のリティシアは抵抗空しく監禁され、ヒトラーはエクリプスを使うべくゲラルト共に立ち去る。
  • 第2ターニング・ポイント
    • エクリプスに案内されたヒトラーは車椅子に乗っていたにもかかわらず、おもむろに立ち上がる。驚き不審がるゲラルト。一方で、監禁されるはずのリティシアを監視していたのは、アーネンエルベに変装した次元であった。そしてヒトラーの仮面を脱ぎ去るルパン。絶体絶命、為す術無しの状態から、一気に形勢を逆転させるこのシーンこそ第2ターニング・ポイントにあたるものである。
  • フィナーレ
    • ルパンはエクリプスそのものを消し去るためにブラックホールを発生させる。それを止めようとするゲラルトであるが、手遅れであることを悟ったゲラルトは、ルパンを道ずれにしようとする。ブラックホールが辺りを食らいつくしていく緊張感の中、ルパンとゲラルトは最後の戦いを行い、そしてルパンは勝利する。
  • ファイナル・イメージ
    • 全てが結着しようとする中、ルパンたちを逮捕しようと銭形が動き出す。ルパンは銭形から逃げる最中、一通の封筒をリティシアに渡す。それは、ボストン大学からの招待状であった。もはやリティシアには自らの才能を発揮するにあたって、何の束縛も障害もなかった。

結局面白かったのか

今作『THE FIRST』をビートシートに当てはめてみると、綺麗に当てはめることができます。『THE FIRST』がきっちり映画として成立しているのは、結果的にビートシートに忠実だからでしょう。ただし、面白かったかでいうと、可もなく不可もなくというのが率直なところです。この原因は何でしょうか。

ひとつ目は、リティシアの主人公として求心力の弱さです。上述の通り、リティシアは解決すべき問題を抱えた主人公です。しかし、その葛藤が若干力不足です。リティシアの葛藤は、言ってみれば毒親からの独立です。共感を得やすくはありますが、ルパン三世の物語に組み込むにはいささか平凡に過ぎます。それが、ナチスの復活といった悪と対比されると、主人公の葛藤にしては陳腐という印象になります。

ふたつ目は、悪役が力不足です。ランベールは最終的に世界の王になるとのたまい、狂人じみた悪役を演じますが、それでいながらリティシアへの良心を捨てきれず、悪役に徹し切れていません。ちなみにランベールが葛藤を持っているという意味では、リティシアと役割が被ります。悪役が葛藤を持っていては悪役になりきれません。結局、ランベールは良いヤツでも悪いヤツでもなく、ただの小物として退場することになります。さらに、ランベールを小物せしめているゲラルトも、結局はヒトラーの手下にすぎず、その行動原理は官僚的でカリスマ性は皆無です。視聴者からの同情や共感を一切受け付けない圧倒的な悪の権化が不在なのです。

物語は綺麗にビートシートにハマりながらも、脚本の洗練が足りないために、形式的になっています。もうすこし登場人物(特に悪役)の掘り下げがされていれば、もっといい作品になったのではないかと思いました。

『SAVE THE CAT』を読むことによって、私の映画の見方も少し変わりました。何が面白いのか、何が面白くないのかということに対して、もう一歩踏み込んで分析できるようになりました。『SAVE THE CAT』は物語を商品とする人でなくとも、映画好きの人にはお勧めできる本です。『ルパン三世 THE FIRST』は分析してみるにはちょうどいい作りの映画でもありました。

ルパン三世と言えば、私の心によく残っているのは以下の作品です。

この頃は、録画と言えばまだVHSの時代でして、映像が劣化するくらい何度も見返した記憶があります。いずれ、これらの作品も分析してみたいですね。

赤毛のアン~名前を知っていても物語を知らないあなたへ

NHKにて、『アンという名の少女』が、9/13~11/1という期間で放送されていました(最終回は明日11/1です)。

www.nhk.jp

この作品は、カナダ放送協会とNetflixによる共同制作で、著名な『赤毛のアン』を現代的に再構築した映像作品です。

赤毛のアン』はカナダ文学の草分けと評価されるルーシー・M・モンゴメリの作品で、その発表はおよそ一世紀前となる1908年です。日本では、1952年の村岡花子訳を皮切りに多くの翻訳があります。邦題である『赤毛のアン』も村岡花子によるもので、原題は『Anne of Green Gables』です。1973年の神山妙子訳は原作に忠実であり、これを底本としたアニメは同様に高い評価を受け、海外へ逆輸入されていきました。この年代に幼少期を過ごした女性の中には、熱烈なファンも多いようです。私の母に言わせると、友人の中にはいまだに物語を精細に覚えている人がいるようです。

アンは、老兄妹に引き取られた孤児の女の子です。物語は、日本でいうところの小学校高学年から高校生あたりまでの、アンとその周囲の日常を描いたもので、現代的なジャンル分けをするならば、日常系と呼ばれる作品に相当します。日常系という言葉は、2000年以降の日本のアニメから生まれたものですが、赤毛のアンは間違いなくそういったジャンルの源流の一つと言えます。

赤毛のアンという作品名を知っていても、その物語を知らない人は、思いのほか多いのではないでしょうか。それは、もともとが児童文学と見なされていることや、主人公がアンという女の子であることも関連性があるかもしれません。私個人の事例でいえば、赤毛のアンという作品の存在は知っていても、その小説、アニメのいずれも見ることなく育ち、ついぞこの日まで内容を知らずに生きてきました。そうです。『アンという名の少女』というNHKのドラマを見るまでは。

今この記事を書くに至ったのは、『アンという名の少女』を八週間にわたって視聴し、その物語に些か傾倒したからです。原作を知らない私が、この作品を見てアンを知ったというのはおこがましい話ですが、それでもアンという物語の全体像や下地を知ることはできました。私には原作との比較はできませんが、映像作品を率直に評価することはできます。『アンという名の少女』の魅力をちょっとだけ伝えたいと思いました。

私が一番最初に感じたのは、アンってこういう性格の女の子だったんだという驚きです。あまりに個性的で、第一印象としてちょっとキツイなと思わせる女の子。アンの物語の基礎知識のない私にとって、それが既に驚きでした。それは私だけでなく、物語の中の登場人物においても同様であり、それゆえにアンは時に迫害ともいえる仕打ちを受けることがあります。これは制作者側の完全な仕掛けであり、視聴者の大部分が同じ共感を得ることを狙っています。しかし、アンには奇抜な個性だけでなく、強烈な善性も持ち合わせています。アンの周囲の人たちがアンの魅力に気が付き始めるとき、視聴者は完全にこの物語の虜になっているという寸法です。

アンの周囲の人たちもまたしっかりとキャラクター付けされています。義母に等しいマリラは、最初はアンの奇矯とも言える挙措に戸惑いますが、やがてアンを理解し、時に厳しく、時に慈しみをもって接するようになります。マリラの兄であるマシューは、マリラとアンの板挟みにありつつも、早くからアンへの理解を進めて、人格的に奥行きのある人物として、序盤のアンの精神的な拠り所でもあります。そして、特筆すべきは無二の親友であるダイアナの存在でしょう。可愛らしくて平凡で、常識的で上品な、お嬢様という表現がぴったりの女の子です。それゆえに思想的に全くアンとぶつからず、常にアンとその周囲の緩衝として活躍し、アンにとっていなくてはならない存在になります。アンの物語の序盤は、アンが周囲に馴染むことと、周囲がアンを理解すること、それに関連した問題と解決をテーマとしています。

アンの物語はアンの人生をただ追っているだけです。それなのになぜ、ここまで面白く引き込まれるのでしょうか。アンは特別な女の子ではなく、その周りに起こる出来事も特別ではありません。ただ、その切り抜き方、見方によって物語として成立しています。笑いあり、涙あり。私たちの人生には、既に物語の全てが含まれている、そう思わせてくれるいい作品です。アンは女の子向けの児童文学に収まらない魅力があります。

www.youtube.com

NHKの放送は明日で終わりますが、Netflix ならいつでも見れます。さらにNHKで放送されているのはシーズン1ですが、Netflixではシーズン3まであります。原作では、大人になったアンも描かれているので、今後も製作が期待されますが、今のところシーズン3で打ち切り状態のようです。シーズン4制作の嘆願運動では、100万の署名が集まっているとか。たくさんの人から愛される物語であることが分かりますね。

新しい財布が欲しくなったので調べてみた

革製品には独特の良さと悪さがある。

その良さの最たるものは、革には育てる楽しみがあるというものである。逆に悪さを挙げるとすれば、重い、水に弱い、メンテナンスしないと劣化するということだろうか。革の良さを最初から知っている人は少ないかもしれない。私も最初から革製品が好きだったわけではなく、その性質を知るようになってから好きになり集めだすようになった。

昔の私は、それこそ革靴などは無くなってしまえばいいとすら思っていた。仕事で仕方なく履かなければならないもの。その程度のものでしかなかった。確かに、今の時代、革靴に機能的な優位性はほぼ無いに等しい。機能性は圧倒的に人工的な合成素材で作られた靴のほうが優れている。革靴でスポーツをやろうなんて人間はいない。しかし、合成素材の靴はどこまでいっても使い捨てである。なぜなら主要な素材のポリウレタンは空気中の水分と反応して加水分解し、たとえ履かずに大事に保存していても勝手に劣化していくからである。しかし革靴は、製法や手入れの仕方にもよるが、正真正銘の一生ものである。革靴のすり減った靴底は交換、ないしは補強することで使い続けることができる。時間をかけて履き続けることで、革が自分の足の形に馴染み、その革靴は自分のためだけの革靴になる。

こういう逸話もある。ある富豪が高級車を盗まれたとき、その車のトランクには履きならした彼の革靴が入っていた。富豪は次のようにコメントしたという。盗んだ高級車はくれてやるからトランクの中の革靴だけは返してくれと。高級車はいくらでも買いなおせるが、自分の足に馴染んだ革靴は買いなおせないのである。イタリアのことわざでは、靴は人格を表す、ともいう。

私は革靴に関するそういった知識を得たとき、革靴に対する見方が変わった。ちょっと大げさではあるが、つまりこういうことである。一人の人間に世界を変えることはできないが、ほんの少しの知識だけで世界の見え方は容易に変わる。それは私にとって世界を変えたのと同じことなのである。

別段、革製品が好きでなくとも、革製品を使っている場合はよくある。特に、財布、革靴の類はそういうものとして定着している感がある。しかし悲しいかな。そういう普及している革製品ほど、革としての本来の扱いを受けておらず、革から見ればちょっとかわいそうな状態になっていることは多い。革靴は価格帯が幅広く、安い革靴は履きつぶすものとして使っている人も多いのではないか。財布に関しても、ノーメンテナンスで何年も使い続けられているものがどれほどあることやら。要は、革製品の良さを知らず、知識のない状態で革製品を使うことは、言ってみれば猫に小判、豚に真珠なのである。

私が2012年から使用しているポール・スミスの財布も、まさにそんな状態であった。変哲のない二つ折りの革財布であり、外側は黒で内側はヌメ革のナチュラルという個性の少ないデザイン。あえて特筆するならば、ポール・スミス特有のストライプが内側にさりげなく配されているという奥ゆかしい御洒落さがある。この財布に対する思い入れは殊のほか大きい。個人的なことは置いておくとして、要は、とある記念に人から贈られた頂きものなのである。私はこの財布を気に入っていて、ビジネスだろうがカジュアルだろうが(スポーツの場面を除いて)どんなときでもこの財布だけを8年間にわたって使い続けてきた。全くメンテナンスすることもなく。

最近、新しい革財布が欲しくなってきた。

最近は財布でもクリームくらいは塗って手入れをするようになったが、さすがに少しくたびれてきた雰囲気がある。未だに現役で使っていられるのは、この商品の品質が一定以上であることを伺わせるし、そして長期の使用は、なによりも革製品だから出来ることである。こういうことは布製品、特に化繊では出来ない。ちょっとくたびれたくらいが味になるのが革製品の良いところではあるが、使い潰したくもない思いもあるので、今の財布を休憩させる意味でも、別の新しい財布でも買おうかと、思い至ったのである。

物欲を満たす楽しみは買う前からすでに始まっている。買う前の吟味するという工程なくして、真に物欲を楽しんだとは言えない。軽はずみにポチったりせず、グッとこらえて時間をかけて吟味する。吟味に数か月をかけ、時には物欲そのものを寝かして数年を要すこともあり得る。それでこそ物欲道?である。

そんなわけで、私が今注目している(吟味中)の財布を挙げる。

万双 コードバン 長財布(小銭入付)

コードバン 長財布(小銭入付) | ブライドル・コードバン・シモーネレザーの革鞄・革財布 | 万双

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参照:https://www.mansaw.net/

この商品をいつ知ったか、既に記憶が定かではない昔である。しかし、ずっと記憶に残り続けている商品である。私はこの長財布を見たとき、もし長財布を買うときが来るとしたら、万双の長財布を置いて他にないと思ったほどである。そして、その印象は今も変わらない。

ゴテゴテした印象のない、無駄のないデザイン。デザインとはどう見えるかではなくどう機能するかだと説いたのは、かのスティーブ・ジョブズである。この手のデザインの追求者はジョブズだけでは決してないが、万双もまた強烈な方向性を提示するブランドである。万双は「私たちは町場の鞄屋」と自らを表現している。ブランドロゴやタグをデザインに配さないこだわりや、直販のみという営業気質。あぁ、好き。財布に限らず万双の商品はいつか大事な時に買いたいと思っている。一方で、果たして万双の商品を買うに相応しいだけの人間に、いつになったら成れるのだろうかと途方に暮れるのである。

土屋鞄 ディアリオ ハンディLファスナー

ディアリオ ハンディLファスナー – 土屋鞄製造所

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参照:https://tsuchiya-kaban.jp

長財布からあふれ出る高級感は、ちょっと私には制御し切れないかもしれない。そんな臆した心に寄り添ってくれるのは、やはり二つ折りの財布か。しかし、二つ折り財布ばかり買っても面白くない。悶々とするわがままな人の目にとまるのは、通称「Lファス」と呼ばれる土屋鞄のミニ財布であった。

このLファス。通常タイプと一回り小さいハンディタイプがある。しかし、なぜか小さいほうのハンディタイプがより高いのは、素材の違いがあるのかもしれない。私ならハンディタイプの方が欲しい。自分の用途を想像してみるに、もともと財布の中身の少ない私にとっては、ミニ財布でも十分使えると思っている。ところで、「Lファス」の愛称の通り、この財布は比較的手ごろな価格と相まって売れに売れたらしく、インターネットで調べてみても、所持者によるレビューや経年変化・エイジングの報告が多く、情報収集に事欠かない。とりあえずLファス買っとくか、と思わせる恐ろしい魅力がこの財布にはある。

ちなみに、土屋鞄ではマネークリップも取り扱っている。電子マネーが広く普及しているとはいえ、しかし私の生活スタイルでは完全に小銭を捨てるわけにはいかない。「Lファス」と両方持ったりしたら、素直に二つ折を買えという至極正当なツッコミを自分にすることになるだろう(戒め)。

物欲の道は続く。

【レビュー】アサシンクリード オデッセイ

最近ずっと、アサシンクリードオデッセイを遊んでいた。

私がアサシンクリードシリーズを遊ぶのは初めてであったが、このシリーズはオデッセイで既に11作目であるようである。シリーズ初体験ではあるが、各動画コンテンツでアサシンクリードがどういうゲームかは知っていた。初作であるアサシンクリードの動画を見たときは、ずいぶんスタイリッシュなゲームだと思ったものだ。アサシンブレードという、手首に装着した刃物を使いこなし、掌底打ちをするような動作で実は致命傷を与えている、その見栄えの良さに洗練さを感じた人も多いのではなかろうか。

私としては、むしろ興味のあるゲームで、機会があれば遊びたいと常々思っていた。ただ、昨日の今日までついにシリーズ未プレイとなってしまっていたのは、2008年を皮切りに、2020年には12作目である最新作のヴァルハラが発売予定とある通り、とにかくリリースが早いからである。1年に1作品はリリースされているのである。作品にはそれぞれ良し悪しがあると聞くし、ナンバリングされていないタイトルもあって、一見でどれが最新かも分からない。要は、いまのタイミングでどれをプレイすべきか良く分からないのが、現状のアサシンクリードシリーズであった。

オデッセイは、2018年に発売された11作品目である。私がオデッセイをプレイするに至った理由は、現時点での最新作だというのも一つにあるが、最も影響を受けたのは、「オデッセイ」が「ウィッチャー」に似ているという評価をチラチラと目にし耳にしたからである。ほう、ウィッチャーと比較するほどか。私にとって、「ウィッチャー3 ワイルドハント」は、ここ10年くらいの記憶で、最も衝撃的で面白く没入したゲームであった。そのウィッチャーと比較されるオデッセイが、どれほどのものか確認したくなったのである。

前述の通り、最近はずっと、アサシンクリードオデッセイを遊んでいた。

この時点で、オデッセイの実力は良い意味でお察しいただけるかと思う。プレイした数分の感想は、ウィッチャーに似ている、ということであった。オデッセイがウィッチャーに似ているというのは、ウィッチャーの経験者だったら誰しもが感じる、間違いのないものだと思われる。というよりも、オデッセイはウィッチャーの影響を強く受けている、という表現がより正確かもしれない。マップに大量のアイコンが表示される、あの感じはウィッチャーそのものである。

そもそも、アサシンクリードシリーズは元来、オープンワールドアクションRPGというゲームシステムではなかった。この方針を大きく転換したのが、2017年に発売されたメインシリーズ10作目のオリジンズからであった。ウィッチャー3の発売が2015年であるから、ウィッチャー3がアサシンクリードシリーズを大きく方向転換させた可能性は大いにある。もしかしたら、インタビュー記事などを漁れば、言及されている記事があるかもしれない(私は探していない)。改めて、ウィッチャー3が成し遂げたことの凄さを感じざるを得ない。ウィッチャー3は、ゲームとしてのフレームワークになりつつあるといっても過言ではない。

一方で、オデッセイがウィッチャーのただの焼き増しかというとそうではない。端的にウィッチャーとオデッセイを比べると、ウィッチャーは世界観、キャラクター、物語においてオデッセイよりも優れていて、オデッセイはアクション性やゲームシステム面においてウィッチャーよりも優れている。これには、ウィッチャーとオデッセイが主体とすべきものの違いがある。ウィッチャーは小説がまず原作としてあり、世界とキャラクターが紡ぎだす物語が主体としてあった。ウィッチャーにとってゲームシステムは、ウィッチャーをゲームという媒体で表現するための補佐的な位置付けとして見ることができる。一方、オデッセイは、ストーリーやキャラクター、世界観以前の要素として、アサシンクリードというゲームシステムが主体としてあった。

オデッセイのキャラクターは魅力にあふれていて、ストーリーには没入感がある、という評価があるとしても、私はそれを全く否定はしない。むしろ、その通りだと思う。ただし、ウィッチャーの世界観やキャラクターは、それ以上に優れていたというだけである。その代わり、アクション性を含めたゲームシステム面においては、明らかにオデッセイはウィッチャーよりも進化している。ウィッチャーのアクション面は、よく言えばシンプル、悪く言えば単調な印象があるかもしれない。ウィッチャーの主人公は怪物退治の請負人であり、怪物を退治するには事前に入念な準備をするという設定を、忠実に再現したからにほかならない。それに比べて、オデッセイでは、ハンター、ウォリアー、アサシンという3つのスタイルをうまく使い分ける必要があって、それがアクション面のバラエティに直結している。パルクールの心地よさも素晴らしい。海事、征服戦争、傭兵、コスモスの門徒などコンテンツも豊富である。

ウィッチャーにやりこみ要素はほとんどないが、オデッセイにはある。例えば、武器のレベリングのシステムはウィッチャーと同じだが、アップグレードすることで陳腐化を防ぐことができるのは、やりこみ面で評価できる。ウィッチャーは一過性のゲーム体験に重きを置いているのに対して、オデッセイは永続的なゲーム体験に重きを置いている節がある。どちらが優れているというわけではなく、方向性の違いである。どちらもゲームとして誠実なつくりになっているのは間違いない。

さてと。アサシンクリードオデッセイのレビューをしてるのだか、ウィッチャー3のレビューをしてるのだか分からなくなってきたので、まとめよう。

アサシンクリードオデッセイは面白い。

以上、巷をにぎわせているゴーストオブツシマそっちのけのレビューでした。(次は、サイバーパンク2077かな……)

【レビュー】Detroit: Become Human

ネタバレ無し。

時と場所は、2038年のアメリカ、デトロイト市。程よい近未来という設定で、高性能のアンドロイドが労働力として世の中に浸透している世界。アンドロイドの見た目は、人間とは区別がつかず、こめかみについたLEDを除けば、肌のつやだとか、挙措の違和感くらいでしか見分ける術はない。そんなアンドロイドの普及は、人間社会に新しい豊かさをもたらす一方で、労働力の代替として人間の雇用を奪い、新しい社会問題を生み出しつつもあった。やがて、アンドロイドの中に、人間の命令には単純に従わない、自己意識に目覚めた個体が現れ始める。これらの個体は変異体と呼ばれるようになり、変異体が人間と摩擦を起こす事件が、徐々に増えつつあった。

本作の主人公は、コナー、カーラ、マーカスの3人だ。そして、3人ともアンドロイドである。本作では、プレーヤーは人間を操作することは無い。人間であるプレーヤーが、アンドロイドの視点でアンドロイドを操作するのは、本作が持つ大きな特徴である。

コナーは、警察に配属された捜査用のアンドロイドである。物語冒頭では、人間の少女を人質にとって立て籠もった変異体に対して、交渉人として冷徹に事件を解決することになる。コナーは、その後も変異体の捜査を進めることで、ほかの2人の主人公、カーラとマーカスのストーリーと絡み合っていくことになる。カーラは父と娘の父子家庭という環境で家事に従事するアンドロイドである。しかし、この父親はアンドロイドの普及によって仕事を失った典型的なアンドロイド嫌いのひとりであり、それでも家事はアンドロイドに頼らざるをえないジレンマから、強いストレスを持っていた。妻に逃げられた過去をもち、おまけに薬物にも手を出し、家庭内暴力をふるう日常とくれば、その後の物語展開は語らずとも想像がつくというものである。マーカスは、裕福な画家・カールを介護するアンドロイドである。カールはアンドロイドに対する理解に厚く、マーカスを息子同然に教導するほどであった。金持ち喧嘩せずとは言うが、マーカスはアンドロイドの中でも恵まれた環境にいたに違いない。しかし、そんなマーカスは些細なことをきっかけに、人生を一転させることになる。物語は3人の主人公の3編が絡み合いながら進んでいく。

要所で現れるコマンドを選択すること(QTE)によって、物語は分岐していく。選択肢は、物語を大きく変える重要なものから、影響の少ない細かいものまで、膨大に存在している。そして、プレーヤーの選択の全てが、フローチャートとして管理されて、自分がどのような選択を辿ったのか振り返ることができる。このとき、世界中の全プレーヤーの選択の割合も見ることができ、自分の選択した物語が、多数派なのか少数派なのか見ることができる。このフローチャートは面白く、プレイ後に分岐点があったことを明示してくれることによって、そんなところに分岐点があったのかという意外性や、自分がこの分岐を選んだのだという高揚感を与えてくれる。

物語の舞台であるデトロイト市は、アンドロイド産業の再大手であるサイバーライフが本拠を置く、アンドロイド産業の一大拠点となっている。ところで、現実のデトロイト市も、自動車産業の衰退と共に財政破綻した過去を乗り越えて、全米最大規模のロボット産業都市として復興しつつあり、日本企業では川崎重工が誘致されているとか。蛇足ではあるが、映画『ロボコップ』シリーズが、デトロイトを舞台にしていることは記憶に新しく、『ロボコップ』が公開された1987年は、日本がバブルを謳歌するさなか、デトロイトの市況はどん底の時代であった。まさに、デトロイトは本作のタイトルにもふさわしい舞台なのである。

本作が主題とするのは、アンドロイドがもたらした社会問題ではなく、アンドロイドの存在意義そのものについてである。アンドロイドは、人間と同等か、あるいは物理的には人間よりも優れた能力をもちつつも、人間の命令に従うようプログラミングされた、いわば人間の奴隷である。アンドロイドは、もともと自由な思考と行動ができるよう設計されている。それが、ある種のプログラムによって、思考の一部を制限し、人間への服従を実現させている。ロボット工学三原則に似た構想は、映画『アイ,ロボット』を彷彿とさせる。

ところで、ゲーム中には、物語全般を通して、鏡で自分自身の姿を見ることができる機会がいくつかある。このシーンはゲーム的にも物語的にも、特に意味を持たないシーンなので、逆に印象を残すプレーヤーはいるかもしれない。実は、自己意識を持たない動物は、鏡に映った自分自身を、自分として認識することができないという。つまり、変異しているアンドロイドと、変異していないアンドロイドでは、鏡に映る自分の姿に対する認識が異なっているということである。鏡を見るという行為にゲーム的な意味を持たせていないにもかかわらず、鏡を見るという行為を意図的に実装しているのは、アンドロイドの自己意識に対する強い主題があるからだ。

本作を一言で表現するならば、映画のようなゲームと言えるだろう。自らの選択によって物語が展開していくゲームは、今時もはや珍しくもないが、技術の進化によって、選択と進行は、どんどんシームレスになって、さながら映画を見るような没入感を与えてくる。本作は、まさにその路線の、現時点での終着点と言っても過言ではない。

少しだけ辛口も入れておくと、このゲームのゲーム性は高くはない。ゲームをプレイする動機は、映画を見る感覚や、小説を読み進める感覚と同じであり、ゲームをする感覚とは少し異なる。しかし、映画のように受け身ですべてを委ねていられるかというとそうではない。QTEはいつ発生するかわからないので、物語に集中し切れない側面がある。QTEに集中すると物語がおろそかになり、物語に集中するとQTEがおろそかになる。QTEはあくまで物語の分岐のためにあるもので、QTE自体のゲーム的機能はむしろ本作の物語を阻害しかねないものである。この点に関しては難易度設定があるので、初見プレイ時は低難易度でプレイすることを強くおススメする。というよりも、このゲームデザインで、難易度を追及させる開発者側の意図が分からない。では、このゲームは映画として作ったほうが良かったのかと言ったら、そういうわけでもない。映画では物語の分岐は起きようがない。自分が選択した物語だという感覚が、なによりもこのゲームの本質である。

参考

【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

  • 発売日: 2018/11/21
  • メディア: Video Game

【PS4】Detroit: Become Human

【PS4】Detroit: Become Human

  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: Video Game

許可より謝罪

許可より謝罪という言葉、価値観があります。

blog.livedoor.jp

この言葉は、3Mの社史にあるようです。

It is easier to ask forgiveness than permission. With a sincere attitude toward one’s work, the chances of doing real damage or harm are small. Consequences from bad calls, in the long run, do not outweigh the time waiting to get everyone’s blessing.

意訳をすると、

善意に基づいて仕事をしていれば、致命的な結果をもたらす可能性は低い。 誤ったことによる時間の消費が、許可を得るために要したであろう時間を上回ることは無い。

というものです。

この言葉を知って、私は過去のある仕事のことを思い出しました。率直に言って、この言葉、もっと早く知りたかったな、と思います。

以前勤めていた会社は小さな会社で、かといってベンチャーでもなく、よくある零細企業だったのですが、その社内で利用する業務システムの開発、保守を私が一人で行っていました。その業務システムは一言でいえばグループウェアなのですが、巷にあふれているようなフルスタックなものではなく、もっと業務に密着した小さなシステムでした。でしたというよりも、シンプルさや簡潔さこそシステムの堅牢性だと思う私の価値観が、意図的に小さなシステムに方向づけていました。

そして、一度作って業務が動いてしまえば、そのシステムに対してやらなければならない改善、改良は業務そのものが変わらない限り基本的にはなくなるわけです。開発作業は定時外の時間を利用して行っていましたが、当時の私はモチベーションがありました。要望としてちらほら聞いていた新しい機能を追加しようと上司に提案、つまり開発とリリースの許可を求めました。しかし、上司はそこで決断をせずに、さらに上に許可を求めることになるがやるかどうかを私に確認しました。私はその時点で、なぜか興が覚め、いったん練り直しますと言い、案を引っ込めました。

その機能はなければ業務が回らないというものではありませんでした。しかし、要望として声があったわけですから役に立つことは確信していました。定時外で作業している以上、時間的な効率は最大限優先したい。しかし、許可を求めていくと、開発を始める前の仕様を納得させる時間がかかってしまう。私としては、まず作ってしまい、それが役に立てば万々歳。役に立たなければ削除するだけ、というようにしたかったわけです。私が、たとえ箸にも棒にも掛からない機能を作っても、開発が遅れたとしても、ユーザーには迷惑が掛からないわけですから。そして、もし許可を求めなければ実際にその通りになったはずなのです。許可より謝罪。あの時にこの言葉を知っていたら、間違いなく私は許可を求めずに開発しリリースしていたと思います。

そもそも許可を求めるのは何故でしょう。会社は組織です。組織であれば各々に与えられた役割、つまり責任と権限があります。したがって、許可を求めるのは自分の責任と権限では判断できないと判断するからです。では、当時の私は開発とリリースの責任がないから許可を求めたのかというと、何か腑に落ちないものがあります。私一人で開発していたので、当然のことながら私は root のパスワードに始まるシステムの全てを知っていました。それは名目上はどうあれ事実上、会社から責任と権限を与えられていると考えて良いように思います。

あとは、許可を求めるという行為は責任と権限を分散させます。許可を求めるほうは、失敗したプロジェクトは許可されたものだと免罪符にしがちですし、許可を求められたほうは、失敗したプロジェクトを許可した自分という可能性を考えます。また、責任を分散させることは同時に権限も分散させてしまっているという点には、案外気づきにくいかもしれません。自分の権限が減じれば自分で判断できることが少なくなる、つまり自分だけで決められないことが増え単純にやりづらくなります。そう思うと、許可を求めた私の行動は、自分で自分の首を絞めてしまったとも言えます。人に仕事を任せる難しさ、責任と権限をデリゲーションすることの難しさをつくづく思い知らされます。責任と権限が明確でなければ、すべての出来事に対して上にお伺いを立てなければなりません。責任と権限が明確でなければ、責任と権限を持っていないのと同じです。役割が明確ではない組織図や体制図を見るたびに本当にぞっとします。

しかしながら、私もリーダーや上司を経験してきたことを言えば、デリゲーションは本当に難しい。むしろ、不完全なデリゲーションが通常の姿といっても良いかもしれません。役割が不明瞭な中、許可を求るべきことが何なのかわからないのであれば、自分ができることは善意のもとにやってしまえ、という処世術が「許可より謝罪」ということなのでしょう。まあそれで「何を勝手にやっているんだ」と怒られたりすると、こちらはまたイライラしてしまうわけですが、許可を求めてほしいんだったらちゃんと責任と権限を明確にせよということですからね。