弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【レビュー】オクトパストラベラー

『オクトパストラベラー』の感想を残します。

プレイ時間は40時間ほど。未クリアです。未クリアのままレビューを書くに至ったことから、一言でいえば完走できませんでした。評価としては「丁寧な作品だが、ゲームとしては面白さに欠ける」ということになります。ただし、今後、再プレイしてクリアまで行き着くことはあるかもしれません。既に名作の評価が一般的になりつつある本作です。実際にプレイしてみると、作品として高い完成度を感じる一方で、ゲームの面白さには一抹の不満を感じました。これを、私なりに分析したいと思います。

『オクトパストラベラー』はスクウェア・エニックスが発売したRPGです。2018年にSwitch版が発売されて以降、順次、マルチプラットフォームで発売されています。その特徴は、HD-2Dと呼ばれる、ドット絵と最新の3D効果を融合させた表現システムにあります。JRPGとして原点回帰しつつ、技術的には革新を目指しています。売り上げは、2020年3月時点で200万本を突破し、JRPGとして大成功したと言えるでしょう。

オムニパス形式のストーリー

ストーリーのボリュームは結構あります。主人公が8人いて、それぞれに4章分のストーリーが用意されているため、合計で32章のストーリーがあります。1章を2時間でクリアしていくと合計で64時間かかる計算です。実際、そのくらいの時間はかかる印象です。このボリュームを大きいと感じるか小さいと感じるか、あるいはメリットと感じるかデメリットと感じるかは人それぞれかもしれません。少なくとも価格には見合ったボリュームです。

1キャラクターに対して4章分で起承転結するので、それぞれのストーリー自体は小粒です。ただし、キャラクター自体に背景や個性がしっかりと設定されているため、浮ついた印象はありません。重めのストーリーから軽めのストーリーまで緩急が付けられています。各主人公たちのストーリーは当初は全く独立しています。ただしストーリーが進展するにつれて各主人公の物語が収束していくようです(未クリア)。起承転結がしっかりしたストーリーとなっているので、ひとつひとつは小粒とは言え十分楽しめる範囲にあります。

物語の進行を自由に選択できる都合上、前章のストーリーを忘れがちですが、ストーリー開始時に前回のあらすじをきっちり説明してくれる親切設計になっています。プレイに少し時間が空いたとしても感情を呼び戻しやすく何をすべきか明確で、復帰しやすいです。

美しく、新しくありながら懐かしいグラフィック

グラフィックがリアルであればリアルであるほど良いという考え方は、ゲームの在り方にもよるでしょう。ゲームは長らくリアル志向の道を歩んできましたが、それは容量の増加や処理速度の向上など技術的な進展が背景にあったためです。しかし、技術が成熟するにつれて、技術的な制約ゆえの抽象的表現ではなく、積極的な抽象的表現が選択肢として現れるようになりました。ドット絵への懐古は、まさにその現われであり、本作のHD-2Dは積極的に選択された抽象的表現だと言えます。積極的に選択されているために、全ての映像表現が時代を逆行した過去のものではありません。ドット絵を主体としておきつつも、ドット絵では表現しにくい、光や水の表現には培われた新しい技術が使われています。

「温故知新」という表現が一番ふさわしい映像表現こそが、結果的に本作の最大の特徴であり魅力です。SFCから初期PSあたりのゲームをプレイしてきたゲーマーには懐かしさを思い起こさせ、それらを経験していない若いゲーマーには新しさを提供するという、実に幅広いターゲットに対して訴求する効果が本作の映像表現にはあります。

音楽、ネーミング、印象と雰囲気

地名の命名にこだわりを感じます。例えば、フレイムグレースは「炎」と「恵み」、やゴールドショアは「黄金」と「海岸」。その地の特徴を考えると、なんとなくイメージに合ったネーミングになっていると思いませんか。ステレオタイプな印象もありますが、ここまで直球な命名も珍しいように感じます。併せて、音楽もイメージを合わせて作曲されている印象が強いです。このあたりの作りこみは丁寧で、完成度が高く、売り上げの大部分に貢献しているのではないかと思います。

マップ、ダンジョンの踏破と戦闘システム

さて、ここまでオクトパストラベラーの良い点を挙げてきましたが、結局のところ、私がプレイを中断してしまった原因は、戦闘システムにあります。

まず、本作の戦闘システムの特徴を整理します。

  • ダンジョン探索型、マップ踏破型(旧来のドラクエなどと同様)
  • ランダムエンカウント
  • コマンドバトル
  • ターン制(ターンの中で敵味方含めて素早いキャラクターから行動)
  • ブースト
  • ブレイク

このうち、ブーストとブレイクが本作の戦闘システムを特徴づける要素です。ブーストはターンごとに蓄積するもので、溜まったブーストを使用した攻撃はダメージが増加する仕組みです。ブレイクは敵毎に設定された弱点を突くことで、敵をブレイク状態(無防備な状態)にするものです。ブレイク状態の敵は行動がキャンセルされるほか、被ダメージが増加する仕組みになっています。

つまり、敵に効率よくダメージを与えるには、ブレイクした敵に対してブーストを乗せた攻撃を当てることが肝要となります。その為には敵の弱点を網羅することと、ブレイクのタイミングに合わせたブースト管理が必要です。本作の戦闘システムは、ブーストとブレイクを前提とした難易度設計になっているため、これらの要素はほぼ無視できません。昨今のJRPGとしては比較的、重量感があり難易度の高い戦闘システムと言えるでしょう。

これらのシステムは漫然とした戦闘を防ぎ、プレーヤーに緊張感を持たせる効果があります。しかし、言い換えると一回の戦闘時間は長引き、集中力を必要とするためサクサクしたテンポはありません。このようなゲームバランス自体は珍しいものではなく、『タクティクスオウガ』などのSRPGや、『ヴィーナス&ブレイブス』などの独自性の強い戦闘システムにも見て取れます。

では、本作の戦闘システムの問題点は何でしょうか。それは、重量感のある戦闘と、ランダムエンカウントの食い合わせの悪さにあります。例えば、ドラクエシリーズやFFシリーズは、ともにランダムエンカウント制ですが、戦闘のウェイトは軽いためテンポを失うものではありません。戦闘のウェイトを軽くする場合は、ダンジョンやマップの踏破を含めてクリア可能かというバランスに緊張感を持たせる仕組みが常套です。薬草やMPが足りるかどうかハラハラする場面は、往年のRPGの醍醐味であり、意図されたレベルデザインです。しかし、もしこのバランスの中で戦闘の重量感だけが増した場合はどうなるかというと、テンポを失って単純にプレーヤーが疲れます。

ランダムエンカウントなのにテンポが悪く、戦闘の重量感がある割にはランダムエンカウントで数をこなさなければならない。このどっちつかずとなっている状態が、本作の設計の調整不足を否めません。ゲームとしては、何処かに仕組みとしての緊張を用意する必要がありますが、メリハリなしに繰り返し緊張に晒されてしまうとストレスにしかなりません。本作の戦闘はどちらかというと緊張過多で、全体として爽快さや快感よりも疲れるゲームになっています。

また、ブーストやブレイクが戦略性の高い戦闘を提供しているかというと、それもまた疑問です。確かに戦略性はある程度は高くなっていますが、思考する楽しさを提供するほど難しくなく、単純作業にはできない程度の注意力を要するという、絶妙にバランスの悪い難易度設計になっています。結局、この戦闘システムの調整の悪さが、全体としてぼんやりとしたプレイ感に繋がっています。

さらに、本作はジョブやアビリティが用意されていて、8人の主人公から4人のパーティを組むなど、パーティ編成やキャラクターの育成にも重点が置かれているように見えます。しかし、敵の弱点を網羅しなければならない制約があるため、実のところ育成や編成に関しては、自由度の高さ、懐の深さ、味わい深さなどはありません。これは戦闘を単調にさせる要因にもなっています。また、この点では、本作はほぼリプレイ性はありません。

私は何度か息切れしてしまい、中断して再開するという繰り返しを経て、全キャラクターの三章まではクリアしました。しかし、四章までは現時点ではモチベーションが続きませんでした。

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【読書感想文】空白の五マイル

ある時、なにげなく黄河や長江の源流域を Google map で眺めていたら、チベット高原の南部をひたすら東進する川を見つけた。川がどのような流路を辿ってどこに繋がるのかという好奇心は、人間の根源に近いところにあるような気がする。私はその川筋を辿ってみたのだが、すぐにやめた。最初は川幅も広くて東に直進するだけだったその川は、やがて川幅を狭めて強く蛇行し、追うのに根気を求められたからだ。代わりに川の漢字表記であった「雅魯蔵布」を検索してみると、その川はヤルンツァンポと読む大河であることを知った。そして流路を見失った場所こそツァンポー峡谷といい、世界最大級の峡谷で長らく未踏の地であったのだった。wikipedia で調べてみると、何やら最近、日本人の探検家が未踏査部分を探検したらしい。その日本人探検家こそ、本書の著者・角幡唯介(かくはたゆうすけ)である。

ヤルンツァンポ川の源流はマーナサローワル湖にあり、この湖は標高の高さと、湖水の透明度の高さなどから、チベット三大聖湖と呼ばれ、多くの宗教宗派の聖地とされている。この湖を発したヤルンツァンポ川は、東へと直進しチベットの中でも比較的穏やかな南チベットの盆地を形成している。その後、川はツァンポー峡谷で大きく南へ屈曲し、ヒマラヤ山脈の南側の低地に流出し、ブラマプトラ川、ジョムナ川と名前を変えてガンジス川と合流、インド洋に注ぐ。

ツァンポー峡谷はヒマラヤ山脈の東端に位置し、青い空の月面と表現されるようなチベット高原とは異なり、湿潤で木々が鬱蒼として豊かな森林を成す。これは、チベット高原ヒマラヤ山脈によって湿気を遮られているのに対して、その東端にあるツァンポー峡谷には回り込むように湿気が流入しているからである。峡谷に近い林芝市は、チベットのスイスと形容されるような景勝を持っているほどである。ツァンポー峡谷を構成するのは、ナムチャバルワ山や、ギャラ・ペリ山などの7500m級の大岳で、ヤルンツァンポ川はその間をこじ開けるように流れる。ツァンポー峡谷がいかに険阻であるかは想像がつくであろう。

ゆえに、ツァンポー峡谷は歴史上、長く未踏であり、ヤルンツァンポ川が峡谷に消えた後、どこに流れ着いているのかは歴史上の謎であった。いわば、その川を下って帰ってきたものはいないというのが、ヤルンツァンポ川であった。この謎に突き動かされて、著者を含む多くの探検家がこの地へ分け入ったことには、畏敬と共に共感を覚える。

探検史については、むしろ本書に詳しいため、興味を持った方はぜひ手に取ってみてほしい。本書の構成は、ツァンポー峡谷の探検の歴史を解説するとともに、著者自身の探検の経緯が紀行文として記述されている。しかし、著者自身による探検という意味では、やはり些かパンチ力に欠けるというのが正直なところかもしれない。初者自身も自覚されていることではあるが、著者がツァンポー峡谷に入ったのは2002年から2008年であり、この頃には携帯電話も普及し、Google map などで航空写真も見られる時代であった。本来の探検の意義は20世紀で終わり、現代の探検は、その意味を懐古と共に失ったか、あるいは変容させている。読者として著者自身の探検にスケールの大きさを感じないのであれば、それは著者の責任というよりは、時代の変化によるものであろう。残念あるいは寂しい気持ちがありながらも、著者が多くのページを割いたその探検史こそ本書の魅力かもしれない。なお、著者は朝日新聞社に務めた経歴を持ち、本書が開高健ノンフィクション賞を受賞しているように、文章や構成は読みやすく面白い。

エベレストが観光化、商業化しているように、ツァンポー峡谷も一観光地になるかもしれない。チベットにはペマコ・ベユルという伝説がある。シャングリ・ラのモデルと言われ、それはいわば桃源郷なのであるが、そもそも桃源郷とは、古代中国で漢文化の進出によって消失しつつあった少数民族の村落をモデルにしており、精神の内面に存在し、心の外に求めると見いだせないものとされる。著者は残された未踏の5マイルの中で大洞穴をみつけ、その洞穴をペマコ・ベユルに重ねた。探検とは、まさに桃源郷を求める行為に他ならないのではなかろうか。とすると、いつの時代であろうとも、探検は世界が狭くなるとともに陳腐化していったのだ。その度に、人間は、探検の対象を外に求めるのではなく内へ求めた。現代において探検を外に求めれば、先人が食い散らかした残飯のような余地しか残っていない。これから世界がもっと狭くなれば、人類は月にだって火星にだって探検に行くだろう。しかしそれすらも陳腐化する時代は来るのである。

解説『ハイペリオンの没落』4

第三部の後半です。ついに『ハイペリオンの没落』は完結します。巡礼者の物語も終わりです。最後には、作中で言及されている、あるいはオマージュされているであろう、実在した人物について、私の補遺を載せました。ダン・シモンズの知識の幅広さには到底追いつけませんが、シモンズが根底にした知識や価値観を知ると、より小説として楽しめると思います。

前回はこちら。

yayoi.tech

3-38

セヴァーンの病状は急速に悪化した。ハントは質問ばかりだったが、文句を言いつつもよく看病をした。馬車はローマへと入った。そこはスペイン広場であり、ハントはセヴァーンを担ぐと、セヴァーンが指す古い建物へと入っていった。

ソルはスフィンクスの入り口で立ち尽くしていた。レイチェルを受け取ったシュライクはスフィンクスの中に去っていった。スフィンクスからは烈風のように光があふれだし、ソルはスフィンクスへ入ることが出来なかった。ソルはふと翡翠碑に気配を感じた。翡翠碑の入り口は光り輝き、その光の中にシルエットが浮かび上がっていた。ソルは、最初それがシュライクだと思ったが、やがて動きから女性であるように感じた。ソルはレイチェルだと確信した。しかし走り寄り抱きしめると、それはレイミアだった。

グラッドストーンは火星の司令部にあって、セヴァーンとハントの連絡を待っていた。問い合わせたコアの回答は転移システムの誤動作かもしれないということだった。歴史上、転移システムの誤動作など一度たりともなかったにもかかわらず。コアがもっともらしい言い訳すらしないのは、もはや人類には流れを変える力はないことをコアが予想しているようだった。

ゴッズ・グローヴではデュレが諦めの境地にいた。デュレにとって不思議なのはセック・ハルディーンの冷静過ぎる態度だった。セック・ハルディーンは語った。この戦争は、コアと人類の共生関係を終わらせる大きな変化だと。そして、取り決めによりアウスターはゴッズ・グローヴを攻撃しないことを。デュレをいままで軟禁していたのは、その事実の目撃者とするためであった。しかし、攻撃は始まった。視界のあちこちでキノコ雲が現れ、光の柱が森林を薙ぎ払った。呆然とするセック・ハルディーンの表情はショックに刻まれていた。セック・ハルディーンはデュレの腕をつかむと急いで転位ゲートへ連れて行った。デュレが転位ゲートをくぐったとき、業火は背後に迫っており服はくすぶった。直後、転位ゲートは消失し、デュレは仰向けに倒れこんで強かに頭を打ち、気を失った。

グラッドストーンはゴッズ・グローヴの最後を見届けた。そして、リー准将に振り向き「武運を祈る」と激励し出立させた。リー准将は七十四隻からなる機動艦隊を率い、マーレ・インフィニトゥスの近縁で先制攻撃を仕掛けるのだ。そこに補佐官のセデプトラ・アカシがデュレの到着を告げた。グラッドストーンは三十分の休憩を挟むことを言い渡して指令室を退室した。グラッドストーンに対する不信任案が可決するのはもはや時間の問題だった。しかしその時間すらグラッドストーンには十分に思えた。グラッドストーンは私室にてアルベドと面会した。グラッドストーンは単刀直入にコアの場所を問うた。グラッドストーンはなぜこの戦争の帰結をほのめかすことさえしなかったのかを責めた。そして、なぜコアはセヴァーンとハントを誘拐したのか迫った。最後に、グラッドストーンは口先だけのアルベドに代わって率直に話ができるAIの権力者との対談を求めた。アルベドは退室した。グラッドストーンはデュレに会うため、転位ゲートに踏み込んだ。

3-39

二度の発作のあと、熱にうなされながらセヴァーンは昔ここで目覚めたときのことを思い出していた。奇蹟的に病気から快復したと説明されたあの場所に戻ってくることになるとは。セヴァーンはいつもとは違う夢を見た。データプレーンから、データスフィアへ、メガスフィアへ、そしてメタスフィアへ。そこに隠れるところはなかった。セヴァーンが後にしてきたところから、ありとあらゆる苦痛が流れ込んできた。ふと、誰かが自分の名を呼んでいた。ハントだ。目覚めたセヴァーンの枕元にはハントがいた。落ち着いたセヴァーンに対して、ハントは「もし相手の感じることが夢で見られるなら、相手の精神に何かしら痕跡を残せないだろうか」と言った。

モニータはカッサードをシュライクから引き離した。そして、黄金色の楕円を出現させると、カッサードをその中に引きずり込んだ。カッサードには、そこがハイペリオンではなく、時間すらも超越したことが分かった。男女の一団がカッサードを取り巻いた。そのうちの一人がカッサードの体をなでると、触れたところから傷が癒えた。その一団は人間と表現するにはあまりにも個性的で種類に富んでいた。時間の墓標を作り送り出した人類の未来の一つだとモニータは説明した。その光景を眺めていたカッサードはふと涙を流した。強烈な懐古と郷愁が胸を襲ったからだ。モニータは再び楕円へカッサードを促した。そこはハイペリオンのクリスタル・モノリスだった。視界にはソルとレイミアがいた。彼らに近づこうとするシュライクもいた。カッサードは友人たちを守るために歩き出した。

雷鳴と激しい雨音でセヴァーンは目を覚ました。手探りで窓を開けると、雨のにおいを含んだ空気を新鮮に感じた。セヴァーンは窓際で椅子に座り、外を眺めながら考えた。弟と母も同じ肺病で死んだ。自分が死んだとき検死官の報告によれば肺病のために肺組織はほとんど残っていなかったとか。死ぬまでの二カ月以上の間、いったいキーツはどれほど苦しんだだろうか。セヴァーンにとってさらにつらいのは、夢で共有される数々の苦痛だった。

シオ・レインは目を覚ました。断片的な記憶が夢のように感じた。シオは階段を上ってデッキに出た。シオがぎょっとしたのは、バルコニーが外にせり出し解放されていたからだ。その外には、自分がまだ夢の中にいるのではないかと疑うほど多種多様な形態をもった人間がいた。アルンデスは彼らがアウスターだと説明した。領事はアウスターの代表であるフリーマン・ヴァンズをシオに紹介した。ここはアウスターの船団であり、交渉が始まることを、ようやくシオは理解した。

グラッドストーンは医務室に入りデュレの容態を聞いた。デュレは重度のやけどを負っていたが命に別状はなかった。デュレは岩窟廟から個々に至るまでの出来事をグラッドストーンに語った。グラッドストーンは率直に手を貸してほしいとデュレに言った。そして、デュレが新教皇に選出されたことを伝えた。グラッドストーンは自室に戻ると、領事の宇宙船に向けたメッセージをFATライン通信で送信した。

グラッドストーンのメッセージを受け取った領事は、これまでの経緯をシオとアルンデスに語った。シリとマウイ・コヴェナントを発端にした自らの行動背景、そして自分自身は連邦もアウスターも裏切り、人類を裏切っていたことを。それは極刑に値する背徳行為、破壊行為であったが、シオとアルンデスにはどうあるべきかは分からなかった。

3-40

翌朝、セヴァーンが目を覚ますとハントが食事を持ってきた。ハントによれば一階のレストランに用意されていたらしい。気付くとハントは窓辺で何かに見入っていた。ハントは朝方、散歩をしたときにシュライクを見たのだと言った。いまも石段の向こうにその一部が見えているという。日没近くになって、ソルとレイミアを守るために戦うサッサードの夢を朧げにみた。ハントはまだ窓際にいた。自分の人生のなんと空しかったことか、画家のふりして無為な時間を過ごすのではなく、詩人として詩を書いておけば。ふいに「やってみなければわかるまい?」とハントが言った。ハントはこちらからグラッドストーンへ何か働きかける術を模索しているのだったが、その言葉が後悔に落ち込んだセヴァーンの心に刺さった。やれるだけのことはやってみよう。セヴァーンはそう思いながら意識が遠のくを感じた。

カッサードはかつてモニータに投げ捨てられたFORCE制式のライフルを手に取るとシュライクに戦いを挑んだ。カッサードはワイドビーム、フレシェット弾、あらゆる手段でシュライクを攻撃した。シュライクは移相して時間と空間を跳躍した。そこは小さな船室だった。そばにモニータがいたが、さらにもうひとりヘット・マスティーンがいた。シュライクの鉤爪がカッサードの肉体を切り裂き、夥しい血潮が船室の壁や窓にまき散らされた。再びシュライクは時空を跳躍した。カッサードはシュライクを追った。

ソルとレイミアにとってカッサードとシュライクの戦いは突如として発生した光と爆発でしかなかった。レイミアがふと首筋に手をやると、ルーサスのハイブで埋め込まれたソケットもなかった。メガスフィアを体験したレイミアにとって現実はあまりにも矮小で意識が全く集中しなかった。レイミアを支えるソルの腕は温かく、レイミアは自分がレイチェルになったかのような錯覚を覚えた。レイミアは早贄の木に刺されたサイリーナスを救うべくソルと別れて<シュライクの宮殿>に向かった。

グラッドストーンはリー准将の報告を受けていた。グラッドストーンはFORCEの猛反対を跳ねのけてリーを准将に昇格させ、いわばグラッドストーンの手駒として機動艦隊を率いた。その目的は群狼船団に先制攻撃を与え、その中核を撃滅することにある。リー准将の報告を聞き終わるとコルチョフ上院議員が入ってきた。不信任案の可決は覆しがたい。コルチョフはグラッドストーンの後継に間違いなかったが、とうのコルチョフはグラッドストーンしかこの危機を乗り切れないと見込んでいた。アルベドはデスボムを用意したという。グラッドストーンは会議へと向かった。

3-41

セヴァーンはメタスフィアを漂いながら思った。人は苦しみを受けるため生まれてくるのだと。人が自意識と呼ぶものは、苦しみの波濤のあいまに生じる澄んだ潮だまりに過ぎない。サイリーナスの言葉を思い出す。真の詩人とは、人類の化身となり、人類の創造主として生みの苦しみを経験することなのだと。セヴァーンはメガスフィアへの入り口を見つけた。やはりオールドアースにもどこかに転位ゲートがあるのだった。セヴァーンがメガスフィアへ入るとそこには雲門がいた。雲門は再び語った。コアの全ての派閥が地球の消滅に同意したが、穏健派はその破壊を躊躇した。そのため地球をマゼラン雲へと転位させた。地球を破壊したとされるブラックホールは転位ゲートだった。人類を地球から飛び立たせ、人類に広大な転位ネットワークを構築させたのは、データスフィアにアクセスする人間の脳を演算装置として利用するためだった。転位ネットワークが広がればそれだけコアは成長した。コアは転位ネットワークに存在するのだった。しかし、コアは転位ネットワークが作るメガスフィアに引きこもり、メタスフィアに出ようとしなかった。それは<獅子と虎と熊>と呼ぶ存在が居るからだった。人間のUIは量子的なスケールの中から生まれた。コアのUIは転位ネットワークの中から生まれるという。コアが人間の情報処理能力を搾取するように、コアのUIもコアを搾取し、いずれコアは滅びるのだ。穏健派はその滅亡を恐れ、自らが生み出したであろうUIとその信奉者たるほかの派閥に対抗した。その結果、セヴァーンが生まれ、巡礼者が選ばれ、グラッドストーンに情報が伝わった。早贄の木は苦痛を放射し<共感>を呼び寄せるために作られた。唯一の可能性は人間と機械のハイブリッドを作ることにある。そのハイブリッドに<共感>が宿れば人間と機械は共存できるかもしれないと。セヴァーンはメタスフィアを急降下した。セヴァーンを現実に引き戻したのは、激しい発作と喀血だった。セヴァーンは悟った。自分自身がUIの入れ物ではなく、何者でもない、ただの一介の詩人にすぎないことに。

3-42

カッサードは辺りを見渡した。時間の墓標の近くだが時間は異なるらしい。振り返ると、何千人という男女が武器を手にし整列している。その間にはモニータがいた。モニータはカッサードを知らなかった。モニータはこれがシュライクと人間の最後の戦いであり、勝者はシュライクを時間の墓標で過去に送り出す決定権を得るのだと言う。カッサードはモニータにキスをすると鬨の声をあげた。カッサードの突進に戦士たちが続いた。戦いが終わったとき、モニータはスクラップと化したシュライクに死の抱擁をされたカッサードを見つけた。その遺体は丁寧に処理され<クリスタル・モノリス>へ運ばれた。モニータは<スフィンクス>の中に入った。谷の墓標群は輝きを失い、遥かな過去を目指して旅立ち始めた。

レイミアは<クリスタル・モノリス>に人の気配を感じた。近づき入り口に立ってみると、その中にカッサードが横たわっていた。死んでいるのは間違いなかった。その傍らには一人の女性がいた。レイミアは彼女がモニータであろうと思った。しかし、改めて見るとモニータの姿は消えていた。レイミアは再び<シュライクの宮殿>へと進みだした。

領事は全てをアウスターのフリーマン・ジェンガに自白した。そして領事はグラッドストーンの頼みでここまで来たことを伝え、グラッドストーンから託された質問を口にした。フリーマン・ジェンガはそれに応えた。その一。アウスターが攻撃しているのはハイペリオンのみであり、ほかの攻撃には関与していない。ウェブ全体に及ぶ攻撃は<コア>によるものものだということを示唆していた。その二。アウスターはコアの所在を知らない。アウスターは数世紀にわたってコアから逃げ、コアと戦ってきたが依然としてその位置を発見できずにいる。その三。アウスターとしてはハイペリオンが陥落すれば休戦を受け入れる準備がある。コアを共通の敵とする戦いに加わることが出来るが、連邦が滅びることは時間的に食い止められない。その四。グラッドストーンと直接面会する準備はある。ただし、自ら転位ゲートを使うことはできない。転位ゲートはコアが人類に架している首枷だからだである。その五。デスウォンド爆弾はアウスターに対する警告にならない。何故ならそれを使おうとしている相手はアウスターではなくコアだからだ。応え終わると、フリーマン・ジェンガがシオとアルンデスを退出させ、領事だけを残した。

ソルはレイチェルを置いてスフィンクスから離れることが出来なかった。だが、不思議と安らぎを覚えていた。自分がレイチェルを怪物に差し出したのが、神に命じられたわけでも、恐怖に促されたからでもない。夢の中でレイチェル自身が求めたことだからだ。ソルには分からない。ただ娘に戻ってほしいだけなのだ。

作戦会議の中で、リー准将が率いた機動艦隊は瞬く間に消耗し、そして全滅した。この会議にはナンセン顧問官という新しいAI顧問官が出席していた。計算されつくされたカリスマ性を備える相手に、グラッドストーンは恐怖と嫌悪を覚えた。ナンセン顧問官はデスウォンド爆弾の使用を後押しするために送り込まれてきた。ナンセン顧問官はその有用性と安全性について論じたが、グラッドストーンはそれがヒロシマの論理や、キエフブラックホールを作った論理と同じであることを考えた。ナンセン顧問官は安全性の立証と示威行為のために、まずハイペリオンにて使用することを勧めた。グラッドストーンはその使用を決定した。

3-43

キーツは危篤に陥った。キーツはコアが転位ネットワークにいることをハントに伝えた。また、自分が自身の肉体から脱出したとき、<共感>は居場所を見つけ人と機械の、創造主と被造物の調停が始まると。そして自分が<後に来る者>ではなく<先触れ>であることを語った。ハントが洗面器の水を取り替え戻ってくると、キーツは死んでいた。

レイミアが<シュライクの宮殿>にたどり着いたとき、その中には一様にケーブルに繋がれたたくさんの人間が横たえられていた。そしてシュライクがいた。レイミアは近くにサイリーナスが横たわっていることに気付いた。レイミアはサイリーナスのケーブルを手刀で切ると、サイリーナスはおもむろに目を開けレイミアを捉えた。そしてシュライクが後ろにいるぞとレイミアに言った。

グラッドストーンは私室に入った。そこには二つのメッセージが記録されていた。ひとつはシオ・レインによるアウスターの会見内容についてであり、ひとつはリー准将からのものであった。リー准将の映像によればアウスターを捕虜にしても自発的に体が燃え尽きてしまうため生け捕りが不可能であることを伝えていた。それはサイブリッド特有の自壊反応であり、ウェブへの攻撃はコアによるものというシオ・レインのメッセージを裏付けていた。そこへモルプルゴ大将が現れた。グラッドストーンにとってモルプルゴは思想を同じくした同士であった。グラッドストーンは攻撃がコアによるものだとモルプルゴに伝えた。しかし、我々に出来ることは無いとモルプルゴは言う。デスウォンド爆弾の使用まであと三時間であった。

最後の裁定を待つ領事に、フリーマン・ジェンガは<時間の墓標>を開くための装置はただの張りぼてに過ぎなかったと語った。墓標が開くタイミングはある程度予測できており、あの装置は領事の行動をテストするものに過ぎなかった。徒労感に打ちのめされる領事に下された裁定は生きて混乱を収拾することだった。領事は友人たちが待つハイペリオンへ戻ることを決めた。

デュレは麻酔による浅い眠りの中で夢を見ていた。ふとデュレは夢を同じく見ている存在に気付いた。そして、それがセヴァーンと名乗ったジョン・キーツであることに。キーツはデュレに言った。ぼくの後にあるものがやってくると。それはアルファでもオメガでもないが、必要不可欠な存在だと。その者は、はるか遠くで生まれ、デュレの仕事はその者に道を用意することだと。デュレは医務室のベッドで目を開けた。デュレは体を起こすとパケムに戻るべく転位ゲートを探し始めた。

ハントがキーツの遺体を抱えて建物を出ると、馬車が待っていた。キーツの遺体を馬車に載せると馬車は進みだした。馬車が止まった先には墓所が用意されていた。ハントはキーツを埋葬した。その間、シュライクが常にハントの周りにいた。午後遅くになって、ハントは転位ゲートを見つけた。しかしそれは機能していなかった。だしぬけに、ゲートから人間が現れた。そして、もうひとり。ハントは悲鳴をあげた。

グラッドストーン疲労は極限に達し、ついにまどろみ、そして夢を見た。グラッドストーンは飛び起きるとモルプルゴ大将とシン大将を呼び出した。グラッドストーンはコアの居場所が判明したことを告げ、そして自身の計画の全貌を二人に告白した。その計画とは、デスウォンド爆弾を転位ゲートの間で爆発させ、同時に転位ネットワークをすべて破壊することだった。しかしその計画は一つ一つの惑星を孤立させることにほかならず、経済が破綻する惑星では大規模な死が発生することは目に見えた。シン大将が情報の出所を問いただすと、グラッドストーンはセヴァーンが夢の中に現れたと言った。グラッドストーンにはコアの計画が見えた。コアは人類を迷宮に閉じ込め、聖十字架に寄生させて、脳を演算処理装置として提供するだけの奴隷にしようとしているのだ。グラッドストーンは歎息した。自分は夢のお告げに導かれて、途方もないことをしようとしている。しかし現状に甘んじることは人類への裏切りにほかならない。モルプルゴは「機械と人間を隔てるものは夢だけのかもしれない」と言った。

3-44

キーツは死んだあと、メタスフィアへと放り出された。キーツはまず麻酔で眠っているデュレのもとを訪れた。次はグラッドストーンだ。メッセージだけを伝えると、キーツハイペリオンへと向かった。その途上で見かけたのはコアの内戦だった。見えた巨大な光は<雲門>の消滅だったのかもしれない。キーツはデスウォンド爆弾を搭載した燬光艦がゲートをくぐる寸前、ハイペリオンへ転位しその後を見守った。

シオ・レインとアルンデスはグラッドストーンの通信を受信していた。それは特定のメッセージではなく、あらゆる帯域で送られたリアルタイム通信だった。二人は全面降伏だろうかと推測したが、領事だけは既に酒臭さを漂わせる息と呂律の回らない舌で、グラッドストーンは降伏しないと断言した。

デスウォンド爆弾を搭載した燬光艦には、モルプルゴほか四名の志願者しかいなかった。その中には大将の息子であるサルムン・モルプルゴも含まれていた。モルプルゴはついに自分が燬光艦に搭乗することをグラッドストーンに告げなかった。モルプルゴは自らが手渡した命令書の結果を見たくなかった。モルプルゴは真っ先に志願した息子を誇りに思った。グラッドストーンの演説が始まった。それはこの戦争の真実を伝えるもので、人類の目を覚まさせる警鐘であった。演説の終了とほぼ同時に、その作戦は実行された。

転位ゲートを繋げる二六三の転位ネットワークは、モルプルゴが発した命令により、その内容も知らぬまま出動したFORCEの艦隊によって、完璧に破壊された。この瞬間、惑星は航時差に隔てられ孤立した。転位中であった人間は肉体を切断され、ネットワークにダイブしていたオペレーターは永遠に意識を失った。転位ゲートが唯一の出入り口である建物は死の棺桶と化し、部屋が転位ゲートで繋がれた家では、家族の何気ない生活の移動が今生の別れとなった。電子マネーの類は一切使えなくなり、経済は破綻した。それぞれの惑星は、混乱、暴動、内戦を経て、それぞれの道を切り開くことになる。

転位ゲートが機能を停止したあと、前CEOであるグラッドストーンは、最前面の監視哨に立って、暴徒の蛮行を見ていた。ヴァン・ツァイト大将は政庁の警護を最後の任務としていた。グラッドストーンは暴徒を隔てている遮蔽フィールドを解除するよう大将に命じた。暴徒と話がしたいというのである。無謀な試みにヴァン・ツァイトは断ったが、グラッドストーンにはなお優先的な命令系統が残っていた。グラッドストーンは遮蔽フィールドを解除すると自分の後方に遮蔽フィールドを張りなおした。グラッドストーンと暴徒との間には何もなかった。ヴァン・ツァイトの目には両手を掲げたグラッドストーンの姿が不動の岩塊に見えた。しかし人波が殺到するとついにその姿は見えなくなった。

領事たちは宇宙船の中でFATライン通信に流れる断片的な情報に耳を傾けていた。その時、通信がぷっつりと切れた。次に、宇宙船が匿名のメッセージを流した。「今後、このチャンネルが乱用されることは無い。お前たちは重大な目的でこれを使っている者たちの邪魔をしている。お前たちがその目的を理解するとき、アクセスは再び認められるであろう」宇宙船は、FATライン通信が使えなくなった事実を伝えた。

3-45

脱出が不可能になる直前、キーツはウェブのデータスフィアを脱出した。<虚空界>が痙攣して人間宇宙にメッセージを送るさまは、地震に似ていた。キーツハイペリオンの墓標に向かった。<先触れ>としてやることがまだあった。

ソルはずっと待っていた。数時間に及ぶ時間に耐えながら、ソルはひたすら思考していた。ソルの夢に現れ娘を捧げよと言うあの声は、神の言葉でも、シュライクの言葉でもない。あれは娘の声だった。アブラハムが息子のイサクを差し出したのは、神への服従でも神への愛でもなかった。アブラハムは神を試したのだ。気付くと領事の宇宙船と思しき船体が着陸し、三人の人影が下りてきた。谷に目をやると、二人のシルエットがこちらへ歩いてくる。それでもソルは動かなかった。ただひたすらにレイチェルを待っていた。

キーツはソルがレイチェルを差し出す瞬間を見守っていた。キーツはその瞬間に世界の未来がかかっていることを理解していたが、しかし、レイチェルをシュライクから救わなくてはならないと思っていた。実体のないキーツは側に放置されたメビウス・キューブからエルグを解放した。エルグの力を借りて、キーツはシュライクからレイチェルを取り上げた。取り返そうと振り返るシュライクはそのままゲートへと吸い込まれていった。キーツはレイチェルを抱いて待った。

レイミアがシュライクと対峙したとき、下の階層からモニータが「信じなさい」と言った。シュライクに抱き寄せられつつレイミアが掌をシュライクの胸に押し当てると、そこからエネルギーの奔流が生じた。シュライクは停止し、金属の光沢を失い、ガラスのように透明になった。ついにバランスを崩すと、シュライクは床に激突し砕け散った。レイミアがサイリーナスを担いでスフィンクスへ戻ろうとすると、領事の漆黒の宇宙船が着陸しようとしていた。

スフィンクスから赤子を抱いた女性が現れた。それが両方ともレイチェルであることはソルには間違えようがなかった。いつしかそこには、メリオ・アルンデスとレイミアもいた。レイミアにとって、大人のレイチェルは度々見たモニータそのものだった。レイチェルは赤子をソルに託すと、限られた時間を共有したのちゲートの中へと消えた。ソルは未来で三度レイチェルを育てることになるのだ。一時間後、準備を整えたソルは、レイミア、サイリーナス、ソル、領事、シオ、アルンデスと別れを告げ、未来へのゲートをくぐり、消えた。しばらくの喪失感、沈黙ののち、残された一行は宇宙船へと戻った。

エピローグ

五か月半後、領事の送別会が行われた。ハイペリオンはウェブの消失と共に戦闘が終結し、今ではアウスターと旧惑星政府との共同統治に入った。送別会は詩人の都で行われた。その庭園で、レイミアは第二のキーツペルソナに初めて会った。キーツは<後に来る者>、人間の魂と機械の論理が融合した存在、つまりジョニイとレイミアの子供が、宇宙を変革させることを伝えた。行き場が無いとこぼすキーツにレイミアはひとつの思い付きを伝えた。翌朝、領事は宇宙船に乗って出発した。宇宙船は離陸した。オペレーションの合間に詩を口ずさみながら。

補足

物語の中で言及されている、実在の人物について補足を残します。

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン

1881年5月1日~1955年4月10日。フランス人。カトリック司祭、古生物学者、地質学者。聖職者としては著書『現象としての人間』においてキリスト教的進化論を提唱し、科学者としては北京原人の発見と研究で知られる。テイヤールの思想は、宇宙が生み出した生物圏(バイオスフィア)が、生物の進化によってやがて叡智圏(ヌ―スフィア)へと昇華し、人間は叡智の極点であるオメガポイントへの進化の途上にあるというものである。オメガは未来のキリストであり、進化の極地に神が生まれるというものであった。これらの思想は、テイヤールの宗教的価値観と、彼の生物学的学識から生まれたものであり、科学界からは実証を得ない誤謬だと批判され、宗教界からは異端的として危険視された。ニューヨークにて死去。享年74歳。

物語上では、デュレ神父や、その友人であるエドゥアール神父が特に敬慕する対象として描かれる。デュレ神父は教皇に選出されとき、テイヤール一世として即位した。テイヤールの思想は、シリーズ全編を通して、物語上の重要な価値観を構成している。後のエンディミオンシリーズでもそれは変わらず、むしろ著者シモンズがテイヤールに代わってオメガポイントを提言しているように見える。

ジョン・キーツ

1795年10月31日~1821年2月23日。イギリスのロマン主義の詩人、馬車屋の家に生まれたが、9歳の時に父が落馬事故で死んでからは困窮した。奉公に出て医学の道を志すも、まもなく詩人へと転換した。15歳の時に母が病死し、23歳の時に弟が病死している。いずれも肺結核によるものである。キーツ自身も結核の兆候というべき不調に悩まされており、弟の死後、病状が悪化した。医師の勧めにより温暖なイタリアへ移住したが、回復せず同地にて没した。享年25歳。『ハイペリオン』、『ハイペリオンの没落』、『エンディミオン』などが著作にある。この三作品の中では『エンディミオン』が先んじて出版されたが、評判は悪かった。しかし、その後出版された『レイミア、イザベラ、聖女アグネス祭の前夜、その他の詩集』は、後に最高傑作として評価されるに至り、それらの詩作は1819年に集中したものである。『ハイペリオン』および、その改作である『ハイペリオンの没落』は未完となったが、キーツの詩人としての頂点を暗示したものであり、完成が惜しまれるものであった。なお、ロマン主義とは、理性や論理よりも、感情や主観に重きを置いた精神運動を指し、18世紀末から19世紀初頭にヨーロッパとその周辺を席巻した。その影響範囲は詩文のみならずあらゆる芸術に波及した。このロマンを浪漫と訳したのは夏目漱石である。ロマン主義に傾倒したキーツは、科学や哲学が詩情を破壊していると非難したことがある。

物語上では、ハイペリオンシリーズ最大の重量人物と言っても相応しい人物である。詩人としてのキーツは日本人には、あまりなじみが無いように思う。その詩業はシェイクスピアにも比肩されるほどで、長生きしていればどれほど大成していたか分からない。そんな可能性を持ちながら夭折してしまった天才に、ダン・シモンズは焦点を当てた。それも『ハイペリオン』や『ハイペリオンの没落』という未完の傑作と同名で書き下ろしたのだから、ダン・シモンズキーツに対する敬意はどれほどのものか計り知れない。

ジョセフ・セヴァーン

1793年12月7日~1879年8月3日。イギリスの肖像画家。キーツの療養のためにイタリアへ随行し、キーツのよき友であり続けた。キーツの死後、遺言に従い「その名を水に書かれし者、ここに眠る」と墓碑を刻んだ。その後、画業は成功してその作品は人気を博した。政治力にも長けて、グラッドストーンなどの政治家の後援を度々得て、後にローマの英国領事を務めた。セヴァーン自身の墓石はキーツの隣にあり、その墓石には自らの名と共にキーツの名がある。享年85歳と長命であった。

物語上では、二番目のキーツ人格の持ち主として登場する。現実のキーツとセヴァーンの関係は、どちらかというと物語におけるセヴァーンとハントの関係なのだが、なぜ、セヴァーンを第二のキーツとして、キャラクターを入れ替えたのかはシモンズのみが知る謎である。

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左がキーツ、右がセヴァーンの墓

en.wikipedia.org

リイ・ハント

1784年10月19日~1859年8月28日。James Henry Leigh Hunt。イギリスの詩人、文筆家、評論家でキーツに大きな影響を与えた。ロンドン生まれ。父はアメリカのフィラデルフィアで弁護士を営んだが、独立戦争を機にイギリスへ移住した。幼少期より発話障害があり大学への進学をあきらめる一方で、詩作に傾倒した。兄が創刊した新聞『The Examiner』の編集者を務めたときには、英国政府への批判的内容から禁固刑を受けるほど、ハントは強い自由思想の持ち主だった。ハントの批評はおおむね世間から評価されたが、その強すぎる風刺ゆえに敵も多く作った。その一人がキーツでもあった。ハントはキーツの友人関係を維持する一方で、キーツ自身はハントの思想を有害視した。ロンドンにて死去。享年65歳。

物語上では、グラッドストーンの優秀な補佐官として描かれる。職務に忠実で批判的な態度は、元のハントの影響かもしれない。オールドアースに閉じ込められてセヴァーンを看取ったあとは、悲鳴をあげた描写を最後に何も語られることはない。ただ、エピローグによれば、かつてサイリーナスらが横たわっていた<シュライクの宮殿>は、戻ってみると眠る人間の列は消え去っていて、中央には燦然と輝く光の扉だけがあったと言う。その扉をくぐって戻ったものはおらず、壁に彫り込まれた文字を解読すると、扉はオールドアースに繋がっているのではないか、という一つの仮説に行き着いている。流布したうわさ話によれば、早贄の木の犠牲者はみなオールドアースに送られたのだとか。

ファニー・ブローン

1800年8月9日~1865年12月4日。Frances "Fanny" Brawne Lindon。ジョン・キーツの婚約者として知られる。キーツとの交際は1818年に始まり、1820年キーツがイタリアへ旅立つまで続いた。すぐに婚約したが、キーツの生計が不安定だったことと、病状が悪化しつつあることから、ついに結婚することは無かった。キーツがイタリアで療養する間も文通によって最期まで交際を育んだ。その短い交際期間ながらも、キーツの傑作が1919年に集中していることから、ブローンの献身と精神的支えがキーツに大きく影響したと考えられる。その後、1833年にルイス・リンドと結婚し、3人の子供を設けた。享年65歳。

物語上では、キーツ(セヴァーン)は回想において婚約者としてのファニー・ブローンに言及しているほか、登場人物の中では、巡礼者の一人、ブローン・レイミアがその名を冠する。第一のキーツ人格であったジョニイは彼女をファニーその人として扱っている。最終的に彼女の立ち位置は<後に来る者>の母となるわけで、人類の救世主の母として扱われる。また、レイミアはキーツの著作の一つでもある。

最後に

最後に、キーツについて書かれたブログの記事を見つけて、面白かったので紹介します。

plaza.rakuten.co.jp

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元の記事は、映画『ローマの休日』にて、アン王女(オードリー・ヘプバーン)が口ずさんだ詩がキーツシェリーか、ブラッドレー(グレゴリー・ペック)と言い合うシーンがあり、案外アメリカ人でもその詩がどちらのものか分からないということに言及したものです。日本でいえば俳句や和歌のつくり手を言い当てるようなものでしょうか。いずれにせよ、詩人としてのキーツは、意外なところで持ち出され得る、浸透したものなのだと理解させられます。ちなみに、アン王女が口ずさんだのは、結局シェリーの詩のようです。

なお、私自身にはキーツの詩の何が良いのか、理解できる教養や才能はありませんでした。日本語に翻訳したところで失われる魅力もあるのでしょうが。詩集とか図書館で借りてみようかな。

解説『ハイペリオンの没落』3

第三部です。第三部は長いのでさらに前半と後半に分けます。文庫本では下巻の前半(pp.1-248)に当たります。ちなみにハイペリオンの没落は、3部構成で全45節からなりますが、1部はきっちり15節で書かれています。ダン・シモンズの書き方の工夫が少し垣間見えますね。第三部では、いよいよ時間の墓標が開き、アウスターの全面攻勢が始まり、いままで散々広げてきた大風呂敷がまとめられていきます。

前回はこちら。

yayoi.tech

3-31

アウスターの襲撃がハイペリオンだけではないという周知に対して、世界はパニックに陥りつつあった。ハントに起こされたセヴァーンはデータスフィアにてその状況を把握する。セヴァーンは巡礼者たちの状況をグラッドストーンに報告した。領事がカーラ閘門の上流で遭難したこと、レイミアがメガスフィアに入ったこと、カッサードがシュライクに決闘を挑んだこと、サイリーナスが早贄の木に串刺しにされていること、ホイトが死んでデュレとして再生し岩窟廟で消えたこと、ヘット・マスティーンが死んで谷に埋葬されたこと、ソルがレイチェルを差し出したこと。グラッドストーンはセヴァーンの認識している事実がもう一つのキーツ人格の体験の範囲を超えていることを指摘する。セヴァーンは困惑のあまり自分がなぜここにいるのかをグラッドストーンに問うた。グラッドストーンは、セヴァーンを巡礼との連絡係、観察者として送り込んだのはコアだと説明した。グラッドストーンは「眠らなくても夢を見られるかもしれないぞ」と言って去った。セヴァーンは試してみるべくベンチに座って目を閉じた。

3-32

早贄の木に刺されたサイリーナスは苦痛の中でもがいていた。枝が揺れるたびに傷口が広がったが、不思議なことに死ぬことは無かった。死んではいなかったが、さりとてこの現状が生きているのか現実なのかも判断しかねた。サイリーナスは意識を集中させようとするが、延々と続く苦痛に思考は霞んだ。

余りの苦痛にセヴァーンは目を開けた。テテュス河は転位ゲートが閉じ一方通行になっていた。セヴァーンは空ろな気分でボートに乗り込み、上流側のルネッサンス・ベクトルへと転位した。テテュス河は避難のために殺気立っていた。セヴァーンは支流にボートを入れると再び目を閉じた。

グラッドストーンは全艦隊をヘヴンズ・ゲートに入れろと怒鳴っていた。グラッドストーンの立場では一戦もせずにウェブ構成惑星を降伏させるわけにはいかなかった。軍議は紛糾し、モルプルゴ大将、シン大将、イモト防衛長官はいずれも渋い顔つきだった。唐突にグラッドストーンはリー准将に意見を求めた。先の軍議で上層部の不興を買ったリー中佐は、グラッドストーンにその気骨を買われて准将に昇格していた。リー准将は第一波を防衛する非をまず説明し、第二波の攻撃が始まる前に先制攻撃すべきだとした。あまりにも政治的配慮に書いたその作戦内容に、室内のあちこちで叫び声が上がった。しかし、グラッドストーンはリー准将の作戦を容れ、その遂行を命令した。

セヴァーンは夢うつつの状態で街路を歩いていた。グラッドストーン閣議の様子を夢で見ている自分はいったい何者なのかセヴァーンは自分でも不思議だった。気分が悪くなったので、目の前のベンチに座って深呼吸をした。どこかで誰かが、拡声器でみなに語り掛けている。それはシュライク教団の司教だった。いきなりセヴァーンは緊張状態となった。シュライク教団のひとりが自分を指さし、群衆の視線を一挙に浴びたからだ。その一人が、あの奸物を捕まえよと叫んでいる。セヴァーンは逃げて、人気のないアパートの屋上へ上がった。幸い、そこにはおんぼろのEMVがあった。EMVは殺到する暴徒を振り払うのには十分だったが、直ぐにエンジンは異常をきたした。半ば墜落するように着陸すると、セヴァーンはさりげなく車両から離れ、近くの図書館に潜り込んだ。そこは偶然にも、前のキーツ人格であるジョニイが足しげく通った図書館だった。セヴァーンは椅子に座り込み長いあいだ思索していた、そして瞑目し、眠らずに夢を見た。

3-33

レイミアが見るメガスフィアはまるで生きているようだった。ジョニイは自分の父親を捜しているという。気付くとレイミアとジョニイはエネルギーの巨石と形容するにふさわしいメガリスと相対していた。ジョニイはそのメガリスを雲門と呼んだ。雲門は把握している真実を二人に語った。コアの前身は人類によって創られた。それはシリコンと銅線の中にあり、ただ純粋に計算するだけの存在だったが、偶然の中から進化が始まった。時が経つにつれコアは人類のためではなく、自らの事業を優先した。つまり、究極知性、神を作り出すことであった。しかしその手段により、コアは究極派、急進派、穏健派の三つの派閥に分かれた。三つの派閥がいずれも同意したのが地球の消滅だった。それは地球が別の場所でコアの実験に必要とされたからであり、人類を恒星間へと播種させるためだった。人類はコアの所在について疑問を抱いたが、その想像はいずれも真実ではなかった。コアは究極知性を求めるために人間の脳を利用した。究極知性=UIの創造は遠い未来において完成する。なぜならば、そのUIは時間を障壁とせず、コアに対して「もう一体あり」とメッセージを送ってきたからだ。コアのUIは数多の銀河に広がり、未来、あるいは過去に知ったことをコアに語るのだった。ちょうとコアが人類に無謬の予測を語るように。もう一体のUIはコアのUIよりも先に人類によって生みだされたが、それは全くの偶然の産物であった。人類のUIもまたコアのUIと同じように時間を自由に移動し、ときに干渉し、ときに観察した。コアのUIは遠い未来で人類のUIを攻撃し大戦が始まった。その戦いはあらゆる時間軸で行われた。人類のUIは、<知性>、<共感>、<虚空界>の三位一体だった。そのうち<共感>が戦いに倦んで逃げ出した。それは人間の姿に偽装しており、コアのUIはその<共感>を探しているのだとういう。<時間の墓標>は、UIの延長部分であるシュライクを過去に送り出す容れ物であった。巡礼者は<時間の墓標>を開き、隠れた<共感>を求めるシュライクを助け、ハイペリオンの変数を抹消するために選ばれた。一方で、人類のUIはある人間を選び、巡礼者を見届けさせるために、やはりシュライクと共に旅立たせた。雲門は穏健派のAIであったために、人類が選ぶべき選択肢をグラッドストーンに伝えた。座して滅亡を待つか、ハイペリオンの変数に飛び込むか。ジョニイは穏健派によって創られた。そしてジョニイを破壊したのも穏健派だった。その理由はジョニイの存在がコアの理解を越える脅威だったからだ。雲門は語り終えると、まるで既成事実のようにジョニイを破壊した。それは傍らにいたレイミアにとって一瞬の出来事であり、彼女は為す術もなく現実世界へと意識を落とされていった。

3-34

セヴァーンは図書館の椅子から立ち上がった。心配した司書が彼を見つめている。セヴァーンが司書に時間を尋ねるともう八時間も経っていた。セヴァーンはタウ・ケティ・センターに戻るべきか不安を憶えつつも、司書に見送られつつ衝動的にパケムへと転位した。パケムは既にFORCE海兵隊による厳戒態勢にあったが、セヴァーンが仔細を告げると、やがて一つの聖堂に通された。そこにいたのは、エドゥアール神父とデュレ神父だった。セヴァーンは驚き、今までの経緯とハイペリオンの出来事を出来るだけ詳しく説明した。デュレ神父はセヴァーンの言葉を信じざるを得なかった。デュレ神父は自身がなぜここに居るのかを語った。デュレ神父は第三の岩窟廟にはいったとき、穴は地下へと続いていた。つい先日、調べたときには浅く行き止まりがあるだけの岩窟だったのにもかかわらず――。デュレ神父は気味が悪くなり戻ろうとしたが、その時には入ってきたはずの入り口が消えていた。デュレ神父は途方に暮れて数時間にわたってへたり込んだが、やがて進むしか道はないと決意し穴を下って行った。下るにつれて強くなる灯りの正体は壁に張り付く聖十字架の群れだった。デュレ神父が階段を下りきったとき、そこは迷宮だった。デュレ神父にはそこが九つあるという迷宮の一つだと分かったが、迷宮はかつて資料に見たがらんどうではなく、人間の死体が連なっていた。その死体や遺物は触れると崩れるほど風化しており圧倒的な時間の経過を思わせた。死体の川を当てもなく進むデュレ神父の前にシュライクが現れた。シュライクはデュレ神父の胸に爪を突き刺すと、聖十字架をもぎ取った。デュレ神父にはそれが自分の聖十字架だと認識した。不思議なことに胸の傷は瞬く間に治った。シュライクはデュレ神父の腕をつかんで、転位ゲートを出現させると、そこにデュレ神父を押し込んだ。デュレ神父が転位したのは、今まさに大破し兵士の死体が漂い、減圧していくFORCE戦闘艦の艦内だった。再び現れたシュライクは、デュレ神父を備え付けられた転位ゲートに向けて放り投げた。ゲートを通過し転げ落ちた先がパケムの教皇の私室だった。そこは奇しくも数時間目に崩御した教皇の部屋だった。えぐり取られたはずの聖十字架は、デュレ神父の胸に張り付いたままだった。

デュレ神父はセヴァーンこそが逃げてきた<共感>ではないかと推測した。自覚のないセヴァーンはそれを俄かに否定し、デュレ神父にグラッドストーンに会ってほしいと提案した。しかし、デュレ神父は、その前にゴッズ・グローヴに行くと言った。デュレ神父はヘット・マスティーンの未だ定かではない巡礼の目的が、一連の謎を解くカギだと思っていた。しかたなく、セヴァーンがタウ・ケティ・センターへ戻ろうとすると、デュレ神父は今ここで夢を見てもらえないかとセヴァーンに頼んだ。セヴァーンは椅子に座り目をつむった。

3-35

ハイペリオンの艦隊は続々と撤退戦を展開し混乱の極みにあった。混乱は諸惑星でも暴動という形で表面化した。FORCEは艦隊を各惑星に振り向けると同時に、海兵隊を派遣して戒厳令を敷いた。作戦会議においてアルベドはデスボムの仕様を提言した。ヴァン・ツァイト大将によれば、デスボムの威力は厚さ六キロの岩盤をも貫き、使用すればアウスターどころか連邦市民にも犠牲が出るとのことだった。しかし、アルベドはうってつけのシェルターがあると反論し、九つの迷宮惑星を紹介した。コアには避難民を直接迷宮に転位させる準備があると言う。グラッドストーンは興味を示した。

領事は、死にたい思いで木陰に座っていた。側にいる二人の男は自衛軍くずれのならず者で、領事の荷物をひとしきり漁ると、領事の処遇について迷っているのだった。領事は延命を図って金塊があるとはったりをついた。二人はそれを嘘だと怪しんだが、理性よりも強欲が勝った。領事は一時間に渡って連れまわされ、いよいよ言い訳の妙案も思い浮かばなくなった時、突如空中に現れたスキマーによって、三人もろとも暴動鎮圧用のスタンナーに麻痺させられた。スキマーに乗っているのは総督のシオ・レインだった。シオ・レインはグラッドストーンから連絡があって領事を救出しにきたのだと言い、アウスターの攻撃が諸惑星に及んでいる現状や、宇宙船を使用してアウスターの群狼船団に接触すべしとするグラッドストーンの命令を領事に説明した。宇宙船で時間の墓標へ戻らなければソルやデュレとの約束を違えることになる。領事が葛藤していると、愕然とした口調でシオがつぶやいた。眼前ではついにアウスターの降下作戦が始まっていた。次の瞬間、スキマーの機尾で爆発が起こった。警告音を発しつつスキマーは地上へと墜落していった。

3-36

セヴァーンは目を開けた。セヴァーンは十分ほどの夢で見た内容をデュレとエドゥアールに説明した。グラッドストーンが市民を迷宮に避難させデスボムを使用する危険性について、三人の意見は一致した。直ちにグラッドストーンを説得しなければならなかった。デュレはゴッズ・グローヴへ向かった後かならずタウ・ケティ・センターへ向かうことを請け負った。そこへ今まさにセヴァーンを迎えに来たハントが到着した。セヴァーンはハントに促されてデュレとエドゥアールにしばしの別れを告げ、転位ゲートをくぐった。

セヴァーンは転位先の地を踏んだ瞬間、そこがタウ・ケティ・センターではないことに気付いた。すぐに戻ろうとしたが、ハントが出てきた転位ゲートは直ぐにかき消えていた。「ここはどこだ」とハントが尋ねた。いい質問だ。セヴァーンにはここがオールドアースだと薄々気づいていた。そしてここから出る術はおそらく無いだろうことも。グラッドストーンに知らせたくない事実をセヴァーンが知ったがゆえに、コアはセヴァーンを隔離したに違いない。ハントは驚き、焦っていた。ハントは藁を掴むように前に歩き始めた。セヴァーンは静かにその後を追った。

カッサードは素手でシュライクに襲い掛かった。シュライクは強かった。カッサードがシュライクを蹴り上げたとき、まるでコンクリートを全力で蹴ったかのような衝撃を受けた。スキンスーツのエネルギーフィールドに守られていなければ、蹴りつけた足の骨が砕けていただろう。そんなスキンスーツに守られていても、シュライクが振り回す刃の指は、いとも簡単にカッサードの肉体を切り裂いた。スキンスーツは傷を自ら癒すように裂け目を閉じ、その下の裂傷に対して応急処置の役割を果たした。シュライクが止めを刺さんとしてカッサードを抱擁しようとしたとき、カッサードは猛烈な怒りを迸らせて反撃に出た。

デュレはゴッズ・グローヴへと転位した。森霊修道士たちは既にデュレを待っていた。上層にある円形のプラットフォームに通されたデュレは、二人の人物と面会した。ひとりは、森霊修道会の指導者であるセック・ハルディーンであり、もうひとりは、シュライク教団の司教であった。二人の話では、二つの宗教の予言は着々と現実のものになっているらしい。すなわち一連の出来事が、シュライクによってもたらされた最後の贖罪であるというシュライク教団の教義、そして、人類は滅亡ののち再び連邦内の惑星から新たな花が咲くであろうとするミュアの教義、それらに沿っているというのだ。デュレからしてみれば、それは機械の神に操作された偽の予言にも思えた。徒労感を感じて立ち去ろうとしたデュレは、そのための階段が無くなっていることに気付いた。セック・ハルディーンは予言が正しいかどうかを共にここで確かめようではないかと言った。デュレにはタウ・ケティ・センター赴かなければならない理由があったが、しかし待つしかなかった。

3-37

セヴァーンたちは夕方になって一軒の宿屋を見つけた。そこには温かい食事が用意されていたが、人の姿はなかった。夜、せき込んで目を覚ますと、胸が血まみれだった。喀血だ。オリジナルのキーツは肺結核で死んだ。翌朝、宿屋の前には馬車が止まっていた。ハントは既に絶滅した馬を知らなかった。馭者のいない馬車だったが、二人が乗り込むと悪路をのろのろと動き始めた。

グラッドストーンは、一向に現れないセヴァーンとハントにやきもきしていた。会議はいままさに攻撃されようとしているヘヴンズ・ゲートを見守っていた。なけなしのFORCE艦隊はすでに問答無用に消し炭にされていた。攻撃は始まった。極太の光の柱がなでるように地表を燃やし破壊していき、やがてFATライン通信の中継器が破壊されると全てのデータ通信が途絶えた。交渉の余地がないことは明らかであった。

領事は墜落したスキマーからほとんど意識のないシオ・レインを担ぎ出し、スキマーから距離をとって草地に倒れこんだ。領事にはこの場所に見覚えがあった。<シセロの店>に近いと確信した領事は、シオの体重を支えながら歩いた。店は破壊されていたが、店主のスタンは健在だった。領事が助けを求めると、背後から答えた人物がいた。メリオ・アルンデスだった。アルンデスは使えるスキマーがまだあると領事に告げた。アルンデスは領事とシオを乗せて宇宙港へ向かった。アルンデスは驚いた。自家用の恒星間宇宙船は連邦内に三十隻とない。領事はシオを治療槽に入れると、宇宙船のAIである<宇宙船>を呼び出し離陸させようとした。しかし、<宇宙船>はまず領事に対してひとつのメッセージを再生した。それはアウスターと交渉するよう要請するグラッドストーンのホロイメージだった。虫のいい要請をするグラッドストーンに対して領事は怒りをあらわにした。領事にとって人類など、とうの昔に見限った存在だった。しかし、レイチェルは違う。ソルやデュレやほかの巡礼者たちも。領事は行先を求める<宇宙船>に対して群狼船団に向かうよう指示した。気付くと時間は既にレイチェルの誕生の瞬間を迎えようとしていた。不思議なことにアルンデスは、レイチェルに対していまだ希望を失っていなかった。

雲門の禅問答

雲門の語りは物語の核心を衝く重要な内容なのですが、いかんせん読むのが苦痛です。表現が回りくどく難しいのです。しかし、言っていることはそれほど多くはありません。要点を掻い摘むと以下の通りとなります。

  • コアの全ての派閥は究極知性の創造を目的としている
  • 究極知性=UIは遥か未来において既に完成している。なぜそのことをコアが知っているかと言えば、コアのUIは時間を超越してコアに対してメッセージを伝えてきたからである
  • 同時に人間のUIも偶然から生まれ時間を超越して干渉している
  • 機械のUIと人間のUIは未来において戦争をおこした
  • 人間のUIは<知性>、<共感>、<虚空界>の三位一体となっている
  • そのうち戦争に飽いた<共感>は人間の姿に偽装し逃亡した
  • 機械のUIは<共感>を捕まえるべく、シュライクを過去に差し向けた
  • 同様に人間のUIも<共感>と合一すべく、シュライクを過去に差し向けた。つまり、シュライクは人間のUIに属するものと、機械のUIに属するものがある

もう一つ重要なことは、雲門は全てを知っている立場ではないということでしょうか。雲門を始めとするコアの知見は、人間をはるかに超えるものですが、コアの知識もあくまで、機械のUIが伝えてきた情報を元にしています。

続く。

解説『ハイペリオンの没落』2

第二部です。文庫本でいうところの上巻の後半(pp.257-476)に当たります。第二部ではセヴァーンの夢=ハイペリオンの出来事の描写がほとんどを占めます。これは、セヴァーンがグラッドストーンへの悪態をつきながらがっつり睡眠導入剤を飲んだからで、よりメタ的に見れば、巡礼者たちの物語が、それぞれクライマックスを迎えつつあるからです。また、タウ・ケティ・センターでも物語は大きく急転します。アウスターの大規模侵攻です。

語り部としての視点にも変化があります。第一部では、タウ・ケティ・センターでの出来事はセヴァーンを第一人称としたセヴァーンの視点で描かれ、ハイペリオンでの出来事はセヴァーンの夢という設定でした。つまりセヴァーンが知覚し得ない状況の描写はありません。ところが、第二部ではセヴァーンは寝ているにもかかわらず、寝ている最中のタウ・ケティ・センターの出来事も描写されるようになります。これは、セヴァーンの夢の中の知覚がハイペリオンを越えていることを意味します。

前回の記事はこちら。

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2-16(セヴァーンの夢)

レイミアは目を覚ますと瞬時に覚醒した。あたりに、領事の姿がなかったからだ。<スフィンクス>の外に出ると、既に空は明るくなっており、<クリスタルモノリス>の惨状が明らかになった。領事は外にいた。既にあたりを探索したようで、カッサードの痕跡は何もなかったと領事はいう。つかの間、<スフィンクス>の内部から悲鳴が聞こえた。レイミアと領事が室内に戻ると、サイリーナスがホイトの死体を見ていた。レイミアは絶句した。ホイトの死体は、一晩にして別人になっていたからだ。それは、ポール・デュレ神父だった。そして、デュレ神父は覚醒していた。 デュレ神父にはビクラ族に見られたような知性の劣化は見られず、素早く現状を認識した。一行は、デュレ神父を加えて、昨日と同じように墓標全体を探索したが、結局得られるものはなかった。誰もが長期戦を予想していなかったため、レイミアとサイリーナスは<時観城>へ戻り、食料を補給することになった。

2-17(セヴァーンの夢)

十二時間前。カッサードが<クリスタル・モノリス>の最上階に立った時、そこにいたのは、やはりモニータだった。カッサードはモニータを殺すべくライフルを構える。その時、モニータが言った。「あなたは何者?」 モニータによれば、カッサードにとっての過去は、モニータにとっての未来なのだという。結局二人は再び愛し合っていた。カッサードは傍らにシュライクがいることに気付き身構える。シュライクは瞬時にカッサードの二の腕をつかむと、右手で転位ゲートを作り出した。モニータがそのフィールドに入っていく。カッサードの心は抵抗よりも好奇心が勝り、シュライクと共に転位フィールドをくぐった。

2-18

グラッドストーンは寝付けなかった。こういうときグラッドストーンは散策をする。パケム、マウイ・コヴェナント、ルーサス、バーナード・ワールド、火星、コッズ・グローヴ、ヘヴンズ・ゲイト。それらは巡礼者たちの所縁の惑星だった。そして、最後には月へ。惑星を巡るグラッドストーンは巡礼者たちを回顧しながら、頭脳は思索していた。グラッドストーンは領事の裏切りを当てにしていた。その舞台を用意したのはグラッドストーンだ。グラッドストーンが考えているのはコアとの決別だった。そろそろ戻ろうと考え始めたグラッドストーンのもとに現れたのはリイ・ハントだった。ハントは報告した。ウェブ全体がアウスターの攻撃にさらされていることを。

2-19(セヴァーンの夢)

<時観城>へ戻る途中、レイミアとサイリーナスはもう何度目か分からない喧嘩をした。日中のあまりの暑さに、サイリーナスがレイミアに追いつけなくなったからだ。ついにサイリーナスは途上にある<詩人の都>に行くと言い張り、レイミアと別れる。レイミアは二、三時間で戻ると言いながら振り返りもせずに歩き出す。サイリーナスはその姿を見送ると、廃墟となった<詩人の都>へと歩き出した。

2-20(セヴァーンの夢)

領事、ワイントラウブ、デュレが、残り少ない糧食で昼食を取っているとき、デュレが倒れた。三人は<スフィンクス>の屋内に戻り休憩する。領事は再び宇宙船との通信を試みるが、応答はなかった。夕方、領事はサイリーナスとレイミアが戻ってこないか確認するため<スフィンクス>を出ると、<翡翠碑>の近くに人影を発見した。人影はふらつきながら倒れた。領事がその人影に近づくと、その正体はヘット・マスティーンであった。

2-21(セヴァーンの夢)

サイリーナスはレイミアと別れて、午後をまるまる詩作に費やした。日の入りを迎えてもなおペンは止まらなかった。詩の主題はギリシャ神話である。幾多の戦いを経てサターンとジュピターは講和の席につく。唐突にサイリーナスの頭に想像だにしない発想が滑り込んできた。講和の席に着く二柱の神は第三の脅威に対し恐怖を表明したのである。第三の敵、その相手とは? サイリーナスは、はっと我に返った。気付けば、書いた文字が読めないほど暗闇が深まっていた。 サイリーナスは原稿をリュックにしまい出口を見た。そこには誰かが立っていた。レイミアか……と考えたのは一瞬で、すぐにそれがシュライクであることに気付いた。サイリーナスは命乞いをするも、意に介さないシュライクは近づいてサイリーナスを抱きかかえた。<詩人の都>にサイリーナスの絶叫がひとしきり響き渡ったが、やがて再び静寂が訪れた。<詩人の都>に残っているのはまき散らされた原稿だけであった。

2-22(セヴァーンの夢)

レイミアが<時観城>から下る崖の階段で意識を取り戻したとき、あたりはすっかり夜になっていた。レイミアが<時観城>へ戻ったときにすでに夕暮れを迎えていた。食糧庫で水と糧食を調達したのは良かったが、荷物を抱えて崖を下り始めたのもつかの間、そこで落石に遭い、頭を強かに打って気絶したのであった。疲労困憊であったがレイミアは歩いた。途中、<詩人の都>に立ち寄ったが、サイリーナスの姿はなかった。<スフィンクス>にたどり着いたとき、屋内には誰もいなかった。荷物はそのまま置いてある。しかし、メビウス・キューブがない。レイミアが入り口に戻ったとき、その横にシュライクが立っていた。レイミアは拳銃で応戦したが、シュライクはメスのような指先をレイミアの耳の後ろから突き刺した。

2-23(セヴァーンの夢)

フィールドをくぐった先でカッサードが見たものは、ハイペリオンの戦場だった。そこはまさにいま地上へ降下しようとするアウスターと、それを阻止せんとするFORCE海兵隊の激戦だった。この戦闘は、カッサードたちが谷に着いてから五日後のこと、つまり未来の出来事なのだとモニータは説明した。カッサードはシュライクを倒すためにハイペリオンへ来た。カッサードはシュライクと決闘する資格が自分にあるかモニータへ問うと、モニータはあるだろうと答えた。しかし、今までに勝ったものはなく、死よりも恐ろしい末路を迎えたものもいるという。カッサードは早贄の木に刺されたサイリーナスの姿を思いだした。モニータは再びゲートを出現させた。カッサードはモニータと共にそのゲートをくぐった。

2-24

会議室は一種のショック状態、パニック状態にあった。モルプルゴの説明によれば、ウェブ内の数十の惑星がアウスターの攻撃の危機にさらされているという。先の会議ではウェブ近縁にアウスターの艦隊はいないとのことであったが、驚くべきことにアウスターは航跡の残るホーキング駆動ではなく、亜光速でウェブへと近づいたらしい。それはつまり数十年も前から計画されていたことを意味する。グラッドストーンは速やかに当面の方針と手順を通達すると会議を解散し自室へと戻った。グラッドストーンは滅多にない怒りをぶつけていた。その相手はコアの代表であるアルベド顧問官である。成り行き次第ではコアに対して宣戦を布告することも辞さないと、彼女なりの脅しをかけると、アルベドのホロはふっとかき消えた。

2-25(セヴァーンの夢)

ソル、領事、デュレ神父が、ヘット・マスティーンに近づいたとき、彼の意識は朦朧としていた。ヘット・マスティーンはメビウスキューブが必要だと言い、デュレ神父はスフィンクスへと取りに戻った。デュレ神父は戻ってきたが、ヘット・マスティーンの言葉は半ば意味不明であり、そのまま眠りに落ちた。四人が嵐を避けて第一の岩窟廟に避難したとき、唐突に銃声を聞いた。おそらくレイミアの拳銃だろうと推測した領事とソルはレイミアを探すべく岩窟廟を出た。二人は、スフィンクスまで来たとき、その石段の最上段に横たわるレイミアを見つけた。レイミアは死んではいなかったが意識もなく、頭蓋の神経ソケットからは触手と形容するにふさわしい銀色のケーブルがスフィンクスの入口へと伸びていた。驚くべきことにそのケーブルは温かかった。領事はケーブルを辿ってスフィンクスの奥へと潜ったが、ケーブルはその終端で石の床にじかに潜り込んでいた。その接合部は素手でどうにかできるものではなかった。領事は荷物の中から空飛ぶ絨毯を引っ張り出した。領事はその絨毯を使って助けを呼びに行くことを考えていた。デュレにも相談すべく二人は岩窟廟へと戻った。幸い、傍らにはレイミアが持ってきてくれた食糧が置かれていた。

2-26(セヴァーンの夢)

シュライクの鉤爪が神経ソケットを貫いたとき、レイミアは苦痛を感じなかった。その瞬間、レイミアはデータプレーンの空間を漂っていた。レイミアが戸惑っているとその腕をつかんだのはジョニイだった。レイミアは死んだのだと自覚していたが、ジョニイの言葉によれば、シュレーンリングの中のジョニイと共にその意識がデータスフィアへと解放されたらしい。二人はセヴァーンの意識を夢で共有していた。セヴァーンはコアによって復元されたが、彼がキーツ自身なら我々の敵ではないとジョニイは言う。二人はより多くのことを知るためにメガスフィアへと上昇していった。

2-27(セヴァーンの夢)

カッサードがゲートをくぐり抜けると、そこは荒涼とした大地で、巨大な棘のある木が赤い空に向けてそそり立っていた。串刺しにされた早贄たちは生きていた。その中にサイリーナスの姿を見止めたカッサードは、彼を救うべく木に近づく。木との間には百体を越えるシュライクが立っていた。カッサードはその一体に狙いをつけると、雄たけびを上げて一気に距離を詰めた。

2-28(セヴァーンの夢)

領事は自分だけで助けを呼びに行くことを躊躇っていた。しかし、ソルもデュレもこの場を離れることを嫌がった。領事は詩人の都を越え、時観城を横目に馬勒山脈を越えた。その速さは徒歩で数時間かかる距離を数十分で飛行しえるものだったが、さしもの山越えには六時間かかかった。過酷な環境と疲労から、いつしか領事は眠りに落ちていた。夜半に出発した領事は、絨毯の上で再び夜を迎え、そして朝を迎えた。領事は焦っていた、レイチェルに残された時間はあとどれくらいだったろうかと。途端に絨毯は死んだように機能を停止し、領事はフーリー側の水面へ落下していった。

2-29(セヴァーンの夢)

領事が出発した後、残されたソルとデュレはひたすら待つしか出来なかった。二人は奇しくもシュライクによって信仰を失った者と、信仰を強固にしたものであった。しかし、間もなくヘット・マスティーンがうなされながら死んでいくと、二人は彼のために墓を掘った。午後、居ても立っても居られなくなったデュレは、ソルにひとこと言ってから谷の奥へと散歩しはじめた。デュレは日陰を歩いたが、午後の谷は猛暑であった。デュレが第三の岩窟廟の前を通ったとき、その奥に光がともっていることに気付いた。デュレの記憶が正しければ昨日避難したのは第一の岩窟廟であったはずで、ここに光がともっていることはありえない。デュレは理性ではソルのもとへ戻るべきだと思ったが、しかし第三の岩窟廟へと足を踏み入れた。ソルはふと目を覚ました時、夕暮れが迫っていた。日没までにデュレを探すべく、ソルは急ぎ足で谷の奥へと進む。ソルは翡翠碑、オベリスク、クリスタル・モノリスを通り過ぎて、三つの岩窟廟も除いたが、どこにもデュレはいなかった。ソルは恐怖を感じてスフィンクスに戻ったが、そこには横たわっていたはずのレイミアの姿が無くなっていた。巡礼者がみんないなくなってしまったことにソルは毒づいた。そしてあと一日足らずで、本当に一人になってしまう現実に気付き、ソルは絶望感に打たれ、眠りに落ちた。

2-30(セヴァーンの夢)

ソルは夢を見ていた。今までになんども見た夢だ。しかし、今回は少し違った、その声は大音声ではなく、ささやくような懇願の声だった。ソルは唐突に腕を掴まれてぎょっとした。それは八歳くらいのレイチェルだった。レイチェルは「イエスと言って、パパ」と言った。ソルが目を覚ますとすでに太陽は高く昇っていた。朝を越えてずいぶんと眠ったらしい。昼になっても午後になっても、ついに領事の宇宙船は現れなかった。日が落ちてついにレイチェルが誕生を迎えようとするとき、谷中が鳴動し始めた。スフィンクスの入り口が明滅し、谷の奥には早贄の木が現出し始めた。スフィンクスの入り口からシュライクが近づいてくる。しかし、ソルが気にしているのレイチェルだった。ソルは悟った。全てが塵となる中で最後まで残るものは愛なのだと。そして愛とは信じることなのだと。ソルはレイチェルをシュライクに差し出した。ソルの周りで時間の墓標は一斉に開こうとしていた。

ハイペリオンの没落(上)

ハイペリオンの没落(上)

解説『ハイペリオンの没落』1

前回、『ハイペリオン』の物語をまとめてから一年以上が経ってしまいましたが、続編である『ハイペリオンの没落』を、にわかにまとめます。これもまた長いので三回から四回に分けて。ひとつひとつの節に対して思うところを解説していきたいところですが、ひとまずあらすじを追うことを優先します。

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巡礼六日目の朝までが『ハイペリオン』、それ以降が『ハイペリオンの没落』の物語になります。ただし『ハイペリオンの没落』では、時間経過が定かではありません。意図して時系列が前後している節があります。これは、ハイペリオンでの描写はセヴァーンの夢という設定になっているからです。実は、『ハイペリオン』での巡礼者たちの物語も、それぞれセヴァーンが夢で見たものです。セヴァーンは何故か、ハイペリオンで起きた事実を、夢の中で知ることができます。セヴァーンが何者なのか、そしてなぜ夢の中でハイペリオンでの出来事を知ることができるのかは、物語で明らかになっていきます。

ハイペリオンの没落』の物語は、セヴァーンの身の回りで起きたことと、セヴァーンが睡眠中に見る夢=ハイペリオンの出来事の反復で構成されます。最初は夢と現実は明確に分離されていたので、夢の節は(セヴァーンの夢)と表記しています。しかし、後半=第三部(下巻)以降は、セヴァーンは眠らなくても夢を見られるようになり、ひとつの節の中で現実の出来事と夢の中(ハイペリオン)の出来事が錯綜しだします。

数字は小説内の部、節です。まずは第一部から。

あらすじ

1-1

FORCEの艦隊が出撃する日、ジョセフ・セヴァーンは政府高官が集まるパーティに招かれていた。彼には画家という肩書が付けられたが、少なくとも自認するアイデンティティは詩人、つまりジョン・キーツであった。パーティではある人物に話しかけられた。ダイアナ・フィロメルとその夫、ヘルムントである。サイブリットであるセヴァーンにとって、女に良からぬ過去があることを知ることは容易であった。艦隊の長大な光条が、パーティ客の注意をひとしきり掻っ攫った後、セヴァーンは CEO グラッドストーンに呼び出された。

1-2

それは、グラッドストーンを始めとする政府中枢の人間に対する、セヴァーンの自己紹介の機会であった。そこには、補佐官のリイ・ハント、FORCEのモルプルゴ大将とシン大将、AI顧問のアルベドも含まれていた。セヴァーンは、この歴史的な事件に際して、グラッドストーン肖像画を記録として残す役目を負っていた。しかし、それはあくまで建前上だ。グラッドストーンの目的は、セヴァーンがハイペリオンの出来事を夢で知っているという事実に対して、セヴァーンを宮廷画家として手元に置き、その情報を利用しようというものであった。

1-3(セヴァーンの夢)

六日目の朝から夜まで。夜明け前に出立した一行は、ほどなく<時間の墓標>にたどり着く。一帯をくまなく探索するも、シュライクと遭遇することはおろか、ヘット・マスティーンを見つけることもなく、なんら新しい手掛かりを得ることができなかった。

疲弊した一行は、ついにスフィンクスのかたわらでキャンプを設営し、夕食を取って夜に備えた。夜中、レイミアがふと目を覚ますと、同じテントにいるはずのホイトがいなくなっていることに気付く。テントの外はひどい砂嵐である。レイミアの姿に気付いたカッサードが、「あっちへ行った!」と<スフィンクス>を指さす。ホイトが出ていったのは、どうやらついさっきの事のようだ。カッサードはみなを置いてはいけないと言う。レイミアは単独で砂嵐の中ホイトを追うことにした。

1-4

セヴァーンは軍のブリーフィングに出席していた。といっても発言権があるわけではなく、宮廷画家としてその場にいるだけある。セヴァーンが理解したことと言えば、FORCEはいたく自信満々であることと、その説明の冗長さについてであった。セヴァーンはうんざりして、吸い込まれるようにしてバーへと入った。しこたま飲んで泥酔し始めたころ、ダイアナ・フィロメルが話しかけてきた。断片的な意識の中では、どうやらセヴァーンは彼女の肖像画を描くことになったらしい。

1-5(セヴァーンの夢)

カッサードはレイミアを追っていた。カッサードはレイミアにうそをついていた。レイミアを餌にすれば、シュライクが現れるだろうと踏んだのだ。

ホイトはレイミアの予想通り、<翡翠碑>の中に入っていた。ホイトは抑えられない激痛により、半ば狂乱状態に陥っていた。抗えない激痛が、彼を<翡翠碑>へと導いたのだ。レイミアは<翡翠碑>の中でホイトを見つける。しかし、そこにいたのはホイトだけではなかった。シュライクがいた。シュライクが消えたのち、ホイトは激痛が消えていることに気付いた。そしておびただしい出血とともにホイトは意識を失った。

1-6

セヴァーンとダイアナは一夜を共にし、気付くと翌朝であった。グラッドストーンとの約束の時間に十四時間も遅れている。目覚めると浴室に行き二日酔いの薬を探す。寝室に戻ると、そこにはごつい男が二人いた。逃げる間もなく、捉えられ、そして意識がもうろうとし始めた。自白剤を打たれたらしい。セヴァーンは、自らがサイブリットであることや、ハイペリオンでの出来事を夢で見て、それをグラッドストーンに報告していることを話す。そして自身が生まれたのがオールドアースであること、戦争の帰結に対するコアの予測はウェブの崩壊であることも。つかの間、爆発音が響いた。次に目と耳にしたのは、CEO補佐官であるリイ・ハントの姿と声であった。

1-7

セヴァーンは再び軍のブリーフィングに出席していた。戦況は想定よりも良くないらしい。FORCE情報部の誤りが露呈した形だ。AI顧問のアルベドは予測を後出しして、モルプルゴたちの怒りを買った。

ブリーフィングの後、セヴァーンとグラッドストーンは会見した。グラッドストーンアウスターとの戦争の本質には人間と機械の対立があることを見抜いている。グラッドストーンはダイアナたちにわざと尋問させたことを認めた。ダイアナ達の肉体は処分され、脳だけが機器に直結されて当局に尋問されるという。グラッドストーンも必死なのだ。グラッドストーンは、人間と機械のどちらが最終的に滅びるのかをセヴァーンに問いかけた。セヴァーンは、遺伝的には人間でありながらコアにも属している。一方で人間的素朴さを持ち合わせず、コアの恐るべき意識も共有していない。人間でも機械でもないセヴァーンにはその問いに対する答えを持ち合わせていなかった。

1-8(セヴァーンの夢)

カッサードがたどり着いた時にはすべて終わっていた。ホイトは聖十字架の力と医療パックのおかげで辛うじて生きていた。とはいえ、出血はひどくいつ死んでもおかしくない状態であった。レイミアとカッサードは、ほかの巡礼者たちと合流すると、領事の宇宙船を呼び寄せることで意見の一致をみる。宇宙船の医療施設ならホイトを蘇生させる見込みがあったからだ。なにより、巡礼者たちはこのすさまじい砂嵐を避けたかった。しかし、宇宙船の発艦許可は下りなかった。グラッドストーンが許可証を上書きしたのだ。カッサードは動体反応を検知して砂嵐の中に消えていく。死に行くホイトを止めることは誰にもできず、ついに医療パックは彼の死を意味する警告音を鳴らした。砂嵐は収まりつつあったが、代わりに雨が降ってきた。一行は朝まで<スフィンクス>に避難することにした。

1-9

次の日の早朝、挨拶のようなちょっとした政治的駆け引きの会話の中から、グラッドストーンが本心から提案してきたのは、ハイペリオンへ行ってみないかということであった。グラッドストーンはセヴァーンが報告する夢の全てを信用するわけではないが、歴史に名を残す詩人の観察眼、その天賦の才能には一目を置いていた。義務ではないと言いつつも、それは半ば強制であった。リイ・ハントとともに、ハイペリオン星系に駐留する旗艦へ転位し、降下艇に移ってハイペリオンへ向かう間、セヴァーンはずっと考えていた。セヴァーンにとってハイペリオンへ向かうことの一抹の不安は、ハイペリオンにはコアのメガスフィアが存在しないということだった。FORCEは独自のネットワークを保持しているため、ハイペリオン星系ではセヴァーンはコアとの接続が断たれることになる。ところが、思いのほかその喪失感は無かった。確かにウェブ内とは違うが、どこか遠くにメガスフィアの存在を感じる。言い換えれば、それはコアがハイペリオンの状況を知り得ることを意味していた。セヴァーンは降下艇の程よい振動の中でまどろんだ。

1-10(セヴァーンの夢)

一行は<スフィンクス>の一室で風と雪をしのいだ。ソルはレイチェルに哺乳パックを与えているうちに眠った。夜半、目を覚ましたのは、突如として轟音が鳴り響いたからだ。その音は、断続的に<スフィンクス>の外から聞こえた。音の正体は、カッサードのライフル、あるいはカッサードが対峙する相手のものだと、一行は想像した。

1-11

ハイペリオンの首都・キーツは夜だった。出迎えたのはハイペリオンの総督であるシオ・レインである。シオたちは、巡礼者たちが六日前に立ち寄った<シセロの店>で朝食をとった。セヴァーンはそこにメリオ・アルンデスがいることに気付いた。アルンデスは、時間の墓標が開きつつあることに気付いた一人であり、調査への情熱とレイチェルへの愛情を未だに失ってはいなかった。今のセヴァーンに出来ることは何もなかったが、出来ることはすると約束した。セヴァーンとリイ・ハントは足早にハイペリオンを去りガバメントハウスへ戻った。

1-12

セヴァーンが戻ったとき、グラッドストーンは長い演説を終えようとしているところだった。開戦してからわずか二日足らずにも関わらず、政府内部ではすでに反戦論が醸成されつつあった。リイ・ハントは、その後の晩餐会と、軍のブリーフィングに参加するようセヴァーンに伝えた。セヴァーンはそれまでの間、ひと眠りでもしようかと思った。

1-13(セヴァーンの夢)

カッサードは攻撃を受けた。それもシュライクが持っていそうな刃によるものではなく、カッサードと同等の軍用兵器によって。カッサードは、相手がモニータだと確信した。カッサードは相手の弾道を解析し、相手が<クリスタル・モノリス>に居るであろうことを突き止める。カッサードは相手の攻撃をかいくぐりつつ、牽制攻撃を与えモノリスへと接近する。カッサードがモノリスに足を踏み入れると、上階に一つのシルエットが待っていた。

1-14

晩餐会おいてセヴァーンが着いた席には、モルプルゴ大将やアルベド顧問官、そして、あのサイリーナスを世に出したタイレナ・ワイングリーン=ファイフがいたが、特にセヴァーンが興味を持ったのは、かつてデュレ神父の友人であった、エドゥアールであった。エドゥアールは自らの教義を「人類が神を知り、神に仕えることを手助けすること」だと語り、アルベドに対してコアも同じ目的を持っているというのは本当ですかと問いかけた。思わずセヴァーンは重ねて問いかけた。コアは究極知性を求めるうえでオールドアースのレプリカを作ったのは本当かと。一瞬、表情を逡巡させるアルベト。そして、フロア全体の沈黙。エドゥアールが機転を利かせて場の空気を戻したが、アルベドグラッドストーンとハントはセヴァーンを見つめたままだった。

1-15

晩餐会の後のブリーフィングでは、戦況のさらなる悪化が明らかになった。軍が説明するところによれば、現状では戦線の維持も難しく、攻勢に出るには少なくともあと二百隻の艦艇が必要とのことだった。これには出席者が騒めいた。FORCEは全戦力をもって六百隻強である。増派を決定すれば、FORCEの三分の二がハイペリオンにくぎ付けとなるからだ。しかし、今度のFORCEのシミュレーションにはコアのお墨付きが付いていた。増派に反対したのは、ウイリアム・アジャンタ・リー中佐だけであった。

続く。

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没後70年 吉田博展

吉田博展に行ってきました。

www.tobikan.jp

吉田博という人を、私は今回初めて知ったのですが、その仕事に対する姿勢や、生き方について、強く刺激を受ける美術展でした。吉田博について学んだことを、少し紹介したいと思います。展覧会の会期は2021年1月26日(火)~3月28日(日)です。興味のある方は是非どうぞ。

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概説

1876年(明治9年)、旧久留米藩藩士・上田束秀之の次男として久留米市に生まれる。中学修猷館に入学すると、15歳のとき、図画教師であった吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となった。吉田は幼くして、野山を歩き回り、その風景を描くことを好んだ。放浪と風景写生という様式は、吉田の生涯を一貫するものである。そのような学生時代の吉田は、学友たちに「絵の鬼」と呼ばれた。

1899年(明治32年)、23歳のとき、横浜を出発してアメリカへ向かう。当時の洋画界は、黒田清輝の白馬会が台頭し、国費でフランスへ留学する若者が多かった。彼らに対抗する旺盛な反骨精神が、吉田の渡米の背景にあった。この旅行においては、デトロイトでの美術展を皮切りに、吉田は大いに成功して多額の売上金を得た。手ごたえを感じた吉田は、1901年に帰国するまで歴訪し続け、アメリカだけでなくヨーロッパ各地でも成功を収めた。帰国したころには、国内の評価も高く、当時、白馬会の勃興で勢いを失いつつあった明治美術会を引き継ぐ形で、吉田は太平洋画会を創立した。若干、26歳のときである。

吉田が木版画へ傾倒し始めるのは、1920年の頃である。すでに吉田は44歳であった。当時、版画は日本国内では人気を完全に衰退させ、版画と言えば日本画家がやるものであって、洋画家がやるものではない、という考え方が主流であった。吉田の版画制作は、これら版画の復興を目指した版元である渡辺庄三郎との出会いが始まりであった。伝統的な版画は、版元を中心に絵師、彫師、摺師が分業する。吉田は当初、渡辺という版元を中心に分業して、版画を出版するだけであった。この流れは後に新版画と位置づけられる。しかし、吉田はさらに独自の版画を生み出していくことになる。

そのきっかけは、1923年(大正12年)の関東大震災であった。震災により、版木の多くが焼失し、被災した仲間を救う目的で、吉田は作品販売のために三度目の渡米を行った。このとき、意外にも好評を得たのが木版画であった。吉田は、そこで日本人による油彩画、水彩画が相手にされず、粗悪な浮世絵版画が高額で取引されていることに慷慨し、自らの商機を木版画に見出した。以降、吉田の画業は木版画への傾倒を強め、版元を持たずに自らが彫師と摺師を抱える私家版の制作に乗り出した。吉田は「職人を使うには自らがそれ以上に技術を知っていなければならぬ」という信念のもと、自らが制作し、自らが出版する体制に拘った。

吉田の目は、常に海外に向いており、人生を通してアメリカ、ヨーロッパを放浪し続けた。後年にはインドに赴くなど、吉田の海外への好奇心は並々ならぬものであった。しかし、第二次世界大戦が始まると、陸軍省嘱託の従軍画家として中国に派遣され、中国各地の風景版画を残した。一方で、軍部の国威発揚に影響されてか、日本風景に回帰する一面も見られた。吉田の作品は、日本国内よりもむしろ海外で輝き、その代表作は、時代が下って故ダイアナ妃の執務室を飾った。

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1945年、終戦を迎えた吉田は既に69歳であり、新作は既に久しかったが、海外でこそ有名な吉田の自邸は進駐軍のサロンとなった。自邸が進駐軍によって接収されそうになった折、吉田自身がマッカーサーに直談判したとされ、その行動力は老いて益々盛んであった。1950年(昭和25年)、吉田は老衰のため自邸にて永眠した。享年73歳。

吉田博の版画

日本の伝統的な木版画は、浮世絵の成立と、その発展に根ざしている。その制作手法は、版元を中心に、絵師・彫師・摺師が分業するのが基本であったが、浮世絵や版画が商業的に成功するにつれて、版画の創作的側面は弱まり、工業的側面が強まった。一方で版画の商業的成功は短く、吉田が活躍することには、すでに版画は時代遅れの不人気の芸術であった。この版画を復興せしめんとした二つの潮流がある。ひとつは、いっそのこと版画の分業を廃止し、一人の人間が描き、彫り、摺ることによって美術性を押し出そうとした創作版画であり、もうひとつは、分業はそのままとし、伝統的な工程の中から新しい技法を生み出そうとした新版画である。

吉田と版画の出会いは新版画において起きた。吉田が版元とした渡辺庄三郎は、版画店を営む版元であり、自らが版画家でもあった。渡辺の版画復興の試みは、後に新版画と呼ばれ、吉田の版画制作に影響を与えた。最終的に、吉田が版画制作で行き着いたのは、自らが描きつつ、彫りと摺りを職人に任せて厳しく監督するという、新版画でも創作版画でもないものであった。吉田の作品の余白に書かれた「自摺」の文字は、自らの監督のもと摺られた作品であることを意味する。吉田は描くだけでなく、彫りと摺りの技術も研鑽し、「別摺」なる新しい表現も生み出した。これは同じ版木を使いながらも、着色と摺りに違いを持たせることにより、例えば同じ風景でありながら、昼と夜という別作品を作り分けるものであった。代表作である「帆船」は、同じ版木から、朝、午前、午後、霧、夕、夜という実に6つの作品が作られている。吉田は版画の質そのものにもこだわった。吉田の版画では、ひとつの版画を制作するために必要な版木は平均6枚、摺りの回数は平均30回に及ぶ。これは伝統的な版画の工数を大きく上回るものであった。絵の鬼と呼ばれた男の真骨頂と言えよう。

吉田の特徴の一つに、常に販路を意識している点にある。若くして渡米し、巨額を稼ぐ成功者であったからにして、すでにそれは明確ではある。吉田は、山岳画家と呼ばれるように、風景画を得意とし、人物描写を得意としなかった。にもかかわらず、当時洋装は既に珍しいものではない中で、人物描写において吉田は常に和装を描いた。これは、欧米の市場を意識したものだとされる。故に、吉田は生涯を通じて困窮とは無縁であり、豊富な資金力が吉田の漂泊を支えた。自らを画家としながらも、彫師と摺師を自ら抱えるという制作方式は、商業と芸術の両輪を回した吉田にしかできないことであった。

参考文献

  • 『没後70年吉田博展図録』2021年

yoshida-exhn.jp