弥生研究所

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【読書感想文】重耳

中国の春秋時代と言えば、周が東西に分裂してから、晋が三国に分裂するまでの時代を指す。と言っても、すぐにピンとくる時代ではない。何しろ西暦にして紀元前七世紀のことである。二千七百年前の人間の興亡など気が遠くなるというものである。春秋時代の前代を西周と呼び、次代を戦国時代と呼ぶ。この戦国時代の覇者が秦の始皇帝であり、歴史は前漢劉邦に繋がっていく。ここまで時代が下ってようやく、漫画『キングダム』を始めとした馴染みが出てくる。

物語の時代である春秋時代について、もうすこし紹介しておこう。春秋時代は、周という国が中華圏を統一していた。統一と言っても現在の中国大陸全域を統治していたのではなく、黄河流域を中心に点在する都市国家によって、封建制のもと統治が行われていた。周の歴史は、西周の時代も含めると片足が伝説の中に埋もれていて、その始まりは定かではない。紀元前11世紀に武王・姫発が、暴虐を極めた殷の紂王を討ち、周を建国したのが始まりである。時代が下るにつれて、周の権威は衰えるばかりで、諸侯が領土と権勢を争って戦争を絶え間なく起こした。実力を失っても名望を持っていた周が、諸侯に対して一定の影響力を持っていたのが春秋時代であり、周の権威が完全に失墜し、諸侯が王を自称したのが戦国時代である。

この物語の主人公である重耳(ちょうじ)は、この春秋時代の大国、晋の公子である。重耳には多くの兄弟がいたが、特に兄の申生(しんせい)と、弟の夷吾(いご)の二人は、重耳と合わせて引き合いに上がる。物語は典型的な貴種流離譚である。父である詭諸(きしょ)の老齢に伴って、晋の公室に驪姫(りき)の乱と呼ばれる後継者問題が起きた結果、申生は廃嫡されたのち自殺を命じられ、重耳と夷吾は亡命を余儀なくされる。重耳は亡命したとき四十三歳であったが、こののち十九年間の放浪生活を経たのち、祖国に君主として帰還し天下の覇権を手にした。これだけでも、重耳の偉業が良く分かる。重耳は後に春秋五覇の代表格とされる。

驪姫の乱という最大の苦難に当たって、三人の兄弟がとった対応が三者三様であったため、その因果応報を教訓とし、君主への諫言としても引き合いに出される。歴史小説をよく読む人は、重耳の名や、その触りを知っていることが多いかもしれない。

申生の気性は、清廉潔白であり、人として汚い部分を持たず、孝行者であり、ただひたすらに人格者であった。それゆえに朝廷内で、最も衆望を集める存在であった。しかし、人格者であるがゆえに、父からの寵愛が消え、陰謀の魔の手が迫っても、反乱を起こすこともなく、亡命することもなく、自殺することになる。彼が、陰謀の魔の手を予知していなかったわけではない。彼の臣下は、こぞって反乱や亡命を勧めた。しかし、申生は何もしなかった。自分の正当性を、ただ神の判断にゆだね、誹謗中傷に対して自己弁護することもなく、無抵抗を貫いたのである。

夷吾の気性は、才気煥発であった。若くして機知に豊富であり、その分かりやすい優秀さから、申生の次に衆望を集めた。長兄の申生が自殺し、次兄の重耳が亡命すると、みずからも梁へと亡命した。ただし、亡命先が重耳とは異なる辺りに、彼の意向が読み取れる。後に、晋国内の混乱を収めて重臣の里克(りこく)によって迎えられると、それを断った重耳とは対照的に、晋へ帰国し晋公に上った。ただ、その政治は酷薄であり、里克ら重臣の弾圧や、亡命中の重耳の暗殺を謀るなど、才気の下に隠れた小心さが見え隠れする。対外的にも失敗が続き、秦との戦いに敗れると、太子の圉(ぎょ)を人質に出さざるを得ず、秦に対して事実上の従属を強いられた。

重耳の気性は、とらえどころがないというのが率直な表現かもしれない。見方によっては愚鈍にも見えるその性格ゆえに、若いころは特に、三人の公子の中では、もっとも評判が立たなかった。しかし、その器の見えぬ器量ゆえか、重耳のもとには人材が集まり、名声は徐々に上がった。長兄の申生が自殺すると、縁類である北狄の国に亡命する。弟の夷吾が晋に返っても、一貫して帰国せずに放浪した。弟の夷吾が亡くなると、その失政の反動もあって、晋国内の賛同と、秦の後援を得て、ついに、晋公として祖国に帰還する。このとき、重耳は既に六十二歳であった。

申生、重耳、夷吾は、いずれも将来を嘱望された優秀な公子であり、三人は直接争うこともなかったが、結局、晋公として最後に覇権を握ったのは重耳であった。三人からどのような教訓を得るかは、人によって異なるだろう。申生のように人格の善性だけでは、世の中の逆境を乗り切れない。時には毒をもって毒を制すことも必要である。一方で、夷吾のように才能だけで、その内面に善性を欠くようでは、人心は得られず失敗する。文質彬彬という言葉のように、人格の善性と、才能の発露が程よく調和して、初めて重耳のように至るのかもしれない。その重耳が若いころはいたって評価が上がらなかったのだから面白い。

三人の公子は、その結末を置いておけば、いずれも優秀な人物であることに変わりはない。公子たちが優秀であったのは、天性ではなく、その周りの臣下たちが優秀だからであった。そして、優秀な臣下が晋という国に集まったのは、重耳たちの祖父である称(しょう)が類まれな名君だったからである。

称の言葉はよく心に響く。

申生の天性など、はっきりいえば、どうでもよいのだ。明君になれるかなれないかは、師と傅しだいよ。わしの人のよさはな、こういうことを、いまここで汝に頼むところにある。(中略)こういうことは、死ぬまぎわに頼むものよ。さすれば、汝は断れなくなる。が、わしはみたとおり元気そのものだ。断りやすかろう。考えておいてくれ。 上巻、p78

これは、狐氏の賢人と尊称された狐突(ことつ)に対して、生まれたばかりの孫である申生の師になってほしいと頼んだ時の、称の言葉である。物語としては、狐突にはこの申し出を断りたい理由があるのであるが、重要なのはその理由ではない。私が注目したのは、わざわざ断りやすい状況を作って、自分の要求を伝えた、称の人格であった。称と狐突の関係は主君と臣下の関係である。いうなれば、称は狐突に頭ごなしに要求を命じることもできるし、用意周到に断りにくい状況を作って要求を伝えることもできる。ところが、称は狐突に対して交渉の小技を弄すのではなく、ありのままの希望を本心として伝えた。称と狐突は、単なる主従関係、利害関係ではなく、互いにその人格に対して敬意を持っていた。

私は、この称の言葉に深く感じ入るとともに、私自らも、人への要求を伝えるときは断りにくい状態を作らないようにしたいと思うのであった。何故ならば、私自身も時に、人から断りづらい状況下で要求を伝えられることがあるからだ。私は、そういう時、残念ながら、そのような人とは長期的な関係を維持するのは難しいかもしれないと毎回思う。しかし、称と狐突の関係を見てみれば、なにを隠そう、私には単純に敬意が足りず、また尊敬もされていなかったのだということが分かるのである。ただただ反省するばかりである。

称と、重耳は名君であることに異論のある人はいないであろうが、称の子であり、重耳の父である詭諸は暗君と評価されがちなのが歴史の皮肉である。詭諸は武勇に優れて、周辺諸国を次々と滅ぼしたが、晩年は愛妾の驪姫の讒言に踊らされ、その治績を汚してしまった。なにしろ、詭諸は父親の妾にすら手をだす、単純な欲求の持ち主であった。その単純さは、こと軍事には向いていたが、政治、外交には不向きであった。称は詭諸の晩節を知る前に世を去るが、生前、いつしか称が、子である詭諸の器量の限界を受け入れたとき、汝は地味な花になれと言い、器量いっぱいに生きよ、と念じるのであった。

気付いてみれば、『重耳』の物語は親子三代の物語なのである。この三代の中で、不思議なことに私が最も共感したのは、詭諸であった。それは、三代の中で詭諸がもっとも不肖だからなのか。称に父性を多分に感じたのであろうか、器量いっぱいに生きよ――それは、私に言われたような気がした。

重耳(上) (講談社文庫)

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重耳(中) (講談社文庫)

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重耳(下) (講談社文庫)

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