弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

依存されずに貢献するにはどうしたらよいか

なぜ貢献すると、依存されるのか

仕事の本質は、相手に出来ないことを代わりに請け負うことである。できない理由は、それをやるだけの技能や、資本、時間を持っていない、などが挙がられる。それをおカネの力で解決しようというところに、仕事が発生する。

したがって、仕事を請ける側は、相手ができないことをやることによって、相手に貢献し対価として報酬をえる。仕事を請けた以上、貢献する強い動機が、仕事が受けた側にはある。ところが、この強い動機ゆえに、相手ができないことを先読みしすぎて、相手がやるべきことまで請け負ってしまうと、相手の自立性を奪い、相手から依存されることになる。こういったことは、契約などの形式的な範疇を越えて暗黙的に行われるから、関係は一層難しくなる場合が多い。

相手から信頼されるのと、相手から依存されるのは似ているようで違う。貢献すればするほど、相手からの信頼が高まると同時に、依存のリスクも高まっている。自分の貢献が相手の自立性を突き破っているかどうかは、自分では明確には分からない。依存のリスクの高まり方は相手の自立性しだいで、それ自体は私たち自身が制御することはできない。言い方を変えると、依存されやすい人は、信頼を得やすい優秀な下地を持っている人ともいえる。

貢献していると依存されるのは、本質的なもののように思える。

いつか必ず届く依存のメッセージ

貢献していると、いずれ依存されてしまうのであれば、依存されずに貢献するにはどうしたらよいか、という問いは早くも的を射ていないことが分かる。問題なのは、相手から依存されないことではなく、相手からの依存をどうコントロールするかということになる。

それは、相手からの依存的な要求に対して、自分のルールに従ってノーということである。

上述の通り、相手から依存的な要求が発せられるのは、自分の貢献が相手の自立性を侵しているからである。そもそも、相手から依存的な要求が発せられないことが理想だが、自分の貢献が相手の自立性をどこで侵すかは分からないのでその実現は難しい。相手の心の中を探ることはできないので、コミュニケーションをもってその境界線を見定めるしかないが、そのコミュニケーション自体が相手の自立性を侵すかもしれない。

だから、私たちは依存的な要求に対して、ノーと言うしかない。でも、私たちはノーと言うのが怖い。

ノーと言うルール

相手から依存されたときにノーと言うルールをどうやって決めるか。このルールはおそらく一般化できないのではないかと考えている。ルールは自分と相手の人間関係だけに特化して成り立ち、ありとあらゆる人間関係に当てはめることのできるルールは無いのではないかと思う。私自身も振り返ってみると、ノーと言わなくてもよかったと後悔する場面があれば、ノーと言わなくてはならなかったと後悔する場面もある。これは人間関係ごとに存在している理想点へと、試行錯誤しながら収束させていくしかない。

ノーと言うルール、つまり収束させる理想点を一般化できなくても、収束させる方法を一般化することはできるかもしれない。この方法が正確なものであれば、私たちは限りなく少ない試行錯誤で、ノーと言うルールの理想点に到達することができる。

ノーと言うリスク

これは単純に仕事を失うリスクである。プロセスに目を向けて言うと、相手の信頼を失うリスクである。私たちがノーと言うのが怖いのは、積み上げた信頼を崩したくないからである。

実は、ノーと言って信頼を失うケースは少ないのではないか? 確かに、自分の都合だけを押し通すために、自己中心的にノーと言い続ければ、確実に相手からの信頼を失い、仕事を失う。相手に貢献していないのにも関わらずノーと言えば当然の結果である。しかし、十分な貢献していれば、その中で一度だけノーと言ったところで、信頼を失い仕事を失うことは無い。十分な貢献をしているのにもかかわらず、ノーと言った結果信頼を失うのであれば、相互に貢献に対する認識の齟齬がある。相手が単純に恩知らずなだけの場合もあるかもしれない。

依存性の高い相手にノーと言わずに長期的な関係を構築するのは無理だと考えたほうが良い。ノーと言うのが遅れると、ノーと言う言葉の意味が相手に通用しなくなる。今までやってきたことをやらないというのは、依存性の高い相手には受け入れにくい。つまり、最初が大事である。納得しにくい依頼を受けたとき、一回だけだったらという楽観的な考えや、あるいは一回やってみて考えようという向上的な考えは、相手の依存性を悪化させる。

ノーと言う vs 仕事を失う、という天秤

売上に余裕があれば、ノーと言うリスクは怖くない。幸せはお金で買えるという考え方は、これを根拠とする。かなりパワープレーだけど、これほど強力な方法はない。金銭的に余裕がないというのは、単純に手札が少ないことを意味する。手札が少ないと、悪手でしかないカードを切らざるを得ない場面が出てくる。交渉には、BATNA(代替の手段) や、RV(撤退の基準) という基本概念があるが、これらは、手札を増やすこと、あるいは手札が豊富でなくてはならないことを意味している。一方で、どんなに手札が多くても、プレーヤーである私たちのプレイスキルが伴わなくては、全く意味がない。幸せはお金では買えないという考え方は、これを根拠とする。貴重な手札をどぶに捨てるような、判断能力しかなければ、せっかく手札を豊富に持っていたとしても元も子もない。

まとめ

  • そもそも、依存性の低い人をお客さんとする。
  • 一方で、相手を依存的にさせている自分の責任もある。相手の依存性を高めないように、相手の自立性を侵さないように貢献する必要がある。
  • しかし、貢献しているうちに、相手の依存性を高めてしまう傾向は避けきれない。相手の依存的な要求に対しては、ノーと言う。

相手の目線で考えると私自身も含めて、自分が依存していることに気付いている人は少ない。私も仕事を失いたくはないから、その気持ちがお客さんへの依存に繋がる。この仕事を失ってもやっていけるという状態でないといけない。一方で、お客さんも、私がいなくなって業務が成り立たなくなるようでは、お客さんが私に依存していることになる。いなくなられたら困るけど、なんとかなるくらいでないといけない。いろいろ、考えてここまで書いてきたが、結局のところ、自分を自立させ、自分がなにものにも依存しない、というところに行き着くのかもしれない。