私はこの映画から何を学んだらいいのだろうかと考えてしまった。
事実を整理したほうが良いかもしれない。アーサー・フレックは次のような人物だ。
- ピエロの派遣業で働いている
- コメディアンになる夢を持っている
- 独身
- 病気の母を介護している
- 精神的な病気を抱えている(突発的に笑いだす障害)
- 公共機関でカウンセリングと、医療の補助を受けている
現状からして既に良いとは言い難い。それでも、この状態が安定しているのであれば、まだ心が満たされることもあったろうと思う。しかし、物語はことごとく悪い方向に進む。仕事は解雇され、母は実の母でないことが判明し、公共の医療サービスは停止する。アーサーにとって何一つ良いことは起きない。アーサーが犯した犯罪には個人的な責任しかないのか、社会的な責任はないのか。自己責任だけではなく社会問題へ誘導する意図が感じられる。
アーサーが自滅的な考えに早くからたどり着いていたのもの確かだ。彼のノートにはこう書かれている。
この人生よりも意味のある死を望む
この言葉は、物語上たびたび出てくる。コメディアンになる努力をし、公共の医療サービスを受けて自分の病気と向かい合ってはいるものの、根本的には自分の人生をより良くす努力は無駄だと諦めている。そして、ただ死ぬのではなく、死に意味を見出そうとしている。
一方で、冷静な解釈もある。この映画は、バットマンシリーズのヴィラン(悪者)であるジョーカーの前日譚であり、そもそもジョーカーありきで作られたものだから、社会的問題のような難しいことを考えるのは無意味だという理論だ。確かに、アーサーは精神的に壊れたからジョーカーになった、という筋を土台にしたこの映画は、アーサーをジョーカーに仕立て上げるために、思いつく限りの不幸を122分の中に詰め込んでいるに過ぎない。自己責任の範疇で好き勝手に犯罪を犯すのであれば小悪党にしかならない。ジョーカーという不世出のヴィランは、社会が生み出した理解不能なモンスターでなければならないのだ。
隣人のソフィーとの関係が、アーサーの妄想であったことが明るみになるシーンがある。このシーンの上手いところは、観客の誰もがアーサーとソフィーの関係を不自然だと思いつつも、観客に対してソフィーがアーサーだけでなく観客にとっても一縷の望みのように誘導したところにある。アーサーを理解するのはソフィーだけだったのである。それがアーサーの妄想であったことで、「ああ、やっぱりアーサーの妄想だったのか」と観客も失望するのである。アーサーは誰からも理解されないゆえに、他人からの理解を自分の妄想で自己完結しようとすらした。
アーサーは繊細でもある。アーサーの映像がTVで流れたとき、アーサーは喜ぶが、それが自分を馬鹿にした内容なのだと理解すると、笑顔は消え憤りを見せる。しかし、芸能人やスポーツ選手を見ればわかる通り、大勢の前に露出する人間は有象無象の批判を受けることになる。それでも成功する人は、押しなべて精神的にタフだ。
アーサーは誰からも理解されていなかった。アーサーをジョーカーたらしめたのは、世間の無理解という外的な要因と、精神的な弱さという内的な要因にある。映画のラストはジョーカーが病院でカウンセリングを受けているシーンで終わる。カウンセラーに対するジョーカーの次のセリフが心に残る。
あなたには理解できない
このセリフはカウンセラーに対する言葉であるとともに、観客に対する言葉でもある。
私は、人間の精神はもっと強いものだと思っている。アーサーと同じ状況に置かれたとて、アーサーと同じように犯罪を犯す人はまずいないだろう。一方で、状況だけでなく、アーサーと同じ人格、知識、経験、能力だったとしたらどうだろうか。犯罪という行動をとらざるを得ない可能性はあるのではないか。少なくともアーサーは犯罪を犯したくて犯罪を犯しているタイプの犯罪者ではない。証券マン、母親、元同僚、マレーのいずれを殺したときも衝動的である。マレーを殺害する直前までアーサーは自殺しようと計画していたくらいだ。殺人そのものの欲求を持っているのではなく、自身の不安から回避するための衝動的な殺人なのだ。不安から回避するための犯罪といえば方法としてあまりにも短絡的であるが、そう思う私たちでも、アーサーが見ていた世界で生きてみれば、どうなるかは分からない。
唐突ではあるが、いろいろと考えているうちに、私は去年見た『あん』という映画のことを思い出していた。そして、この『あん』という映画が、『ジョーカー』という映画から学ぶべきことは何かという問いに対する答えだと思った。
『ジョーカー』を見た人へ薦めたい映画『あん』
『ジョーカー』はエンターテインメントのための完全なフィクションなのに対して、『あん』はもっと現実的だ。フィクションであることに変わりはないが、現実を下地にした背景から成り立っている。『ジョーカー』と『あん』は全く違う映画であり、客層も全く違うように思う。しかし、全く違う映画でも、共通する価値観を見出すことができる。全く違う映画だからこそ繋げる意味があると思った。
今はなき樹木希林が演じる徳江は、かつてハンセン病の患者だった。ハンセン病は皮膚に重度の病変を生じるため、その外見への恐怖心から歴史的に過剰な差別がされてきた。大事なことなので言うが、ハンセン病は現在では治療法が確立しているため根治することが可能で、後遺症が残ることも、感染源となることもない。WHOによって治療法が勧告されたのが1981年、日本の「らい予防法」が廃止されたのが1996年である。
映画『あん』は、ハンセン病の元患者である徳江(樹木希林)と、どらやき屋の店長である千太郎(永瀬正敏)との交流を描いた物語だ。徳江は千太郎に送る手紙に、次のように言葉を綴る。
こちらに非はないつもりで生きていても、世間の無理解に押しつぶされてしまうことはあります。智恵を働かせなければいけない時もあるのです。そうしたことも伝えるべきでした。
ハンセン病に対する世間の無理解は、私がどんなに調べたとしても、それは氷山の一角に過ぎない。徳江の人生は想像を絶する。徳江の人生観と精神には敬服するばかりである。
映画『ジョーカー』を見た人へ、映画『あん』をぜひどうぞ。私は、誰よりもアーサー・フレックに『あん』を見てもらいたい。
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なお、『あん』は原作となる小説がある。
- 作者: ドリアン助川
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映画は小説にほぼ忠実なのも素晴らしい。私は映画から入ったくちだが、お好きな方からどうぞ。