弥生研究所

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没後70年 吉田博展

吉田博展に行ってきました。

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吉田博という人を、私は今回初めて知ったのですが、その仕事に対する姿勢や、生き方について、強く刺激を受ける美術展でした。吉田博について学んだことを、少し紹介したいと思います。展覧会の会期は2021年1月26日(火)~3月28日(日)です。興味のある方は是非どうぞ。

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概説

1876年(明治9年)、旧久留米藩藩士・上田束秀之の次男として久留米市に生まれる。中学修猷館に入学すると、15歳のとき、図画教師であった吉田嘉三郎に画才を見込まれ、吉田家の養子となった。吉田は幼くして、野山を歩き回り、その風景を描くことを好んだ。放浪と風景写生という様式は、吉田の生涯を一貫するものである。そのような学生時代の吉田は、学友たちに「絵の鬼」と呼ばれた。

1899年(明治32年)、23歳のとき、横浜を出発してアメリカへ向かう。当時の洋画界は、黒田清輝の白馬会が台頭し、国費でフランスへ留学する若者が多かった。彼らに対抗する旺盛な反骨精神が、吉田の渡米の背景にあった。この旅行においては、デトロイトでの美術展を皮切りに、吉田は大いに成功して多額の売上金を得た。手ごたえを感じた吉田は、1901年に帰国するまで歴訪し続け、アメリカだけでなくヨーロッパ各地でも成功を収めた。帰国したころには、国内の評価も高く、当時、白馬会の勃興で勢いを失いつつあった明治美術会を引き継ぐ形で、吉田は太平洋画会を創立した。若干、26歳のときである。

吉田が木版画へ傾倒し始めるのは、1920年の頃である。すでに吉田は44歳であった。当時、版画は日本国内では人気を完全に衰退させ、版画と言えば日本画家がやるものであって、洋画家がやるものではない、という考え方が主流であった。吉田の版画制作は、これら版画の復興を目指した版元である渡辺庄三郎との出会いが始まりであった。伝統的な版画は、版元を中心に絵師、彫師、摺師が分業する。吉田は当初、渡辺という版元を中心に分業して、版画を出版するだけであった。この流れは後に新版画と位置づけられる。しかし、吉田はさらに独自の版画を生み出していくことになる。

そのきっかけは、1923年(大正12年)の関東大震災であった。震災により、版木の多くが焼失し、被災した仲間を救う目的で、吉田は作品販売のために三度目の渡米を行った。このとき、意外にも好評を得たのが木版画であった。吉田は、そこで日本人による油彩画、水彩画が相手にされず、粗悪な浮世絵版画が高額で取引されていることに慷慨し、自らの商機を木版画に見出した。以降、吉田の画業は木版画への傾倒を強め、版元を持たずに自らが彫師と摺師を抱える私家版の制作に乗り出した。吉田は「職人を使うには自らがそれ以上に技術を知っていなければならぬ」という信念のもと、自らが制作し、自らが出版する体制に拘った。

吉田の目は、常に海外に向いており、人生を通してアメリカ、ヨーロッパを放浪し続けた。後年にはインドに赴くなど、吉田の海外への好奇心は並々ならぬものであった。しかし、第二次世界大戦が始まると、陸軍省嘱託の従軍画家として中国に派遣され、中国各地の風景版画を残した。一方で、軍部の国威発揚に影響されてか、日本風景に回帰する一面も見られた。吉田の作品は、日本国内よりもむしろ海外で輝き、その代表作は、時代が下って故ダイアナ妃の執務室を飾った。

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1945年、終戦を迎えた吉田は既に69歳であり、新作は既に久しかったが、海外でこそ有名な吉田の自邸は進駐軍のサロンとなった。自邸が進駐軍によって接収されそうになった折、吉田自身がマッカーサーに直談判したとされ、その行動力は老いて益々盛んであった。1950年(昭和25年)、吉田は老衰のため自邸にて永眠した。享年73歳。

吉田博の版画

日本の伝統的な木版画は、浮世絵の成立と、その発展に根ざしている。その制作手法は、版元を中心に、絵師・彫師・摺師が分業するのが基本であったが、浮世絵や版画が商業的に成功するにつれて、版画の創作的側面は弱まり、工業的側面が強まった。一方で版画の商業的成功は短く、吉田が活躍することには、すでに版画は時代遅れの不人気の芸術であった。この版画を復興せしめんとした二つの潮流がある。ひとつは、いっそのこと版画の分業を廃止し、一人の人間が描き、彫り、摺ることによって美術性を押し出そうとした創作版画であり、もうひとつは、分業はそのままとし、伝統的な工程の中から新しい技法を生み出そうとした新版画である。

吉田と版画の出会いは新版画において起きた。吉田が版元とした渡辺庄三郎は、版画店を営む版元であり、自らが版画家でもあった。渡辺の版画復興の試みは、後に新版画と呼ばれ、吉田の版画制作に影響を与えた。最終的に、吉田が版画制作で行き着いたのは、自らが描きつつ、彫りと摺りを職人に任せて厳しく監督するという、新版画でも創作版画でもないものであった。吉田の作品の余白に書かれた「自摺」の文字は、自らの監督のもと摺られた作品であることを意味する。吉田は描くだけでなく、彫りと摺りの技術も研鑽し、「別摺」なる新しい表現も生み出した。これは同じ版木を使いながらも、着色と摺りに違いを持たせることにより、例えば同じ風景でありながら、昼と夜という別作品を作り分けるものであった。代表作である「帆船」は、同じ版木から、朝、午前、午後、霧、夕、夜という実に6つの作品が作られている。吉田は版画の質そのものにもこだわった。吉田の版画では、ひとつの版画を制作するために必要な版木は平均6枚、摺りの回数は平均30回に及ぶ。これは伝統的な版画の工数を大きく上回るものであった。絵の鬼と呼ばれた男の真骨頂と言えよう。

吉田の特徴の一つに、常に販路を意識している点にある。若くして渡米し、巨額を稼ぐ成功者であったからにして、すでにそれは明確ではある。吉田は、山岳画家と呼ばれるように、風景画を得意とし、人物描写を得意としなかった。にもかかわらず、当時洋装は既に珍しいものではない中で、人物描写において吉田は常に和装を描いた。これは、欧米の市場を意識したものだとされる。故に、吉田は生涯を通じて困窮とは無縁であり、豊富な資金力が吉田の漂泊を支えた。自らを画家としながらも、彫師と摺師を自ら抱えるという制作方式は、商業と芸術の両輪を回した吉田にしかできないことであった。

参考文献

  • 『没後70年吉田博展図録』2021年

yoshida-exhn.jp