弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

働く場所の理想とは

私が新社会人として初めて現場に出たとき、その現場の扉を開けてオフィスフロアを見渡した瞬間の第一印象は「すごい広いけど、すごい黒々としている」でした。すごい広いという感覚には特に説明はいらないと思います。デスクの島の数を数えるのに人間の指の数では足りないということです。そして、すごい黒々としているというのは人の頭でした。広い空間の中に人がひしめいていて、当時の私にとって、それは異常な光景でした。合理化を目指した結果、人間性を失った空間がそこにあり、それでいてそこで働いている人は非人間的な環境に慣れて合理化を自分の価値観に受容させている様に、私は少なからぬ衝撃を受けました、というと言い回しが大げさでしょうか。そんな私も数日後には何の違和感もなく黒々とした者の一人になっているわけですが、あの時の感覚は明らかに"不快"でした。未だに忘れえない感覚だったと思えば、私が自分自身を知るための重要な標のひとつであるとも言えます。

人生の多くの時間を費やす仕事を、どんな場所で行うかを考えることは有意義なことです。

ところで、人間の平均的な人生のなかで仕事は時間的にどれくらいの割合なのか調べてみたことがあります。一般的な数字は他に譲るとして、私の場合はどうかというと、ざっと以下の通りとなります。

  • 人生:70万時間(80年)
  • 仕事:11万時間(15%)
  • 睡眠:22万時間(31%)
  • その他:37万時間(53%)

ご自身の人生設計と生活スタイルで計算してみてください。しかし、いずれにしてもそう大差のない数字が出るのではないでしょうか。正直に言えばたったの15%という仕事の割合には驚いたものです。一日8時間働くことをおもえば、人生の3分の1を仕事に費やしているという感覚は正常です。しかし、こと人間においては、そもそも働かない期間がいかに長いかを思い知らされます。大卒で働き始めるとしても22年間は働きませんし、死ぬ間際まで働いている人間も少数に入るでしょう。マルコム・グラドウェル氏が言った一万時間の法則もうなずけます。仕事ですら11万時間しかつぎこめないのに、何か一つのことに一万時間も費やすことができたならば、それはエキスパートにもなるというものです。逆に、仕事に11万時間も費やしているととらえるならば、その使い方が問われるわけです。

人生の15%をどんな場所で過ごすかを考えることは、これからどんどん重要になっていくのだと思います。物質的に満ち足りてしまったこの世の中では、働く理由を当たり前のように見つけることが徐々に難しくなっています。生きるため、生活するためと人は言います。しかし、生きるため、生活するためならば、そんな働き方はしなくていいだろうという光景は、私だけが思い浮かべられるものではないはずです。過労死も然り。死ぬほど働いて文字通り死んでしまったのであれば、働く理由は生きるため、生活するためではないことは明らかです。そもそも、生きるために働いているとして、私たちは何のために生きているのでしょうか。働く理由を見つけられない人はニートになり、生きる理由を見つけられない人は自殺するのかもしれません。私が感じた「とても広くて、とても黒々している」空間は、なにか前時代のものの生き残りのような気もします。