弥生研究所

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【読書感想文】何もかも憂鬱な夜に

あらすじ

刑務官である主人公は、殺人を犯した山井を担当することになった。山井には死刑判決が下されており、一週間後の控訴期限を迎えれば死刑が確定する。しかし、山井は控訴をしようとしていなかった。児童養護施設で育った境遇を持つ主人公は、自分が持つ孤独な過去と、山井の生い立ちを、どこかで照らし合わせていた。控訴しろと山井を説得する刑務官たちの中で、主人公は別の見方で山井を見ていた。

死刑という主題

この本は、死刑が一つの大きな主題となっている小説だ。私は、死刑制度について正直なところ、無頓着だった。日本が死刑制度を採っていること。先進諸国では死刑廃止が主流になりつつあること、日本の死刑制度の継続と廃止をめぐって議論があること。それらは、知識として知っていたが、自分の生活とはかけ離れた事象だった。多くの人はそうではないだろうかと思う。しかし、この本を読んでみて、私は死刑制度に対しては反対に片寄った。声を大にして、積極的に反対するものではないので、消極的反対派とでも言おうか。この本は、物語を通じて死刑制度に対する何らかの意思表明が行われるわけではない。登場人物でさえも、単純な意思表明は行わない。

では、なぜ私は死刑制度に対してやんわりと反対を考えたのだろうか。

死刑制度の目的

その前に、そもそも、日本の死刑が何を目的として行われているかについて少し整理したい。法律は全くの門外漢である私が、インターネットなどを介して調べたぽっと出の情報であるので、正確性などにはご注意いただきたい。

まず、死刑には「目的刑論」と「応報刑論」という、死刑が行われるべき目的となる二つの側面がある。

  • 目的刑論:死刑によって犯罪者の生命を奪うことで、犯罪を予定する者に対する威嚇効果を発揮し、犯行を予防するというもの。また、矯正不能な犯罪者を社会から排除し、再犯行を予防するもの。ただし、前者の予防効果は統計上の効果が実証されていない。後者の予防効果は、矯正を前提としない死刑制度には厳密には当てはまらない。
  • 応報刑論:犯行に対する応報として刑罰を与えるというもの。延長には報復やかたき討ちの概念がある。ただし、日本の死刑制度においては、応報論ではなく予防論をもって合憲とされている。したがって、日本の死刑制度は、応報刑論の目的を持たないため、すべての殺人者が死刑になるわけではない。一方で、遺族感情や犯行動機などは考慮され、応報刑論的な価値観は実質のところ排除されない。

この二つの側面は、死刑だけではなく、死刑以外を含む刑罰全体に当てはまる。簡単に言えば、刑罰とは犯罪の予防、抑止をする目的と、犯罪に対する応報を与える目的がある。しかし、上述の通り、日本の死刑制度は目的刑論をもって合憲としているため、日本の死刑制度に、報復やかたき討ちといった目的は建前上はない。

人を殺すという負担

物語でまず最初に感じたのは、刑務官が死刑を執行する場面の生々しさだ。日本の死刑は絞首によって行われる。死刑囚の首に縄がかけられ、複数の刑務官が、複数のボタンを同時に押すと、床板が開き囚人が落下する。複数人で、複数のボタンを同時に押す仕組みは、だれが死刑の操作を行ったかを分からないようにするためだ。物語では、死刑囚が頑強に抵抗する様すら描かれる。

当然のことながら、刑務官が行う死刑執行の操作は殺人罪に問われることがない。殺人罪の構成要件を満たしながら罪に問われないのは、刑法第35条によって「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とあるからだ。しかし、死刑執行は紛れもなく人を殺しているのだ。死刑に携わる人の負担は大きい。私は死刑囚の首に縄をかけたくないし、死刑執行のボタンも押したくない。私は死刑を執行したくない。それが私の正直な感想だ。

誰が人を殺せるのか

人は人を殺せない。人が人を殺してはいけない理由は、刑法に定義されているからだが、そもそも刑法に定義されているのは、命が人間にとって最も前提にあるもだからだ。だから、命を奪われることを誰もが恐れて、命を奪うことに誰もが躊躇する。人が人を殺してはいけないと定義する法律が、死刑によって人が人を殺すように定義する。これは矛盾していないだろうか。

命、犯罪、公平さ

主人公は山井に対してこう言う。お前とお前の命は別のものだと。殺したお前にすべての責任はあるけれども、お前の命には責任は無いのだと。山井は二人を殺した明らかな犯罪者だ。山井はそのことを自覚しているが、主人公と山井は、死刑を免れないとしても、残りの短い命に希望を見出している。一方で、性犯罪者として出所後も再び罪を犯す佐久間の告白には、身の毛もよだつほどだ。二人を殺したとはいえ、初犯の山井と、出所後も強姦を繰り返す佐久間。社会にとってはどちらも脅威に違いないが、片方は死刑で、片方は死刑ではない。公平さはあるのだろうか。

人を殺すような犯罪者は絶対的な悪で、死刑によって裁かれるのは当然だという意見もあるかもしれない。犯罪を犯していない自分と、人を殺すような犯罪者を、0 と 1 の違い、白と黒の違いほど明確に隔てて認識しているかもしれない。しかし、実相はもっと複雑だというのが、より正確な解釈かもしれない。真下は主人公に対して、お前はこちら側の人間だと言う。そして、主人公にもその認識がどこかにある。自分と犯罪者は対極にある不連続な存在なのではなく、グラデーションの中にある連続な存在の一つなのだという認識。私もまた、その認識に近い。

最後に施設長の言葉を引用したい。

現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前をつなぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい。

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

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