弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【読書感想文】コンビニ人間

郊外の住宅地で育った私は、普通の家に生まれ、普通に愛されて育った。けれど、私は少し奇妙がられる子供だった。

村田沙耶香(2016)『コンビニ人間』p.7, 文藝春秋

冒頭からこのようにつづられる、この物語は、コンビニという舞台を通して、普通であることと、普通ではないことを描いたものである。

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

私も実は、自分が変わった人間だと、普通ではない人間だという自覚があった。

普通ではないことを恐れる

コンビニ人間を読んだ人は、きっと自分の中の違和感や、しこりのようなもの、普段はふたをして目につかないところにある心の機微、そんなものを、登場人物に照らし合わせて思い出すように思う。私の場合はこうだ。

私は大勢の中に入ると、途端に自己主張をしなくなる。一対一であれば、会話には何も支障はない。少なくとも私はそう思っている。それが、3~4人の集団になっても同じだ。しかし、それ以上の集団になると、途端に私は会話に入れなくなる。そういう状況で、最も身近なのは仕事の会議と、あとは飲み会だろうか。

私がサラリーマンだった10年ほどの間に、私が会議で、自発的に、積極的に発言したのは、おそらくゼロではないかと思う。少なくとも、記憶にはない。今は、フリーランスとして、個人事業主として働いているので、集団の会議に参加すること自体が少なくなった。お客と2、3人で話すのであれば、自分の意見も率直に言える。よくある自己啓発書には、会議で発言しない人間には価値がないというが、なんという暴論だろうかと私は思う。私にはその会議の規模が重要だったようだ。

飲み会に関しては会議よりも楽だった。幸いなのか、私はお酒が飲める口なので、つぶれない程度に、神経がマヒする程度に、ほどほど飲んでいれば、何となく過ごせてしまうのだ。物語の中のバーベキューのシーンはとても共感ができる。私だったら、お酒を飲んで、まず自分の意識を鈍感にさせることに徹するだろう。そうしようと思うのではなく、無意識にそうするのだ。自分が鈍感になることで、すくなくとも空気が辛くなくなる。でも、3、4人の飲み会なら、そんな自衛はそもそも働かない。

私は、コンビニ人間を読みながら、そんなことを思い出し、それが普通ではないかもしれないという自覚を、自身が持っていることに気付いた。歳とともに人からどう思われるかは、とげとげしいほど気になるものではなくなり、社会不適合者をある程度自認し、他人からそう評価されても笑ってそうだよねと同意できる。それでも怖いのだ。社会から外れることが、みんなと一緒ではないことが、普通ではないことが。それがばれることが。

普通って何?

私の中で、私が普通ではなくなる集団は、自分を含めて5人以上あたりだと思う。普通が世の中の大多数を意味するのであれば、一対一の世界なら、たとえ、私という50%が普通でなくても、大多数として普通になる。でも、33%、25%、20%と徐々に割合が減っていけば、普通ではないものは普通ではないと認識されていく。それは、いわば普通をめぐる主導権争いだ。自分の中にあるマイノリティの数によって、その割合は変わっていくだろう。おそらく私は、人よりも少し多めにマイノリティを持っている。芸能人などの著名人が時折バッシングを受けるのは、彼らの言動に原因があるかもしれないが、そもそも圧倒的な多数の中では、だれも普通ではいられないのだ。

普通の人は世の中の大多数であるから普通でいられるのであるから、その大多数を脅かすもの、つまり普通ではないものは、自分の普通さを脅かす脅威になる。それを意識しなくても、無意識に感じるから、普通の人は、普通ではない人を、自らの普通に引き寄せようとする。それは感情を伴って色々な形になる。批判という攻撃の形になることもあれば、治療という救済の形になることもある。どちらも、普通ではない人にとっては何の意味もないのに。

普通ではない人は、普通を目指すべきなのだろうか。自分が普通になる集団を目指すべきなのだろうか。

普通ではないことを背負って生きる

www.ktv.jp

僕らは奇跡でできている、というテレビドラマが以前放送されていた。高橋一生や、榮倉奈々が主演のドラマなのだが、この高橋一生が演ずる主人公が、また普通ではない人だった。普通という価値観と、普通ではないという価値観の葛藤は、コンビニ人間と同様に、このドラマでも表現されていた。

二つの作品には共通点がある。普通ではない主人公は、自分の普通ではない価値観を背負って突き進んでいくのだ。結局、普通ではない人は、普通にはなれないし、普通でない人が普通になるような集団も存在しない。だとしたら、普通という価値観に侵されながらも、自分の価値観を後生大事に抱えて、力強く生きていくしかない。笑われようと、蔑まされようと、批判されようと、攻撃されようと、普通ではないことを背負って生きていくのだ。

「僕らは奇跡でできている」は、ドラマとしても、もちろん面白かったのだが、SUPER BEAVER が歌う「予感」という主題歌が、ドラマのテーマとがっちり合っていた。その素晴らしい歌詞の一部を紹介したい。

どうあったって、自分は自分で
どうやったって、誰かにはなれない
ならば、嫌うより好きでいたい、想うまま想っていたい
会いに行こうよ、会いたい自分に

<中略>

予感のするほうへ、心が夢中になるほうへ
正解なんてあってないようなものさ、人生は自由
いま、予感のするほうへ、会いたい自分がいるほうへ
人の目なんてあってないようなものさ、感性は自由

柳沢亮太, 予感, SUPER BEAVER, [NOiD]/murffin discs, 2018

www.youtube.com

今の世の中の風潮なのかなぁ。