弥生研究所

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【読書感想文】博士の愛した数式

博士の愛した数式。読み始めたとき、そのタイトルに違和感はなかった。背表紙には「ぼくの記憶は80分しか持たない」と書かれているし、なるほど、記憶障害のある数学者の物語という推測は、当てはまっている。しかし、読み終わった後、そのタイトルを見直してみると、ちょっとした違和感がある。 「博士の愛した数式」という表現は、博士が愛した特定の数式を指し示しているように感じたのだ。実のところ、博士の愛した数式が具体的にどの数式なのかは明らかでない。博士は、特に数学の女王と呼ばれる数論を専門にしていたが、それを指しているようには思えない。博士は特定の数式というよりも、数式という概念全体を愛していたともいえる。タイトルはそういう意味なのだろうか。

あらすじ

家政婦の「私」は若いながらもキャリアは既に十年を超えたベテランだ。「私」はある顧客を紹介されたとき、その顧客情報を見て警戒した。ブルースターが9つも付いていたからだ。これはクレームによって家政婦が交代した回数を意味していた。依頼主はある未亡人で、義理の弟の世話をしてほしいという。詳細を聞くうちに、「私」はブルースターの原因を知った。世話をする相手である義理の弟は、事故により記憶障害を患い、その記憶はわずか80分しか持たないのだという。

博士は数学博士の博士号を持った正真正銘の博士であった。80分しか記憶が持たないという点を除けば、それでも毎日の生活を数学に費やす姿は、誰が見ても博士であった。博士は数学雑誌の懸賞問題を解くことに人生を費やしていた。博士はそれをただの遊びだと自嘲するが、その真剣さは普通の遊びのレベルではなかった。80分しか記憶が持たないから、「私」は一日に何度も自己紹介をする。博士はその度に、靴のサイズを聞き、誕生日を聞き、電話番号を聞き、その数字の羅列に特別な意味を見出そうとする。博士は家政婦の仕事に無頓着で、「私」になんら指示や要求を与えない。それでいて「私」が自主的にお伺いを立てれば、思考の邪魔をするなと怒鳴られる始末。ブルースターの数はクレームの数というよりも、潰れた家政婦の人数と言う表現が正確であった。

その点、「私」は忍耐強かった。ある時、「私」は博士が記憶を補うために体中に貼った付箋の中に「新しい家政婦さん」という文字と、稚拙な似顔絵があることに気付いた。それは、博士の「私」に対する小さな配慮であり、「私」は細やかな機微に喜びを感じる繊細さを持っていた。思考の外にある博士は、以外にも饒舌であった。博士の話題は数学に限られたが、それは博士のささやかな配慮によるものでもあった。「私」は徐々に、数学の魅力に、博士の話に引き込まれていく。

数学の魅力

私は残念ながら、学生時代から数学にあまり興味を示してこなかった。理系ではあったが、数学はただ単純に計算の道具であった。理系的なミーハー心から、フェルマーの最終定理を読んで、なるほど数学の感動ポイントはここにあるのかと、初めて思ったくらいだ。

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

博士によれば、数とは人間が発明したものではなく、ただ発見したに過ぎないという。人類が誕生するよりも前から、数という概念は存在していた。

28という数字がある。28の約数を合計すると28になるため、完全数と呼ばれる。約数の和が、それ自身より大きくなる場合は過剰数、小さくなる場合は不足数と呼ばれる。不思議なことに、1だけ小さい不足数はいくらでもあるが、1だけ大きい過剰数は未だに見つからない。何故なのかという疑問に対して、博士はこう答える。

理由は、神様の手帳だけに書いてある

科学のどの分野にも、こうした不思議さが根底にある。とりわけ数学には多いのかもしれない。

その不思議さにとりつかれた博士は、数学を次のように表現する。

必ず答えがあると保証された問題を解くのは、そこに見えている頂上に向かって、ガイド付きの登山道をハイキングするようなものだよ。数学の真理は、道なき道の果てに、誰にも知られずそっと潜んでいる。しかもその場所は頂上とは限らない。切り立った崖の岩間かも知れないし、谷底かもしれない。

一方、博士が出題した問題を解いた「私」は、感動を次のように表現する。

その時、生まれて初めて経験する、ある不思議な瞬間が訪れた。無残に踏み荒らされた砂漠に、一陣の風が吹き抜け、目の前に一本のまっさらな道が現れた。道の先には光がともり、私を導いていた。その中へ踏み込み、身体を浸してみないではいられない気持ちにさせる光だった。今自分は、閃きという名の祝福を受けているのだと分かった。

数学の真理は、前人未到でなければ感動を得られないわけではない。インターネットを使えばすぐに答えが分かる時代だ。車輪の再開発と表現されるかもしれない。でも、自力で真理に行き着けば、苦労した分だけ感動が伴う。それは、かつての偉人たちが見た風景を共有することでもある。原風景ではなく、既にわだちができた風景かもしれないが。

博士の記憶力

博士の記憶は80分しか持たない。最初、私はこれを、80分毎に記憶がリセットされると勘違いしていた。記憶が80分しか持たないというのは、一日に18回、記憶がリセットされることではない。直近の80分の記憶しか維持できないという解釈が正しそうだ。そうすると、記憶の上書きさえ起これば、記憶を保持しておくことは可能だ。眠っている間は、意識的に記憶の上書きは出来ないが、眠っている間でも脳は夢を見ている。朝起きたとき、確かに記憶は17年前に限りなくリセットされているに違いないが、すべてが失われているわけではない。

考えてみれば、健常者ですら記憶は時間とともに失われるのだ。80分前に覚えたはずの公式が、試験になって思い出せない。そんなことは日常茶飯事だ。前日の夕食ですら思い出せない場合もあるだろう。人間の記憶はそもそも脆弱なのだ。博士はより脆弱だったに過ぎない。

博士の愛

この物語には、登場人物は4人しか登場しない。私、博士、ルート、未亡人だ。厳密にいえば、ほかにも人物は登場するのだが、それらは物語に深く関係しない人たちだ。4人という登場人物は、小説において特別少ないわけでもないし、多いわけでもない。それでも私が、4人しかいないと少なく感じたのは、4人の関係性の濃密さと、その他大勢との関係性の淡白さが、対比として働いたからかもしれない。故にこの物語の人間関係は濃密だ。

博士の愛した数式」というタイトルに話を戻す。博士の愛した数式が具体的に何なのかは明確ではない。ただ、物語の必然性から、特定の数式を指しているのであれば、それはオイラーの等式だろうと思われた。しかし、オイラーの等式が持つ意味や、なぜオイラーの等式が未亡人に冷静さを取り戻させたのかについては、語られることがなかった。物語から読み取れることは、その数式は特別なものであるらしい、ということだけだった。

ある時、雇い主である未亡人と、「私」の間に対立が発生した。博士と「私」と息子のルートが親密になるにつれて、未亡人はそれらの交流が財産を目的としたものではないかと疑ったのである。その時、博士は数式をメモ用紙に書きつけ、たったそれだけで言い争いを収めてしまった。その数式こそが、オイラーの等式だった。

博士は、子供に対する愛情をひときわ強く持っていた。その愛情は、ルートだけでなくすべての子供に注がれるものだった。博士がオイラーの等式を書いたのは、純粋にルートをかばうためだった。つまり、オイラーの等式は、博士のルートへの純粋な愛を表現したものと言っていい。

では、なぜオイラーの等式だったのか。

オイラーの等式
オイラーの等式

e はネイピア数として解析学から生まれ、i は虚数単位として代数学から生まれ、π は円周率として幾何学から生まれた。

オイラーの等式の凄さは、関係性のなかった三角関数と指数関数が、虚数の世界を通じて繋がっていたことを、ごく単純な等式で表現したことにある。同じ数学ではあるものの、解析学代数学幾何学という個別の分野から生まれた数から、それらを繋ぎ留めるごく単純な等式が生まれることの凄さ。これは、全く無関係な男女が愛をはぐくんだ結果、子供という小さな存在が生まれることに似た凄さがある。

博士にとってオイラーの等式は、子供のような、奇跡の存在であったのではないか。オイラーの等式を畏敬するがゆえに、博士は子供への人並みならない愛情を、見出したのではないか。だからこそ、ルートをかばうための数式がオイラーの等式だったのだ。オイラーの等式は、博士が愛した数式であり、博士の愛を数式化したものであった。

君の利口な瞳を見開きなさい

博士は言う。永遠の真実は目では見えないと。それを表現できるのが数学なのだと。私も、心のよりどころとなるような確固たる真実が欲しいと思った。

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

愛の数式

ところで、オイラーの等式では、愛の表現として分かりづらいので、愛の方程式として分かりやすいハート曲線なる方程式がある。

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ハート曲線

グラフの概形は以下のようになる。

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ハート曲線のグラフ

数式と、グラフの美しさを両立させるのは難しいようである。