弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【読書感想文】草原の風

私は歴史小説が好きだ。その面白さを最初に教えてくれたのは吉川英治三国志であるが、その三国志を通じて知ったのが宮城谷昌光であった。歴史の面白さは、好きな時代、例えば三国時代から派生して、近隣の時代の歴史を徐々に知っていくところにある。本作の時代背景は、三国時代のおよそ二百年前、劉邦が建てた漢という国を再興した劉秀なる人物の物語である。

漢という国は、王莽という人物によって一時中断されたのを契機に、前半を前漢、後半を後漢と呼ぶ。前漢後漢を合わせて治世は四百年に渡り、これは中国史上で最初の大王朝となった。この後漢の末期が三国時代と重なる。

王莽は前漢に代わって新という国を建てたが、あまりにも政治的な失敗が続いたため、中国では各地で反乱がおこった。この反乱に乗じた一人が劉秀である。劉秀は前漢の皇族の末裔ではあったものの、既に家勢は衰退して自身は無位無官であった。滅亡した王朝の復興を唱えて天下統一を果たしたのは、中国史上で劉秀だけである。

中国の歴史では王朝を建てた皇帝は数多くいれど、劉秀の存在はその功績に比べてかなり目立たないほうである。その理由は大きく二つある。ひとつは、劉秀が皇帝になるまでの過程には多くの障害があったとはいえ、人生全体を見渡してみると、波乱万丈というよりはつつがなく成功して人生を終えた印象が強いからである。三国志のような視点と同じ視点で劉秀という人物を見てしまうと、物語性に魅力を欠いているのである。どれだけ心血を注いでも北伐を果たせなかった諸葛亮には、神格じみた魅力が付与される。劉秀が苦労人であったことは間違いないが、その苦労人が苦労のすえ成功を収める道筋に魅力を付与するには、また別の視点が必要である。そしてもうひとつは、何を隠そう劉秀自身が目立たない性格であったからである。

史書には「仕官当作執金吾 娶妻当得陰麗華」と残っている。日本語に訳すと「仕官するなら執金吾、嫁を娶らば陰麗華」という意味になり、さらに超訳すれば、「将来の夢は警視総監! 陰麗華ちゃんは俺の嫁!」 これが若かりし日のオタク、劉秀の呟きである。執金吾は首都の警察業務を束ねる武官でありながら服装が華美であり、あこがれやすい官職であった。陰麗華は劉秀の地元では有名な美少女であった。このどこにでもいるような呑気なオタクが、執金吾を飛び越えて皇帝となり、憧れの陰麗華を皇后とするのであるから、史書の言葉はどこまで後付けなのか疑いたくなるものである。

一方で、劉秀は人の風上に立つべくして立った人間である。三十一歳という若さで皇帝に即位し、在位は三十二年に及ぶ。その後、二百年に及ぶ後漢王朝の礎となった。これは、劉秀という人物に多くの優秀な人物が集まったことの証拠である。劉秀が人の風上に立ちうる人でなければ成し得ないことだ。

そんな劉秀を本作はどのように描いているのかという疑問に対しては、実際に本作を読んでもらうことにしよう。

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

以降は、私が読んで考えたことの抜粋である。

なんじは大悪人の面相をしているな。多くの人を殺しても偽善の仮面がはがれるのほどの大悪人だ。 上巻、p138

長安留学中の劉秀が、学友の彊華から言われた言葉。劉秀自身が偽善ほど質の悪いものはないと思っているがゆえに、劉秀はこののち数日間鬱悶することになる。

彊華は一言でいえば変人であり、学舎の中で孤立した存在であった。学生はみな彊華から距離を置いたが、劉秀だけがただひとり彊華とまともな会話をした人物となった。そんな劉秀を彊華もまた変人と見たのであろう。彊華は内なる劉秀の感想を、率直に劉秀本人に突き付けたのである。劉秀には人の言葉を聞くという性質がある。劉秀は彊華の言葉に悪意を感じ取らなかった。多くの人は人の話を聞いているとき、その話の内容について考えているのではなく、次に自分が何を話すかを考えているという。劉秀は自分が話す言葉を考えるのではなく、人が話した言葉を考えているのであった。

人は何かを失えば、何かを得られる。多くのものを両手で抱えて生まれ育った者は、それらを落とさぬようにするだけで、あらたなものを得ることはできない。そう思えば、――この両手は、天を支え、地を抱けるほど空いている。 上巻、p177

実家と養家を去り、宗家のもとで暮らすことになったとき、孤独感を強め自分の未来の暗さを予感した劉秀の心情。

世は王莽政権の末期であり、各地で反乱がおこり、社会全体の見通しは暗くなっている。いっぽう劉秀個人に視点を戻しても、父劉欽は南頓県の県令であったが既に亡く、自分自身は無位無官のままである。ただし、劉秀には逆転の発想という、人生哲学ともいうべき思考の柱があり、このときも、持つ者は失うだけであり、持たざる者は得るだけだと考えた。

劉秀は稼穡の達人でもあった。稼穡とは畑仕事のことであり、劉秀は良く働いた。率先して働く姿勢は生涯かわらず、そこに人は惹かれて、彼のもとには優秀な人が大勢集まった。そして人を用いることに無駄がなく、自然を相手に無駄なことを行わない稼穡が常に劉秀の根底にあった。

良いものさえ作れば、かならず売れる、というのは妄想にすぎません。作るより、売るほうがむずかしいといえる。作ったものを、広く遠くまで人々に知ってもらうには、そうとうな工夫が要ります。 上巻、p298

長安で劉秀に薬売りを教えられた朱祜が、その後順調に商売を続けていることに対して劉秀が言った言葉。それに対して朱祜は「文質彬彬ですね」と応えている。

文質彬彬とは外見と内面が程よく調和していることを意味する。なにを外、なにを内とするかによって、人や物にとらわれず広く当てはめることのできる言葉である。劉秀は良いものを作れば売れるという考えは妄想に過ぎないと断言する。私は心が痛い。世の中を見渡してみると、確かに必ずしも良いものが売れているわけではない。広く知ってもらえたものが売れているのだ。

紊れた服装は、わざわいを招く、<中略>正しい服装は、祥祉を招くであろうよ。 中巻、p244

劉秀たち反乱軍の行軍をみた河南群の沿道の人々の感想。

劉秀たちは王莽政権に対する反乱軍であるがゆえに、軍装は乱れがちであった。そのなかで劉秀だけが、漢の伝統的な服装を心掛けた。その行軍を傍から見る庶民の中には学のある者もいる。劉秀は細かい気遣いで輿望を得た。

ここにも文質彬彬の言葉が当てはまる。反乱軍は勝利し続け実力を伴っていたからこそ、正しい服装に輿望が集まった。実力が伴わなければ、高級ブランドを身にまとっても虚勢にしかならないのは現代にも通じる。

王莽、王朗などは、汚れた時の化身であるといってよい。これから劉秀がなすべきことは、穢悪な時を滌い清めることであろう。 下巻、p66

人の成否は徳の薄厚にありと鄧禹が述べたとき、王莽や王朗を憎む自分の徳や慈悲は何だろうかと自問したときの気付き。

劉秀は、悪政を敷く施政者を憎むのではなく、悪政を敷く施政者を生み出した、時代の仕組みに着目した。

宮室の外にある晩夏の光を、吹き始めた風が揺らしているようである。河北は秋の訪れが早い。光も風も、夏の暑苦しさをまぬかれようとしている。 下巻、p276

皇帝の位につく劉秀の前に彊華が現れたとき、劉秀がまぶしさを感じた情景。

風が光を揺らすとは味わい深い表現である。宮城谷昌光は情緒的な表現を多用する人ではないだけに、この彊華と劉秀の再会が特別なことを思わせる。彊華という人物は史実であり、皇帝即位を躊躇う劉秀に予言書を託したとある。彊華は一貫して、奇人でありながら真実の人であり、彊華がもたらした予言書の信ぴょう性は、そのまま彊華の人間性が反映された。

妄をつかない人の言は、奇言となり、その行動は、奇行となり、その人は、奇人となる。そう想うと、妄には、この世を潤霑させるはたらきがあるのだろう。 下巻、p278

劉秀が学生の頃と変わらない彊華を見て持った感想。

妄は嘘と取って差し支えないだろう。たしかに、世の中のすべての人間関係が、嘘のない正直だけでやりとりされていたら、ほとんどの人間関係は成り立たなくなるかもしれない。相手を傷つけない優しい嘘のような、嘘を特別視した表現もあるが、そんな嘘は何も特別なものではない。世の中に空気のように満ち溢れている。私たちは、息を吐くように優しい嘘を吐いているのだ。