弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【読書感想文】重耳

中国の春秋時代と言えば、周が東西に分裂してから、晋が三国に分裂するまでの時代を指す。と言っても、すぐにピンとくる時代ではない。何しろ西暦にして紀元前七世紀のことである。二千七百年前の人間の興亡など気が遠くなるというものである。春秋時代の前代を西周と呼び、次代を戦国時代と呼ぶ。この戦国時代の覇者が秦の始皇帝であり、歴史は前漢劉邦に繋がっていく。ここまで時代が下ってようやく、漫画『キングダム』を始めとした馴染みが出てくる。

物語の時代である春秋時代について、もうすこし紹介しておこう。春秋時代は、周という国が中華圏を統一していた。統一と言っても現在の中国大陸全域を統治していたのではなく、黄河流域を中心に点在する都市国家によって、封建制のもと統治が行われていた。周の歴史は、西周の時代も含めると片足が伝説の中に埋もれていて、その始まりは定かではない。紀元前11世紀に武王・姫発が、暴虐を極めた殷の紂王を討ち、周を建国したのが始まりである。時代が下るにつれて、周の権威は衰えるばかりで、諸侯が領土と権勢を争って戦争を絶え間なく起こした。実力を失っても名望を持っていた周が、諸侯に対して一定の影響力を持っていたのが春秋時代であり、周の権威が完全に失墜し、諸侯が王を自称したのが戦国時代である。

この物語の主人公である重耳(ちょうじ)は、この春秋時代の大国、晋の公子である。重耳には多くの兄弟がいたが、特に兄の申生(しんせい)と、弟の夷吾(いご)の二人は、重耳と合わせて引き合いに上がる。物語は典型的な貴種流離譚である。父である詭諸(きしょ)の老齢に伴って、晋の公室に驪姫(りき)の乱と呼ばれる後継者問題が起きた結果、申生は廃嫡されたのち自殺を命じられ、重耳と夷吾は亡命を余儀なくされる。重耳は亡命したとき四十三歳であったが、こののち十九年間の放浪生活を経たのち、祖国に君主として帰還し天下の覇権を手にした。これだけでも、重耳の偉業が良く分かる。重耳は後に春秋五覇の代表格とされる。

驪姫の乱という最大の苦難に当たって、三人の兄弟がとった対応が三者三様であったため、その因果応報を教訓とし、君主への諫言としても引き合いに出される。歴史小説をよく読む人は、重耳の名や、その触りを知っていることが多いかもしれない。

申生の気性は、清廉潔白であり、人として汚い部分を持たず、孝行者であり、ただひたすらに人格者であった。それゆえに朝廷内で、最も衆望を集める存在であった。しかし、人格者であるがゆえに、父からの寵愛が消え、陰謀の魔の手が迫っても、反乱を起こすこともなく、亡命することもなく、自殺することになる。彼が、陰謀の魔の手を予知していなかったわけではない。彼の臣下は、こぞって反乱や亡命を勧めた。しかし、申生は何もしなかった。自分の正当性を、ただ神の判断にゆだね、誹謗中傷に対して自己弁護することもなく、無抵抗を貫いたのである。

夷吾の気性は、才気煥発であった。若くして機知に豊富であり、その分かりやすい優秀さから、申生の次に衆望を集めた。長兄の申生が自殺し、次兄の重耳が亡命すると、みずからも梁へと亡命した。ただし、亡命先が重耳とは異なる辺りに、彼の意向が読み取れる。後に、晋国内の混乱を収めて重臣の里克(りこく)によって迎えられると、それを断った重耳とは対照的に、晋へ帰国し晋公に上った。ただ、その政治は酷薄であり、里克ら重臣の弾圧や、亡命中の重耳の暗殺を謀るなど、才気の下に隠れた小心さが見え隠れする。対外的にも失敗が続き、秦との戦いに敗れると、太子の圉(ぎょ)を人質に出さざるを得ず、秦に対して事実上の従属を強いられた。

重耳の気性は、とらえどころがないというのが率直な表現かもしれない。見方によっては愚鈍にも見えるその性格ゆえに、若いころは特に、三人の公子の中では、もっとも評判が立たなかった。しかし、その器の見えぬ器量ゆえか、重耳のもとには人材が集まり、名声は徐々に上がった。長兄の申生が自殺すると、縁類である北狄の国に亡命する。弟の夷吾が晋に返っても、一貫して帰国せずに放浪した。弟の夷吾が亡くなると、その失政の反動もあって、晋国内の賛同と、秦の後援を得て、ついに、晋公として祖国に帰還する。このとき、重耳は既に六十二歳であった。

申生、重耳、夷吾は、いずれも将来を嘱望された優秀な公子であり、三人は直接争うこともなかったが、結局、晋公として最後に覇権を握ったのは重耳であった。三人からどのような教訓を得るかは、人によって異なるだろう。申生のように人格の善性だけでは、世の中の逆境を乗り切れない。時には毒をもって毒を制すことも必要である。一方で、夷吾のように才能だけで、その内面に善性を欠くようでは、人心は得られず失敗する。文質彬彬という言葉のように、人格の善性と、才能の発露が程よく調和して、初めて重耳のように至るのかもしれない。その重耳が若いころはいたって評価が上がらなかったのだから面白い。

三人の公子は、その結末を置いておけば、いずれも優秀な人物であることに変わりはない。公子たちが優秀であったのは、天性ではなく、その周りの臣下たちが優秀だからであった。そして、優秀な臣下が晋という国に集まったのは、重耳たちの祖父である称(しょう)が類まれな名君だったからである。

称の言葉はよく心に響く。

申生の天性など、はっきりいえば、どうでもよいのだ。明君になれるかなれないかは、師と傅しだいよ。わしの人のよさはな、こういうことを、いまここで汝に頼むところにある。(中略)こういうことは、死ぬまぎわに頼むものよ。さすれば、汝は断れなくなる。が、わしはみたとおり元気そのものだ。断りやすかろう。考えておいてくれ。 上巻、p78

これは、狐氏の賢人と尊称された狐突(ことつ)に対して、生まれたばかりの孫である申生の師になってほしいと頼んだ時の、称の言葉である。物語としては、狐突にはこの申し出を断りたい理由があるのであるが、重要なのはその理由ではない。私が注目したのは、わざわざ断りやすい状況を作って、自分の要求を伝えた、称の人格であった。称と狐突の関係は主君と臣下の関係である。いうなれば、称は狐突に頭ごなしに要求を命じることもできるし、用意周到に断りにくい状況を作って要求を伝えることもできる。ところが、称は狐突に対して交渉の小技を弄すのではなく、ありのままの希望を本心として伝えた。称と狐突は、単なる主従関係、利害関係ではなく、互いにその人格に対して敬意を持っていた。

私は、この称の言葉に深く感じ入るとともに、私自らも、人への要求を伝えるときは断りにくい状態を作らないようにしたいと思うのであった。何故ならば、私自身も時に、人から断りづらい状況下で要求を伝えられることがあるからだ。私は、そういう時、残念ながら、そのような人とは長期的な関係を維持するのは難しいかもしれないと毎回思う。しかし、称と狐突の関係を見てみれば、なにを隠そう、私には単純に敬意が足りず、また尊敬もされていなかったのだということが分かるのである。ただただ反省するばかりである。

称と、重耳は名君であることに異論のある人はいないであろうが、称の子であり、重耳の父である詭諸は暗君と評価されがちなのが歴史の皮肉である。詭諸は武勇に優れて、周辺諸国を次々と滅ぼしたが、晩年は愛妾の驪姫の讒言に踊らされ、その治績を汚してしまった。なにしろ、詭諸は父親の妾にすら手をだす、単純な欲求の持ち主であった。その単純さは、こと軍事には向いていたが、政治、外交には不向きであった。称は詭諸の晩節を知る前に世を去るが、生前、いつしか称が、子である詭諸の器量の限界を受け入れたとき、汝は地味な花になれと言い、器量いっぱいに生きよ、と念じるのであった。

気付いてみれば、『重耳』の物語は親子三代の物語なのである。この三代の中で、不思議なことに私が最も共感したのは、詭諸であった。それは、三代の中で詭諸がもっとも不肖だからなのか。称に父性を多分に感じたのであろうか、器量いっぱいに生きよ――それは、私に言われたような気がした。

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

依存されずに貢献するにはどうしたらよいか

なぜ貢献すると、依存されるのか

仕事の本質は、相手に出来ないことを代わりに請け負うことである。できない理由は、それをやるだけの技能や、資本、時間を持っていない、などが挙がられる。それをおカネの力で解決しようというところに、仕事が発生する。

したがって、仕事を請ける側は、相手ができないことをやることによって、相手に貢献し対価として報酬をえる。仕事を請けた以上、貢献する強い動機が、仕事が受けた側にはある。ところが、この強い動機ゆえに、相手ができないことを先読みしすぎて、相手がやるべきことまで請け負ってしまうと、相手の自立性を奪い、相手から依存されることになる。こういったことは、契約などの形式的な範疇を越えて暗黙的に行われるから、関係は一層難しくなる場合が多い。

相手から信頼されるのと、相手から依存されるのは似ているようで違う。貢献すればするほど、相手からの信頼が高まると同時に、依存のリスクも高まっている。自分の貢献が相手の自立性を突き破っているかどうかは、自分では明確には分からない。依存のリスクの高まり方は相手の自立性しだいで、それ自体は私たち自身が制御することはできない。言い方を変えると、依存されやすい人は、信頼を得やすい優秀な下地を持っている人ともいえる。

貢献していると依存されるのは、本質的なもののように思える。

いつか必ず届く依存のメッセージ

貢献していると、いずれ依存されてしまうのであれば、依存されずに貢献するにはどうしたらよいか、という問いは早くも的を射ていないことが分かる。問題なのは、相手から依存されないことではなく、相手からの依存をどうコントロールするかということになる。

それは、相手からの依存的な要求に対して、自分のルールに従ってノーということである。

上述の通り、相手から依存的な要求が発せられるのは、自分の貢献が相手の自立性を侵しているからである。そもそも、相手から依存的な要求が発せられないことが理想だが、自分の貢献が相手の自立性をどこで侵すかは分からないのでその実現は難しい。相手の心の中を探ることはできないので、コミュニケーションをもってその境界線を見定めるしかないが、そのコミュニケーション自体が相手の自立性を侵すかもしれない。

だから、私たちは依存的な要求に対して、ノーと言うしかない。でも、私たちはノーと言うのが怖い。

ノーと言うルール

相手から依存されたときにノーと言うルールをどうやって決めるか。このルールはおそらく一般化できないのではないかと考えている。ルールは自分と相手の人間関係だけに特化して成り立ち、ありとあらゆる人間関係に当てはめることのできるルールは無いのではないかと思う。私自身も振り返ってみると、ノーと言わなくてもよかったと後悔する場面があれば、ノーと言わなくてはならなかったと後悔する場面もある。これは人間関係ごとに存在している理想点へと、試行錯誤しながら収束させていくしかない。

ノーと言うルール、つまり収束させる理想点を一般化できなくても、収束させる方法を一般化することはできるかもしれない。この方法が正確なものであれば、私たちは限りなく少ない試行錯誤で、ノーと言うルールの理想点に到達することができる。

ノーと言うリスク

これは単純に仕事を失うリスクである。プロセスに目を向けて言うと、相手の信頼を失うリスクである。私たちがノーと言うのが怖いのは、積み上げた信頼を崩したくないからである。

実は、ノーと言って信頼を失うケースは少ないのではないか? 確かに、自分の都合だけを押し通すために、自己中心的にノーと言い続ければ、確実に相手からの信頼を失い、仕事を失う。相手に貢献していないのにも関わらずノーと言えば当然の結果である。しかし、十分な貢献していれば、その中で一度だけノーと言ったところで、信頼を失い仕事を失うことは無い。十分な貢献をしているのにもかかわらず、ノーと言った結果信頼を失うのであれば、相互に貢献に対する認識の齟齬がある。相手が単純に恩知らずなだけの場合もあるかもしれない。

依存性の高い相手にノーと言わずに長期的な関係を構築するのは無理だと考えたほうが良い。ノーと言うのが遅れると、ノーと言う言葉の意味が相手に通用しなくなる。今までやってきたことをやらないというのは、依存性の高い相手には受け入れにくい。つまり、最初が大事である。納得しにくい依頼を受けたとき、一回だけだったらという楽観的な考えや、あるいは一回やってみて考えようという向上的な考えは、相手の依存性を悪化させる。

ノーと言う vs 仕事を失う、という天秤

売上に余裕があれば、ノーと言うリスクは怖くない。幸せはお金で買えるという考え方は、これを根拠とする。かなりパワープレーだけど、これほど強力な方法はない。金銭的に余裕がないというのは、単純に手札が少ないことを意味する。手札が少ないと、悪手でしかないカードを切らざるを得ない場面が出てくる。交渉には、BATNA(代替の手段) や、RV(撤退の基準) という基本概念があるが、これらは、手札を増やすこと、あるいは手札が豊富でなくてはならないことを意味している。一方で、どんなに手札が多くても、プレーヤーである私たちのプレイスキルが伴わなくては、全く意味がない。幸せはお金では買えないという考え方は、これを根拠とする。貴重な手札をどぶに捨てるような、判断能力しかなければ、せっかく手札を豊富に持っていたとしても元も子もない。

まとめ

  • そもそも、依存性の低い人をお客さんとする。
  • 一方で、相手を依存的にさせている自分の責任もある。相手の依存性を高めないように、相手の自立性を侵さないように貢献する必要がある。
  • しかし、貢献しているうちに、相手の依存性を高めてしまう傾向は避けきれない。相手の依存的な要求に対しては、ノーと言う。

相手の目線で考えると私自身も含めて、自分が依存していることに気付いている人は少ない。私も仕事を失いたくはないから、その気持ちがお客さんへの依存に繋がる。この仕事を失ってもやっていけるという状態でないといけない。一方で、お客さんも、私がいなくなって業務が成り立たなくなるようでは、お客さんが私に依存していることになる。いなくなられたら困るけど、なんとかなるくらいでないといけない。いろいろ、考えてここまで書いてきたが、結局のところ、自分を自立させ、自分がなにものにも依存しない、というところに行き着くのかもしれない。

作り逃げを断罪する気にはなれない

最近は、私も技術者としての経験値が増えてきたせいか、あるいは単に年を重ねたせいなのか、システム開発に関しては、どこか諦めのような感覚も強まってきていて、正義を振りかざすシステム開発論に、反応することが少なくなってきました。良いシステムを作ろうという思いは当然ありますが、良いものを作ることを目指すことよりも、システム開発を行うチームや、組織という主体を良くしよう、という考えに切り替わりつつあります。つまり思考が人間関係ファーストになりつつあります。システム開発は、それを使うエンドユーザーの為のものですが、同時にそれを作る私たちの為のものでもあります。

でも、以下のような記事はやっぱり技術者としての琴線に触れます。

xtech.nikkei.com

novtan.hatenablog.com

私が作り逃げに対して、最も思うところは、表題にもある通り、同じ技術者として作り逃げを断罪する気にはなれない、というものです。作り逃げをする技術者、人、組織、会社ばかりに着目して、なぜ作り逃げが発生するかという仕組みに着目しないと、作り逃げを断罪している自分自身が、いつか必ず作り逃げをする側になりますよ。

これが、私が一番言いたいことです。

作り逃げが発生するのは新規開発と捉えて差し支えないですよね。システムの新規開発とシステムの引継ぎでは、どちらの方が難易度が高いかというと、それは新規開発なのは明確だと思います。求人でも、引継ぎ案件よりは、新規開発案件のほうがスペックを求められます。引継ぎをした人からは、新規開発をした人の当時の事情が見えないことが多い。それは当然です。新規開発の難易度のほうが高いのですから。新規開発をする技術者は、作り逃げを引き継いだ経験が既にあることが多いです。なぜなら、ひどいシステムであるほど技術者が定着しないので、引継ぎが何度も発生するからです。システムの作り逃げを断罪したくなるような、悶々とした状況を抱える機会のほうが、作り逃げが発生しかねない新規開発よりも、多い傾向にあります。良いシステムは技術者が定着してしまうので引継ぎが発生しないのです。

作り逃げが発生するのには、何かしら理由があります。思考停止したひどいコードがあったとき、それはより重要なことに思考を回すために、あえて思考停止せざるを得なかった結果かもしれません。コーディングの工程なのに、要件定義がフワフワしているのはよく見る光景です。ドキュメントがないのは、作ろうと努力したけれども、お客さんを説得させられず、予算が通らなかった結果かもしれません。安いものに飛びつきがちなのは、古今東西に共通するお客さんの性です。

中には、自己中心的で無責任な技術選択をする技術者がいないわけでもありません。しかし、自己中心的で、無責任に見えるような、技術選択でも、せざるを得なかった外的要因が、全くなかったとは言い切れません。

システム開発は本当に難しいです。システムがつつがなく出来上がり、運用できるかどうかは、ベンダーの問題もありますが、お客さんがお金を持っているかという問題に帰着することが多いです。私は、安定した開発プロジェクトに携わった経験がありますが、振り返ってみるとお客さんがお金を持っているという共通点があります。予算が豊富でもシステム開発は失敗する可能性はありますが、予算が不足して良いものは絶対に出来ないです。システム開発はほとんどの場合、それを使うお客さんの売り上げに影響しません。B to B の業務システムならなおさらです。システム開発は正のインセンティブ(売り上げがどれだけ上がるか)ではなく、負のインセンティブ(業務が正常に回るか)で動いています。システム開発がコストだと捉えられ、予算が逼迫するのは当然の結果でもあります。事実、システムは人件費というコストの王様とも言えるパイを切り崩してきたにすぎないのですから。そして、システム開発自体が人件費のかたまりです。

システム開発は作って終わりではないという点において、ほかのものつくりとは、一線を画しています。もはやシステム開発は製造業ではなく、サービス業と言っても過言ではありません。にも関わらず、システム開発における契約体系が一括請負であれば、構造的に納品は作り逃げになります。

システム開発の特徴は、

  • 言うは易く行うは難し(大体の技術者はどうすべきかなんてことは分かっている。そのべき論を具体的な行動として実行できる人は少ない)
  • 安かろう悪かろう(コストのほとんどが人件費である以上、安くても良いものを機械的に実現できない。それができるとしたら属人化というリスクが台頭してくる)

考えれば考えるほど、システムの「作り逃げ」を許すな、なんて断罪は恐ろしくてできない。私たちが注視しなくてはいけないのは、作り逃げ自体ではなく、作り逃げが生まれる仕組みについてですよ。

TOLVE のブックカバー asoboze

私は、本は買うよりも図書館で借りることの方が多いので、文庫本の場合はブックカバーを使うのが習慣になっています。借りているものは大事に扱わなくてはいけませんからね。今まで私は、ブックカバーに関してこだわりを持っておらず、Amazon のロゴが入った合皮製のブックカバー使っていました。ただ、合皮というのは、経年劣化が激しく、使い込むほど、ボロボロになって裏地があらわになります。その度に、買い替えてきたのですが、数年前から使っている今のブックカバーも例にもれずボロボロになってきたので、買い替えを検討しました。

長く使うものであり、毎回ボロボロになる合皮製のブックカバーに嫌気がさしたので、今回は革製のものを買ってみようと検討しました。選んだのが、TOLVE本革ブックカバーです。今回の記事は、このブックカバーを少しばかり使ってみたレビューになります。ご購入を検討されている方はご参考ください。

購入したのは、6色あるうちのヴィンテージブラウンです。

使ってみて、特筆すべき点は、以下の三点です。

  • 価格と本革の質のバランスが良い
  • しおりは付いてない
  • 対応する文庫本の厚さは21mm

f:id:yayoi-tech:20200327161530j:plain
TOLVE ブックカバー

f:id:yayoi-tech:20200327161643j:plain
しおりと、折り返しはない

お手頃価格なのに革の質感が良い

税込み2730円という、本革としては決して高価ではない価格帯でありながら、質感は思ったよりも良いです。私は、靴、鞄、財布、手帳に革製品を愛用していますが、それらと比較してみても、値段相応以上の質を感じました。革製品はある程度、長く使って分かることもあるので、その品質について一概に断定することはできませんが、第一印象は非常に良いです。

ただし、一点だけ付け加えるとすれば、革の質が良いだけに、しっとりと滑らかな肌触りなので、手の中で若干滑りやすい点が挙げられます。好みなどの個人差に左右されるところですが、合皮、ビニール、布製のほうがホールド力は良いかもしれません。私の場合は、滑りやすいと感じつつも、慣れの問題の範囲かとも思っています。

しおりが付いていない。

ブックカバーにはしおりとして使える紐が付属しているものがありますが、TOLVE のブックカバーにはしおりがありません。

非常に些細な違いなのですが、面白いことに人間の行動は道具の小さな違いによって大きく変わることがあります。紙のしおりだと、どのようなことが起きるかというと、落として無くす、とっさに電車から降りるときに挟み忘れる、挟んだまま本を図書館に返却する、そもそもしおりを持ち忘れる、ということがあります。ブックカバーにしおりが付いていると、上記の問題はほぼ解決します。お裁縫の心得がある人は、紐を自分で縫い付けるのもアリだと思います。ブックカバーとして致命的ではないのですが、ここが改良されると完璧だと思います。

折り返しがないので、分厚い文庫本は入らない。

ブックカバーには折り返しがあるものがあります。

これは、文庫本の厚さに幅広く対応するための機能なのですが、TOLVE のブックカバーには折り返しがありません。開いて裏を見てみると左右が同じ構造をしています。

販売サイトでは厚さ21mmまでと表記されており、これよりも厚い場合はブックカバーに収まりません。私が手元にある文庫本を探したところ、『ハイペリオンの没落・下巻』がもっとも分厚く、その厚さは25mm強でしたが、察しの通り入りませんでした。

f:id:yayoi-tech:20200327161719j:plain
厚さ 25mm の文庫本は収まらない

市販されている文庫本のほとんどはカバーできるものと思いますが、中には分厚くて使えない場合もありそうです。厚さ21mmまでという仕様が現実的かどうかは、今後見極めていきたいと思います。

いずれにしても、愛用に足る良品です。使い込むことによって、味わいがどう出てくるかが楽しみです。

【FEH】リリーナ育成計画

育成の背景と目的

主に、フレンドダブルと、縛鎖の闘技場で、アタッカーとしての役割を担うのが目的です。以前、紹介したニノの赤魔法バージョンになります。

yayoi-tech.hatenablog.com

紹介

例のごとく10凸。

f:id:yayoi-tech:20200321121243p:plain
リリーナ「美しき盟主」

選定理由

  • 低レアであること(☆5限定や、聖杯配布ではないこと)
  • アタッカーの素質を持っていること

低レアの歩行、赤魔では、リリーナ、ソフィーヤ、マーク、サーリャ、レイ、ヘンリーの6人がいます。この中で特に攻撃的なのがリリーナと、サーリャです。リリーナの特徴は素で37という高い攻撃で、サーリャの特徴は素で34という高い速さです。アタッカーとして手軽に育成するのであれば、このどちらかが候補にあがります。

リリーナ

HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 35△ 37 25△ 19 31 147

△:得意

フォルブレイズ
  • 威力:14
  • ターン開始時、敵軍内で最も魔防が高い敵の魔防-7(敵の次回行動終了まで)
  • 自分から攻撃した時、戦闘中の攻撃+6

微妙に魔防が高いのが特徴ですが、武器の効果の「鬼神の一撃」と噛み合わず、若干ミスマッチになるのが残念です。受けとしてビルドすることは無いので、高めの魔防は無駄になりがちです。いざという時に、ある程度の耐久力はあると考えることにしましょう。

悩むのは個体値に、攻撃↑と速さ↑のどちらを選ぶかというところでしょう。速さ↑を選ぶ理由は、速さを得意としているので上がり幅が大きいことと、どのみちブレードほどの破壊力は無いので、一発の威力を高めるよりは、追撃の可能性を広げたほうが使い勝手が良いという点です。相手の追撃の可能性を狭められるので、いざという時の耐久力にも寄与します。ただし、リリーナ自身の元々の速さは高くないので、いっそのこと捨ててしまって、一発の威力に賭ける考え方もあります。その場合は、攻撃↑を選択することになります。

どちらが正解ということではなく、最適な個体値はプレイスタイルや運用目的によるでしょう。

攻撃の理想値は、37 + 14 + 7 + 6 = 64 になります。これがバフなしで単独で出せるのですから、使い勝手は良いはずです。

サーリャ

HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 39 32 34 23 20 148

得意なし

サーリャの禁呪
  • 威力:14
  • 自分が受けてる強化の合計値を攻撃に加算
  • 周囲2マスの敵は、戦闘中、攻撃、速さ-4

まず、ブレード系の効果が単純に強力です。ニノと違って、武器効果に自己バフはありませんが、何らかのバフを貰えば攻撃に不足を感じることは無いでしょう。ただし、最近は凪を代表とする、バフを無効化するスキルが浸透しています。凪スキル持ちには思うようにダメージが乗らない可能性があります。

攻撃の理想値は、32 + 14 + 4 = 50 になります。これにバフによるブレード効果が乗ることが前提になります。

サーリャの面白いところは FEH で初めて実装された紋章系のデバフを持っていることです。この恩恵はサーリャ自身だけでなく、周囲の味方にも影響を与えます。

単独で高い攻撃能力を持っているリリーナと、味方からの支援を前提とし味方も支援できるサーリャ、というのがそれぞれの特徴となります。

今回はリリーナを選択しました。ブレードはブレードの申し子ともいえるニノを既に育成済みなので、違った毛色が欲しくなりました。

スキル

  • フォルブレイズ(特殊錬成)
  • 守備の応援
  • 月虹
  • 獅子奮迅3
  • 攻め立て3
  • 魔防の威嚇3

獅子奮迅と攻め立ては、アタッカーの定番構成です。

スキルは一考の余地がありそうです。私の場合、速さ↑を選んで10凸していますが、それでもなお、速さの低さに不満を抱きます。この場合は、飛燕の一撃で Aスキルと聖印枠を埋めて、速さを徹底的に上げたほうが使いやすいのではないかと考えています。また、Cスキルの魔防の威嚇はほとんど意味をなしていません。相互鼓舞や波が欲しいと思うところです。高めの魔防を活かして、謀策というのもアリです。

評価

決して弱くはないし、強くて、使い勝手も良いです。ですが、どうしても比較してしまうと、ニノには劣ります。というよりも自己バフでブレードを使えるニノの使い勝手が良すぎるとも言えます。ニノの場合はブレードを無効化されても、持ち前の速さでごり押ししてしまうこともあります。リリーナの場合は、環境に左右されない自立した高い攻撃能力があるとはいえ、やはり追撃をとれない速さの低さに不満が集まりがちです。この点では、個体値に攻撃↑を選んで、攻撃に特化したスキル構成にするのは一理あります。あるいは、私のように速さ↑を選択している場合は、飛燕の一撃などで徹底的に速さを補強したほうが良いかもしれません。

一方で、改めて考えるとサーリャの期待値もかなり高いです。武器効果のデバフはサーリャ自身に必ず効果があることを考えれば、その速さはニノよりも高くなります。10凸前提なら、かなり多くの敵に追撃を取れます。

私の場合は、霧亜が既に兵舎にいるので、赤魔・歩行の活躍の機会が奪われがちというのもあります。誰を育成するにしても、自分の兵舎をよく見て競合のいないキャラを育成することをおススメします。

【読書感想文】草原の風

私は歴史小説が好きだ。その面白さを最初に教えてくれたのは吉川英治三国志であるが、その三国志を通じて知ったのが宮城谷昌光であった。歴史の面白さは、好きな時代、例えば三国時代から派生して、近隣の時代の歴史を徐々に知っていくところにある。本作の時代背景は、三国時代のおよそ二百年前、劉邦が建てた漢という国を再興した劉秀なる人物の物語である。

漢という国は、王莽という人物によって一時中断されたのを契機に、前半を前漢、後半を後漢と呼ぶ。前漢後漢を合わせて治世は四百年に渡り、これは中国史上で最初の大王朝となった。この後漢の末期が三国時代と重なる。

王莽は前漢に代わって新という国を建てたが、あまりにも政治的な失敗が続いたため、中国では各地で反乱がおこった。この反乱に乗じた一人が劉秀である。劉秀は前漢の皇族の末裔ではあったものの、既に家勢は衰退して自身は無位無官であった。滅亡した王朝の復興を唱えて天下統一を果たしたのは、中国史上で劉秀だけである。

中国の歴史では王朝を建てた皇帝は数多くいれど、劉秀の存在はその功績に比べてかなり目立たないほうである。その理由は大きく二つある。ひとつは、劉秀が皇帝になるまでの過程には多くの障害があったとはいえ、人生全体を見渡してみると、波乱万丈というよりはつつがなく成功して人生を終えた印象が強いからである。三国志のような視点と同じ視点で劉秀という人物を見てしまうと、物語性に魅力を欠いているのである。どれだけ心血を注いでも北伐を果たせなかった諸葛亮には、神格じみた魅力が付与される。劉秀が苦労人であったことは間違いないが、その苦労人が苦労のすえ成功を収める道筋に魅力を付与するには、また別の視点が必要である。そしてもうひとつは、何を隠そう劉秀自身が目立たない性格であったからである。

史書には「仕官当作執金吾 娶妻当得陰麗華」と残っている。日本語に訳すと「仕官するなら執金吾、嫁を娶らば陰麗華」という意味になり、さらに超訳すれば、「将来の夢は警視総監! 陰麗華ちゃんは俺の嫁!」 これが若かりし日のオタク、劉秀の呟きである。執金吾は首都の警察業務を束ねる武官でありながら服装が華美であり、あこがれやすい官職であった。陰麗華は劉秀の地元では有名な美少女であった。このどこにでもいるような呑気なオタクが、執金吾を飛び越えて皇帝となり、憧れの陰麗華を皇后とするのであるから、史書の言葉はどこまで後付けなのか疑いたくなるものである。

一方で、劉秀は人の風上に立つべくして立った人間である。三十一歳という若さで皇帝に即位し、在位は三十二年に及ぶ。その後、二百年に及ぶ後漢王朝の礎となった。これは、劉秀という人物に多くの優秀な人物が集まったことの証拠である。劉秀が人の風上に立ちうる人でなければ成し得ないことだ。

そんな劉秀を本作はどのように描いているのかという疑問に対しては、実際に本作を読んでもらうことにしよう。

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

以降は、私が読んで考えたことの抜粋である。

なんじは大悪人の面相をしているな。多くの人を殺しても偽善の仮面がはがれるのほどの大悪人だ。 上巻、p138

長安留学中の劉秀が、学友の彊華から言われた言葉。劉秀自身が偽善ほど質の悪いものはないと思っているがゆえに、劉秀はこののち数日間鬱悶することになる。

彊華は一言でいえば変人であり、学舎の中で孤立した存在であった。学生はみな彊華から距離を置いたが、劉秀だけがただひとり彊華とまともな会話をした人物となった。そんな劉秀を彊華もまた変人と見たのであろう。彊華は内なる劉秀の感想を、率直に劉秀本人に突き付けたのである。劉秀には人の言葉を聞くという性質がある。劉秀は彊華の言葉に悪意を感じ取らなかった。多くの人は人の話を聞いているとき、その話の内容について考えているのではなく、次に自分が何を話すかを考えているという。劉秀は自分が話す言葉を考えるのではなく、人が話した言葉を考えているのであった。

人は何かを失えば、何かを得られる。多くのものを両手で抱えて生まれ育った者は、それらを落とさぬようにするだけで、あらたなものを得ることはできない。そう思えば、――この両手は、天を支え、地を抱けるほど空いている。 上巻、p177

実家と養家を去り、宗家のもとで暮らすことになったとき、孤独感を強め自分の未来の暗さを予感した劉秀の心情。

世は王莽政権の末期であり、各地で反乱がおこり、社会全体の見通しは暗くなっている。いっぽう劉秀個人に視点を戻しても、父劉欽は南頓県の県令であったが既に亡く、自分自身は無位無官のままである。ただし、劉秀には逆転の発想という、人生哲学ともいうべき思考の柱があり、このときも、持つ者は失うだけであり、持たざる者は得るだけだと考えた。

劉秀は稼穡の達人でもあった。稼穡とは畑仕事のことであり、劉秀は良く働いた。率先して働く姿勢は生涯かわらず、そこに人は惹かれて、彼のもとには優秀な人が大勢集まった。そして人を用いることに無駄がなく、自然を相手に無駄なことを行わない稼穡が常に劉秀の根底にあった。

良いものさえ作れば、かならず売れる、というのは妄想にすぎません。作るより、売るほうがむずかしいといえる。作ったものを、広く遠くまで人々に知ってもらうには、そうとうな工夫が要ります。 上巻、p298

長安で劉秀に薬売りを教えられた朱祜が、その後順調に商売を続けていることに対して劉秀が言った言葉。それに対して朱祜は「文質彬彬ですね」と応えている。

文質彬彬とは外見と内面が程よく調和していることを意味する。なにを外、なにを内とするかによって、人や物にとらわれず広く当てはめることのできる言葉である。劉秀は良いものを作れば売れるという考えは妄想に過ぎないと断言する。私は心が痛い。世の中を見渡してみると、確かに必ずしも良いものが売れているわけではない。広く知ってもらえたものが売れているのだ。

紊れた服装は、わざわいを招く、<中略>正しい服装は、祥祉を招くであろうよ。 中巻、p244

劉秀たち反乱軍の行軍をみた河南群の沿道の人々の感想。

劉秀たちは王莽政権に対する反乱軍であるがゆえに、軍装は乱れがちであった。そのなかで劉秀だけが、漢の伝統的な服装を心掛けた。その行軍を傍から見る庶民の中には学のある者もいる。劉秀は細かい気遣いで輿望を得た。

ここにも文質彬彬の言葉が当てはまる。反乱軍は勝利し続け実力を伴っていたからこそ、正しい服装に輿望が集まった。実力が伴わなければ、高級ブランドを身にまとっても虚勢にしかならないのは現代にも通じる。

王莽、王朗などは、汚れた時の化身であるといってよい。これから劉秀がなすべきことは、穢悪な時を滌い清めることであろう。 下巻、p66

人の成否は徳の薄厚にありと鄧禹が述べたとき、王莽や王朗を憎む自分の徳や慈悲は何だろうかと自問したときの気付き。

劉秀は、悪政を敷く施政者を憎むのではなく、悪政を敷く施政者を生み出した、時代の仕組みに着目した。

宮室の外にある晩夏の光を、吹き始めた風が揺らしているようである。河北は秋の訪れが早い。光も風も、夏の暑苦しさをまぬかれようとしている。 下巻、p276

皇帝の位につく劉秀の前に彊華が現れたとき、劉秀がまぶしさを感じた情景。

風が光を揺らすとは味わい深い表現である。宮城谷昌光は情緒的な表現を多用する人ではないだけに、この彊華と劉秀の再会が特別なことを思わせる。彊華という人物は史実であり、皇帝即位を躊躇う劉秀に予言書を託したとある。彊華は一貫して、奇人でありながら真実の人であり、彊華がもたらした予言書の信ぴょう性は、そのまま彊華の人間性が反映された。

妄をつかない人の言は、奇言となり、その行動は、奇行となり、その人は、奇人となる。そう想うと、妄には、この世を潤霑させるはたらきがあるのだろう。 下巻、p278

劉秀が学生の頃と変わらない彊華を見て持った感想。

妄は嘘と取って差し支えないだろう。たしかに、世の中のすべての人間関係が、嘘のない正直だけでやりとりされていたら、ほとんどの人間関係は成り立たなくなるかもしれない。相手を傷つけない優しい嘘のような、嘘を特別視した表現もあるが、そんな嘘は何も特別なものではない。世の中に空気のように満ち溢れている。私たちは、息を吐くように優しい嘘を吐いているのだ。

時間がない人向けの要約『時間は存在しない』

正直に告白しよう。途中から良く分からない。

私の凡々たる思考では、にわかに理解できるものではなかった。というよりももっと時間が必要というべきか。

それにしても、宇宙という世界を前にして人類の科学技術は未解決問題ばかりで全く心もとない。一方で、今まで人類が蓄積してきた科学技術の知識と経験は途方もない量で、何かの災厄でそれらが失われたとしたら、取り戻すのに気が遠くなる程度には、難易度が一般人には容易に理解できない領域まで踏み込んでいる。人はだれしも知識ゼロの赤ん坊からスタートすることを考えると、いくら先人が露払いをし道を開拓したとしても、到達できる科学技術には頭打ちが来るのではないかと怖くなるところでもある。

理解はできなくても知的好奇心はある。学問というのは自分の理解できる範囲で理解する程度に収めるのが一番楽しい。自分の知的好奇心以外の何かに追われて学習する大変さは、学校教育の経験者なら誰もが通る道であろう。プロの研究者としての数学者の資質は体力だともいう。私は、頭が疲れて目がかすんできたら寝るだけである。

私は自分の理解を進めるために、読書と並行して要約する癖があるのだが、せっかくなのでそれを共有したいと思う。要約の性ではあるが、著者の文章を正確に要約したものではなく、私の理解を要約した側面があることに注意されたい。要約が正確とは限らない。そもそも私自身が正確に理解していないのである。

タイトルでは「時間がない人向け」と称していながら、要約がそれなりの量になっているのは、私自身が有意義に読書した証左でもある。この点で、私は本書を人にお勧めできる。時間という概念に興味のある方は、以降の要約など読まずに、原本を読んでいただきたい。ただし、要約にも一定の価値がある。本書は著者による話の脱線が少し多い。専門書や論文ではなくエッセイなのだから何を書くのも自由なのだが、読者の時間に対する知的好奇心とは一致しないエピソードの独白が多いのである。エッセイなのだからそれも含めて楽しむべし、と言いたいところではあるが、私は遠慮なく飛ばしてしまったので、人のことは言えない。

著者自身は、第一部は実験において結果が得られた裏付けのある事実としているが、第二部以降はあくまで有力な候補の一つであるといっている。そもそも科学とは誤りと修正の歴史でもある。いずれにしても、私たちが素朴に感じる時間の概念と、時間の本質には大きな隔たりがあることは確信できる。物理学では量子などの世界を構成する根本的な部分で時間は存在しなくなっている。では、私たちが経験している時間の正体は何か。それは物理学ではなく、脳科学や神経学にバトンを譲らなければならないのかもしれない。

時間は存在しない

時間は存在しない

第一部

第一部では、私たち人間が知覚している時間の概念を破壊することで、私たちの時間に関する知識と経験をゼロにリセットしている。

第一章:時間の崩壊

  • 時間の流れは均一ではなく、場所によって早かったり遅かったりする。そのことに気付いたのがアインシュタインであった。アインシュタインは考えた。太陽と地球はどうやって重力で引き合っているのか。太陽と地球の間にあるものは空間と時間だけである。ならば、太陽と地球が周りの時間と空間に変化をもたらしているはずだと。この考察からひとつの仮定が導き出された。物体は周囲の時間を減速させる。物体の質量が巨大であるほど、また物体に近いほど時間は遅くなる。実際に山の上の高所とその下の低地では、低地のほうが時間の流れが遅くなることが明らかになっている。重力によって物体が落下するのは、下のほうが地球による時間の減速が大きいからである。
  • 時間は唯一無二のものではなく、空間の各点に異なる時間が存在する。アインシュタインは個々の時間が互いにどう影響するかを考え、個々の時間のずれの計算方法を示した。時間は単一ではなくネットワークなのである。これがアインシュタイン一般相対性理論による時間の描写である。
  • 時間には単一性がない。

第二章:時間には方向がない

  • 過去から未来という一方向の時間の流れはいったい何なのか。私たちは、過去と未来を明確に区別している。しかし、意外なことにほとんどの物理法則は過去と未来を区別できない。これは、現在の状態から完璧な過去を再現することが可能であり、未来を確定できることを意味している。ニュートン運動方程式は、物体の現在の状態から、物体の過去あるいは未来の状態を算出することができる。
  • これらの過去と未来を区別しない物理法則は、総じて現在の状態を確定している。時には不確定要素を排除するための条件が前提となっている場合もある。現在の状態を正確にすべて考慮することができれば、過去と未来は再現可能になり、過去と未来を区別する時間の流れは喪失する。しかし、実際には現在の状態を全て正確に考慮することは不可能であり、私たちの知覚はぼやけている。ぼやけているからこそ、過去と未来を違うものだと区別できるのである。
  • 時間には方向性がない。

第三章:現在の終わり

  • アインシュタインは、質量の影響で時間の流れが均一ではないことを発見する前に、電磁気学の研究を通じて、速度が速いほど時間が遅くなることに気付いた。光速で運動している物体は時間の経過はゼロになる。
  • 太陽系から最も近い恒星系であるプロキシマ・ケンタウリはおよそ4光年の位置にある。いま私たちが観測するプロキシマ・ケンタウリの輝きは4年前にプロキシマ・ケンタウリが放ったものである。ここで、もしプロキシマ・ケンタウリに我々と同等の生命がいて同じように太陽系の輝きを観測していたらどうなるだろうか。現在の私たちが観測しているのは4年前という過去のプロキシマ・ケンタウリであるが、現在の私たちを観測するプロキシマ・ケンタウリは4年後という未来のプロキシマ・ケンタウリになる。まるで文通である。太陽系とプロキシマ・ケンタウリでは現在を共有することができない。
  • 現在とは宇宙全体に広がらず、自分たちを囲む泡のようなものだ。現在という時間の幅をどれくらいとるかによって、その泡の大きさは変わる。私たち人間が識別できるのはせいぜい十分の一秒程度なので、これは地球全体が一つの泡に含まれる程度になる。しかし、光速で隔てられた距離ではそれぞれの場所にそれぞれの現在がある。
  • 普遍的な現在は存在しない。

第四章:時間と事物は切り離せない

  • アリストテレスは時間とは変化を計測したものと主張し、ニュートンは何も変化しなくても経過する時間があると主張した。この二人の巨人の主張は真っ向から対立している。結論から言えば、この二つの主張はどちらも正しく、どちらも間違っていた。この二つの考えを統合したのがアインシュタイン重力場の概念である。
  • ニュートンが直感した何も変化しなくても経過する時間は存在した。時間は物質が存在しなくてもそれ自体として存在する。しかしそれは絶対的な存在ではなく、物質と相互に影響しあうものであった。アインシュタインはこれを重力場と表現した。重力場は真っ平ではなく、物質の存在によって伸びたり縮んだりして歪んでいる。重力によって球が落下するのは、重力場の歪みの勾配を球が転がっているのだと表現できる。
  • 時間は独立した絶対的なものではなく、事物と相互に影響している。

第五章:時間の最小単位

  • 量子の世界にも時間は存在する。ゆえに時間は量子の性質とも相互に影響している。量子力学によって発見された、粒状性、不確定性、関係性の三つの特徴は、時間の概念をさらに複雑にした。
  • 時計で計った時間は「量子化されている」と表現される。これはいくつかの値だけを取って、ほかの値は取らないということが可能であり、まるで時間が糸ではなく粒のように扱えるからである。時間は連続した線ではなく、不連続な点なのである。この粒には最小の単位、つまり最小の時間の幅がある。これをプランク時間という。
  • 量子は次の瞬間にどこに移動するかは予測できない。これを量子の不確定性という。量子は確率の雲の中に散っており、量子ほどの小さい時間の中では、過去と未来の違いも確率の雲の中に散ってしまう。
  • 量子の位置は予測できなくても確定することはできる。量子は相互に影響する物理的な対象に対してのみ具体的な存在になる。それ以外の存在に対しては不確かさが伝播するのみである。これを量子の関係性という。
  • 時間は不連続な粒であり、不確かで、相互作用によってのみ具現化する。

第二部

第二部では時間のない世界がどのようなものかを理解していく。

第六章:この世界は、物ではなく出来事で出来てる

  • 物とは、しばらく変化が見られない出来事でしかなく、しかも塵に返るまでの期間の状態でしかない。すなわち物を把握するということは、その出来事を把握していることになり、物そのものを把握することはできない。

第七章:語法がうまく合っていない

  • 私たちが、現在・過去・未来にとらわれているのは、使用している言語の語法によるものでもある。私たちの言葉は過去・現在・未来の違いを「あった」「ある」「あるだろう」と区別してる。しかし、上・下という概念が地球規模では意味を持たなくなるように、過去・未来も同様に普遍的な意味を持たない。ただ私たちの言葉は、普遍的な意味を持たない過去・未来を包括てきていないのだ。

第八章:関係としての力学

  • 量子力学では既に時間という変数の存在しない方程式が成り立っている。空間は量子の相互作用のネットワークによって生まれる。それは時間の中にあるものではなく、間断ない相互作用によってのみ存在する。その相互作用が世界のありとあらゆる出来事の発生であり、時間の最小限の形態なのである。
  • 時間と空間は、時間と空間とは関係のない量子力学の近似なのだ。そこに存在するのは、量子の相互作用と、それによって生まれる出来事だけ。そこは時間のない世界である。

第三部

第三部ではまっさらになった時間の概念を再構築していく。

第九章:時とは無知なり

  • 時間は時間のない世界から生じる。
  • マクロの状態にある特定の変数は、時間のいくつかの性質を備えている。第二章で述べたことでもあるが、マクロな状態、つまりぼやけが時間を決めているのである。ぼやけが生じるのは、世界が夥しい数の粒子からなっており、かつその粒子は量子的な不確定性を持っているからである。
  • 量子は測定する順番が重要で、速度を測ってから位置を測るのと、位置を測ってから速度を測るのでは結果が異なる。これを量子変数の「非可換性」という。量子は相互作用によって具現化し、その結果は相互作用の順序に左右される。この順序が、時間の順序の始まりである。

第十章:視点

  • 過去と未来の違いはエントロピーの違いにある。エントロピーは乱雑さであって不可逆である。エントロピーは減少するとはなく常に増大する。とすると過去はエントロピーが低い状態と言える。なぜ過去はエントロピーが低かったのか。
  • 時間に方向性があるのは、宇宙の仕組みではなく、宇宙と私たちの相互作用の仕組みである。私たちは私たちの世界を内側から見ている。私たちにとって天空は回っているが、それは宇宙が回っているわけではない。私たちが回っているから、天空が回って見えるのだ。時間にも同じことが言える。時間の流れは宇宙にあるのではなく、私たちに見えているものなのだ。

第十一章:特殊性から生じるもの

  • この世界を動かすのはエネルギーではなくエントロピーである。エネルギーは保存されるため、生み出されることもなければ消失することもない。にもかかわらず、私たちは同じエネルギーを使い続けることができず、常に供給し続けなければならない。実は私たちに必要なのは、エネルギーではなく、低いエントロピーを高いエントロピーに変換する過程そのものなのである。エネルギーはその媒介に過ぎない。
  • 宇宙はそれを構成する量子の相互作用によって緩やかにエントロピーを増大させている。生命ですらエントロピーの増大の過程で生まれた。生命は秩序だった構造をしているように見えるかもしれない。しかし、より低いエントロピーを食物から得ているだけで、生命は自己組織化された無秩序なのである。
  • 過去は現在に痕跡を残す。痕跡が残るのは何かが動くのを止めるからである。これは非可逆な過程で、エネルギーが熱に変化するときに起こる。熱が存在しなければ痕跡は残らない。私たちはその痕跡を知覚してその結果に先立つ原因を捉えるようになる。これらは、過去のエントロピーが低いという特殊な事実から生じる結果であり、その特殊さは私たちのぼやけた視点にとって特殊なのである。

第十二章:マドレーヌの香り

  • 第六章では世界の成り立ちは物ではなく出来事だと述べた。では「わたし」という存在はいったい何か? 私たちも有限な出来事なのである。しかし、私たちには自己を統一した存在として認識するアイデンティティがある。このアイデンティティを確立させる重要な要素が記憶である。
  • 記憶はエントロピーの増大によって過去が現在に残した痕跡である。私たちはメロディを聞いたとき、一つの音の意味はその前後の音によって与えられている。現在というその一瞬では、私たちは一つの音しか聞けないのに、メロディの美しさに感動することができる。時間が精神に存在すると考察したのはアウグスティヌスであった。
  • 時間とは私たちヒトと世界との相互作用の結果であり、私たちのアイデンティティの源である。