弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【FEH】エリウッド育成計画

さんざん話題になっているエリウッドですが、10凸したので、やはり使いやすいですよという話です。

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エリウッド10凸

エリウッドの強みは、実質的な競合がいないところにあります。

エリウッドの特徴をあげてみましょう。

  • 剣・騎馬
  • 疾風迅雷への高い適性(烈剣デュランダルの武器錬成効果)
  • 高い魔防
  • 実際安い

烈剣デュランダル

中でも、特筆すべきは烈剣デュランダルの効果でしょう。

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烈剣デュランダル

  • 攻撃+3
  • 自分から攻撃したとき、
    • 自身の奥義発動カウント変動量+1
    • 敵の奥義発動カウント変動量-1
    • (同系統効果複数時、最大値適用)
  • 自分から攻撃した時、戦闘中、速さ+7、守備+10、敵は追撃不可

☆3排出キャラの中で、ここまで効果がテンコ盛りの武器を持っているキャラはそうそういません。それもそのはずで、この烈剣デュランダルは、☆5限定の総選挙ロイと同等のものだからです。効果として、ステータスアップ、柔剣・剛剣相当、キャンセル相当、瞬撃、という実に四つの効果が付与されています。ただし、柔剣・剛剣相当と、キャンセル相当は元のスキルとは効果が若干異なるので、注意が必要です。

烈剣デュランダルの柔剣・剛剣相当の効果:

  • ステータスによる発動条件がない(本家は速さや攻撃による発動条件がある)
  • 受けでは発動せず、攻めでは必ず発動する(本家は受けでも発動する)
  • 敵の反撃でも発動する(本家は自分の攻撃のみ発動する)

烈剣デュランダルのキャンセル相当の効果:

  • ステータスによる発動条件がない(本家はHPによる発動条件がある)
  • 受けでは発動せず、攻めでは必ず発動する(本家は受けでも発動する)

微妙に発動条件が異なりますので、本家の柔剣・剛剣やキャンセルと同じ感覚で使うとカウント計算が狂います。キャンセルを持っているから巨影討滅戦でも使えるかなと思って使ってみると、烈剣デュランダルのキャンセルは受け時には発動しないので、あまり向いていません。

疾風迅雷の適性

疾風迅雷の適性では、ティバーンが筆頭に上がりますが、正直なところティバーンとすらも競合しないのではないかと思います。例えば、ティバーンは獣・飛行なので、化身状態でないと3距離移動ができません。騎馬であるエリウッドには、配置に気を付けなくても3距離移動を実現できるという優位性があります。また、エリウッドは微妙に高い魔防を誇っています。騎馬で突出して万が一、討ち漏らすような場合でも、案外しぶとく生き残ってくれます。つまり雑に扱っても思ったよりも大丈夫です。これも、ティバーンにはない特徴です。そして何よりも、安い。無課金でも余裕で10凸できるでしょう。そもそも、私はティバーンを持っていませんから、疾風迅雷エリウッドは唯一無二の存在です。流石に素のステータスでは、エリウッドはティバーンに敵いませんが、そこは限界突破でカバーしましょう。

エリウッド HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 39 31 30 23 32 155
ティバーン HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 41 38 31 34 18 162

スキル

前述の通り、烈剣デュランダルの効果が高く、エリウッドの地の素材だけで充分整っているので、スキル構成はほぼ自由になるのが、エリウッドの強みです。高いスキルを継承するもよし、安いスキルでも十分です。烈剣デュランダルの効果や騎馬という移動種も考えれば、受けではなく攻めの構成が適しているのは言うまでもないと思います。最もお手軽な鉄板スキルは、鬼神飛燕の一撃などの一撃系スキルでしょう。疾風迅雷の効果を最大限引き延ばすのであれば、速さを上げたほうが使いやすそうです。

評価

とある理由で食わず嫌いをされていると一部界隈では評価されているエリウッドですが、その強さと便利さを頭で理解しているのと、実際に体感するのでは天と地の差があります。無課金ならば間違いなくエース候補になります。また、2020年4月25日からは神装エリウッドがリリースされますので、食わず嫌いされていた人が、大量に使いだす可能性もあります。なにせ、神装は総合ステータスが+10されるので、それこそティバーンを追い抜くステータスになります。神装でなくても、十分な使い勝手がありますので、食わず嫌いをするのは勿体ないです。この機に育ててみてはいかがでしょうか。

【読書感想文】重耳

中国の春秋時代と言えば、周が東西に分裂してから、晋が三国に分裂するまでの時代を指す。と言っても、すぐにピンとくる時代ではない。何しろ西暦にして紀元前七世紀のことである。二千七百年前の人間の興亡など気が遠くなるというものである。春秋時代の前代を西周と呼び、次代を戦国時代と呼ぶ。この戦国時代の覇者が秦の始皇帝であり、歴史は前漢劉邦に繋がっていく。ここまで時代が下ってようやく、漫画『キングダム』を始めとした馴染みが出てくる。

物語の時代である春秋時代について、もうすこし紹介しておこう。春秋時代は、周という国が中華圏を統一していた。統一と言っても現在の中国大陸全域を統治していたのではなく、黄河流域を中心に点在する都市国家によって、封建制のもと統治が行われていた。周の歴史は、西周の時代も含めると片足が伝説の中に埋もれていて、その始まりは定かではない。紀元前11世紀に武王・姫発が、暴虐を極めた殷の紂王を討ち、周を建国したのが始まりである。時代が下るにつれて、周の権威は衰えるばかりで、諸侯が領土と権勢を争って戦争を絶え間なく起こした。実力を失っても名望を持っていた周が、諸侯に対して一定の影響力を持っていたのが春秋時代であり、周の権威が完全に失墜し、諸侯が王を自称したのが戦国時代である。

この物語の主人公である重耳(ちょうじ)は、この春秋時代の大国、晋の公子である。重耳には多くの兄弟がいたが、特に兄の申生(しんせい)と、弟の夷吾(いご)の二人は、重耳と合わせて引き合いに上がる。物語は典型的な貴種流離譚である。父である詭諸(きしょ)の老齢に伴って、晋の公室に驪姫(りき)の乱と呼ばれる後継者問題が起きた結果、申生は廃嫡されたのち自殺を命じられ、重耳と夷吾は亡命を余儀なくされる。重耳は亡命したとき四十三歳であったが、こののち十九年間の放浪生活を経たのち、祖国に君主として帰還し天下の覇権を手にした。これだけでも、重耳の偉業が良く分かる。重耳は後に春秋五覇の代表格とされる。

驪姫の乱という最大の苦難に当たって、三人の兄弟がとった対応が三者三様であったため、その因果応報を教訓とし、君主への諫言としても引き合いに出される。歴史小説をよく読む人は、重耳の名や、その触りを知っていることが多いかもしれない。

申生の気性は、清廉潔白であり、人として汚い部分を持たず、孝行者であり、ただひたすらに人格者であった。それゆえに朝廷内で、最も衆望を集める存在であった。しかし、人格者であるがゆえに、父からの寵愛が消え、陰謀の魔の手が迫っても、反乱を起こすこともなく、亡命することもなく、自殺することになる。彼が、陰謀の魔の手を予知していなかったわけではない。彼の臣下は、こぞって反乱や亡命を勧めた。しかし、申生は何もしなかった。自分の正当性を、ただ神の判断にゆだね、誹謗中傷に対して自己弁護することもなく、無抵抗を貫いたのである。

夷吾の気性は、才気煥発であった。若くして機知に豊富であり、その分かりやすい優秀さから、申生の次に衆望を集めた。長兄の申生が自殺し、次兄の重耳が亡命すると、みずからも梁へと亡命した。ただし、亡命先が重耳とは異なる辺りに、彼の意向が読み取れる。後に、晋国内の混乱を収めて重臣の里克(りこく)によって迎えられると、それを断った重耳とは対照的に、晋へ帰国し晋公に上った。ただ、その政治は酷薄であり、里克ら重臣の弾圧や、亡命中の重耳の暗殺を謀るなど、才気の下に隠れた小心さが見え隠れする。対外的にも失敗が続き、秦との戦いに敗れると、太子の圉(ぎょ)を人質に出さざるを得ず、秦に対して事実上の従属を強いられた。

重耳の気性は、とらえどころがないというのが率直な表現かもしれない。見方によっては愚鈍にも見えるその性格ゆえに、若いころは特に、三人の公子の中では、もっとも評判が立たなかった。しかし、その器の見えぬ器量ゆえか、重耳のもとには人材が集まり、名声は徐々に上がった。長兄の申生が自殺すると、縁類である北狄の国に亡命する。弟の夷吾が晋に返っても、一貫して帰国せずに放浪した。弟の夷吾が亡くなると、その失政の反動もあって、晋国内の賛同と、秦の後援を得て、ついに、晋公として祖国に帰還する。このとき、重耳は既に六十二歳であった。

申生、重耳、夷吾は、いずれも将来を嘱望された優秀な公子であり、三人は直接争うこともなかったが、結局、晋公として最後に覇権を握ったのは重耳であった。三人からどのような教訓を得るかは、人によって異なるだろう。申生のように人格の善性だけでは、世の中の逆境を乗り切れない。時には毒をもって毒を制すことも必要である。一方で、夷吾のように才能だけで、その内面に善性を欠くようでは、人心は得られず失敗する。文質彬彬という言葉のように、人格の善性と、才能の発露が程よく調和して、初めて重耳のように至るのかもしれない。その重耳が若いころはいたって評価が上がらなかったのだから面白い。

三人の公子は、その結末を置いておけば、いずれも優秀な人物であることに変わりはない。公子たちが優秀であったのは、天性ではなく、その周りの臣下たちが優秀だからであった。そして、優秀な臣下が晋という国に集まったのは、重耳たちの祖父である称(しょう)が類まれな名君だったからである。

称の言葉はよく心に響く。

申生の天性など、はっきりいえば、どうでもよいのだ。明君になれるかなれないかは、師と傅しだいよ。わしの人のよさはな、こういうことを、いまここで汝に頼むところにある。(中略)こういうことは、死ぬまぎわに頼むものよ。さすれば、汝は断れなくなる。が、わしはみたとおり元気そのものだ。断りやすかろう。考えておいてくれ。 上巻、p78

これは、狐氏の賢人と尊称された狐突(ことつ)に対して、生まれたばかりの孫である申生の師になってほしいと頼んだ時の、称の言葉である。物語としては、狐突にはこの申し出を断りたい理由があるのであるが、重要なのはその理由ではない。私が注目したのは、わざわざ断りやすい状況を作って、自分の要求を伝えた、称の人格であった。称と狐突の関係は主君と臣下の関係である。いうなれば、称は狐突に頭ごなしに要求を命じることもできるし、用意周到に断りにくい状況を作って要求を伝えることもできる。ところが、称は狐突に対して交渉の小技を弄すのではなく、ありのままの希望を本心として伝えた。称と狐突は、単なる主従関係、利害関係ではなく、互いにその人格に対して敬意を持っていた。

私は、この称の言葉に深く感じ入るとともに、私自らも、人への要求を伝えるときは断りにくい状態を作らないようにしたいと思うのであった。何故ならば、私自身も時に、人から断りづらい状況下で要求を伝えられることがあるからだ。私は、そういう時、残念ながら、そのような人とは長期的な関係を維持するのは難しいかもしれないと毎回思う。しかし、称と狐突の関係を見てみれば、なにを隠そう、私には単純に敬意が足りず、また尊敬もされていなかったのだということが分かるのである。ただただ反省するばかりである。

称と、重耳は名君であることに異論のある人はいないであろうが、称の子であり、重耳の父である詭諸は暗君と評価されがちなのが歴史の皮肉である。詭諸は武勇に優れて、周辺諸国を次々と滅ぼしたが、晩年は愛妾の驪姫の讒言に踊らされ、その治績を汚してしまった。なにしろ、詭諸は父親の妾にすら手をだす、単純な欲求の持ち主であった。その単純さは、こと軍事には向いていたが、政治、外交には不向きであった。称は詭諸の晩節を知る前に世を去るが、生前、いつしか称が、子である詭諸の器量の限界を受け入れたとき、汝は地味な花になれと言い、器量いっぱいに生きよ、と念じるのであった。

気付いてみれば、『重耳』の物語は親子三代の物語なのである。この三代の中で、不思議なことに私が最も共感したのは、詭諸であった。それは、三代の中で詭諸がもっとも不肖だからなのか。称に父性を多分に感じたのであろうか、器量いっぱいに生きよ――それは、私に言われたような気がした。

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

依存されずに貢献するにはどうしたらよいか

なぜ貢献すると、依存されるのか

仕事の本質は、相手に出来ないことを代わりに請け負うことである。できない理由は、それをやるだけの技能や、資本、時間を持っていない、などが挙がられる。それをおカネの力で解決しようというところに、仕事が発生する。

したがって、仕事を請ける側は、相手ができないことをやることによって、相手に貢献し対価として報酬をえる。仕事を請けた以上、貢献する強い動機が、仕事が受けた側にはある。ところが、この強い動機ゆえに、相手ができないことを先読みしすぎて、相手がやるべきことまで請け負ってしまうと、相手の自立性を奪い、相手から依存されることになる。こういったことは、契約などの形式的な範疇を越えて暗黙的に行われるから、関係は一層難しくなる場合が多い。

相手から信頼されるのと、相手から依存されるのは似ているようで違う。貢献すればするほど、相手からの信頼が高まると同時に、依存のリスクも高まっている。自分の貢献が相手の自立性を突き破っているかどうかは、自分では明確には分からない。依存のリスクの高まり方は相手の自立性しだいで、それ自体は私たち自身が制御することはできない。言い方を変えると、依存されやすい人は、信頼を得やすい優秀な下地を持っている人ともいえる。

貢献していると依存されるのは、本質的なもののように思える。

いつか必ず届く依存のメッセージ

貢献していると、いずれ依存されてしまうのであれば、依存されずに貢献するにはどうしたらよいか、という問いは早くも的を射ていないことが分かる。問題なのは、相手から依存されないことではなく、相手からの依存をどうコントロールするかということになる。

それは、相手からの依存的な要求に対して、自分のルールに従ってノーということである。

上述の通り、相手から依存的な要求が発せられるのは、自分の貢献が相手の自立性を侵しているからである。そもそも、相手から依存的な要求が発せられないことが理想だが、自分の貢献が相手の自立性をどこで侵すかは分からないのでその実現は難しい。相手の心の中を探ることはできないので、コミュニケーションをもってその境界線を見定めるしかないが、そのコミュニケーション自体が相手の自立性を侵すかもしれない。

だから、私たちは依存的な要求に対して、ノーと言うしかない。でも、私たちはノーと言うのが怖い。

ノーと言うルール

相手から依存されたときにノーと言うルールをどうやって決めるか。このルールはおそらく一般化できないのではないかと考えている。ルールは自分と相手の人間関係だけに特化して成り立ち、ありとあらゆる人間関係に当てはめることのできるルールは無いのではないかと思う。私自身も振り返ってみると、ノーと言わなくてもよかったと後悔する場面があれば、ノーと言わなくてはならなかったと後悔する場面もある。これは人間関係ごとに存在している理想点へと、試行錯誤しながら収束させていくしかない。

ノーと言うルール、つまり収束させる理想点を一般化できなくても、収束させる方法を一般化することはできるかもしれない。この方法が正確なものであれば、私たちは限りなく少ない試行錯誤で、ノーと言うルールの理想点に到達することができる。

ノーと言うリスク

これは単純に仕事を失うリスクである。プロセスに目を向けて言うと、相手の信頼を失うリスクである。私たちがノーと言うのが怖いのは、積み上げた信頼を崩したくないからである。

実は、ノーと言って信頼を失うケースは少ないのではないか? 確かに、自分の都合だけを押し通すために、自己中心的にノーと言い続ければ、確実に相手からの信頼を失い、仕事を失う。相手に貢献していないのにも関わらずノーと言えば当然の結果である。しかし、十分な貢献していれば、その中で一度だけノーと言ったところで、信頼を失い仕事を失うことは無い。十分な貢献をしているのにもかかわらず、ノーと言った結果信頼を失うのであれば、相互に貢献に対する認識の齟齬がある。相手が単純に恩知らずなだけの場合もあるかもしれない。

依存性の高い相手にノーと言わずに長期的な関係を構築するのは無理だと考えたほうが良い。ノーと言うのが遅れると、ノーと言う言葉の意味が相手に通用しなくなる。今までやってきたことをやらないというのは、依存性の高い相手には受け入れにくい。つまり、最初が大事である。納得しにくい依頼を受けたとき、一回だけだったらという楽観的な考えや、あるいは一回やってみて考えようという向上的な考えは、相手の依存性を悪化させる。

ノーと言う vs 仕事を失う、という天秤

売上に余裕があれば、ノーと言うリスクは怖くない。幸せはお金で買えるという考え方は、これを根拠とする。かなりパワープレーだけど、これほど強力な方法はない。金銭的に余裕がないというのは、単純に手札が少ないことを意味する。手札が少ないと、悪手でしかないカードを切らざるを得ない場面が出てくる。交渉には、BATNA(代替の手段) や、RV(撤退の基準) という基本概念があるが、これらは、手札を増やすこと、あるいは手札が豊富でなくてはならないことを意味している。一方で、どんなに手札が多くても、プレーヤーである私たちのプレイスキルが伴わなくては、全く意味がない。幸せはお金では買えないという考え方は、これを根拠とする。貴重な手札をどぶに捨てるような、判断能力しかなければ、せっかく手札を豊富に持っていたとしても元も子もない。

まとめ

  • そもそも、依存性の低い人をお客さんとする。
  • 一方で、相手を依存的にさせている自分の責任もある。相手の依存性を高めないように、相手の自立性を侵さないように貢献する必要がある。
  • しかし、貢献しているうちに、相手の依存性を高めてしまう傾向は避けきれない。相手の依存的な要求に対しては、ノーと言う。

相手の目線で考えると私自身も含めて、自分が依存していることに気付いている人は少ない。私も仕事を失いたくはないから、その気持ちがお客さんへの依存に繋がる。この仕事を失ってもやっていけるという状態でないといけない。一方で、お客さんも、私がいなくなって業務が成り立たなくなるようでは、お客さんが私に依存していることになる。いなくなられたら困るけど、なんとかなるくらいでないといけない。いろいろ、考えてここまで書いてきたが、結局のところ、自分を自立させ、自分がなにものにも依存しない、というところに行き着くのかもしれない。

作り逃げを断罪する気にはなれない

最近は、私も技術者としての経験値が増えてきたせいか、あるいは単に年を重ねたせいなのか、システム開発に関しては、どこか諦めのような感覚も強まってきていて、正義を振りかざすシステム開発論に、反応することが少なくなってきました。良いシステムを作ろうという思いは当然ありますが、良いものを作ることを目指すことよりも、システム開発を行うチームや、組織という主体を良くしよう、という考えに切り替わりつつあります。つまり思考が人間関係ファーストになりつつあります。システム開発は、それを使うエンドユーザーの為のものですが、同時にそれを作る私たちの為のものでもあります。

でも、以下のような記事はやっぱり技術者としての琴線に触れます。

xtech.nikkei.com

novtan.hatenablog.com

私が作り逃げに対して、最も思うところは、表題にもある通り、同じ技術者として作り逃げを断罪する気にはなれない、というものです。作り逃げをする技術者、人、組織、会社ばかりに着目して、なぜ作り逃げが発生するかという仕組みに着目しないと、作り逃げを断罪している自分自身が、いつか必ず作り逃げをする側になりますよ。

これが、私が一番言いたいことです。

作り逃げが発生するのは新規開発と捉えて差し支えないですよね。システムの新規開発とシステムの引継ぎでは、どちらの方が難易度が高いかというと、それは新規開発なのは明確だと思います。求人でも、引継ぎ案件よりは、新規開発案件のほうがスペックを求められます。引継ぎをした人からは、新規開発をした人の当時の事情が見えないことが多い。それは当然です。新規開発の難易度のほうが高いのですから。新規開発をする技術者は、作り逃げを引き継いだ経験が既にあることが多いです。なぜなら、ひどいシステムであるほど技術者が定着しないので、引継ぎが何度も発生するからです。システムの作り逃げを断罪したくなるような、悶々とした状況を抱える機会のほうが、作り逃げが発生しかねない新規開発よりも、多い傾向にあります。良いシステムは技術者が定着してしまうので引継ぎが発生しないのです。

作り逃げが発生するのには、何かしら理由があります。思考停止したひどいコードがあったとき、それはより重要なことに思考を回すために、あえて思考停止せざるを得なかった結果かもしれません。コーディングの工程なのに、要件定義がフワフワしているのはよく見る光景です。ドキュメントがないのは、作ろうと努力したけれども、お客さんを説得させられず、予算が通らなかった結果かもしれません。安いものに飛びつきがちなのは、古今東西に共通するお客さんの性です。

中には、自己中心的で無責任な技術選択をする技術者がいないわけでもありません。しかし、自己中心的で、無責任に見えるような、技術選択でも、せざるを得なかった外的要因が、全くなかったとは言い切れません。

システム開発は本当に難しいです。システムがつつがなく出来上がり、運用できるかどうかは、ベンダーの問題もありますが、お客さんがお金を持っているかという問題に帰着することが多いです。私は、安定した開発プロジェクトに携わった経験がありますが、振り返ってみるとお客さんがお金を持っているという共通点があります。予算が豊富でもシステム開発は失敗する可能性はありますが、予算が不足して良いものは絶対に出来ないです。システム開発はほとんどの場合、それを使うお客さんの売り上げに影響しません。B to B の業務システムならなおさらです。システム開発は正のインセンティブ(売り上げがどれだけ上がるか)ではなく、負のインセンティブ(業務が正常に回るか)で動いています。システム開発がコストだと捉えられ、予算が逼迫するのは当然の結果でもあります。事実、システムは人件費というコストの王様とも言えるパイを切り崩してきたにすぎないのですから。そして、システム開発自体が人件費のかたまりです。

システム開発は作って終わりではないという点において、ほかのものつくりとは、一線を画しています。もはやシステム開発は製造業ではなく、サービス業と言っても過言ではありません。にも関わらず、システム開発における契約体系が一括請負であれば、構造的に納品は作り逃げになります。

システム開発の特徴は、

  • 言うは易く行うは難し(大体の技術者はどうすべきかなんてことは分かっている。そのべき論を具体的な行動として実行できる人は少ない)
  • 安かろう悪かろう(コストのほとんどが人件費である以上、安くても良いものを機械的に実現できない。それができるとしたら属人化というリスクが台頭してくる)

考えれば考えるほど、システムの「作り逃げ」を許すな、なんて断罪は恐ろしくてできない。私たちが注視しなくてはいけないのは、作り逃げ自体ではなく、作り逃げが生まれる仕組みについてですよ。

TOLVE のブックカバー asoboze

私は、本は買うよりも図書館で借りることの方が多いので、文庫本の場合はブックカバーを使うのが習慣になっています。借りているものは大事に扱わなくてはいけませんからね。今まで私は、ブックカバーに関してこだわりを持っておらず、Amazon のロゴが入った合皮製のブックカバー使っていました。ただ、合皮というのは、経年劣化が激しく、使い込むほど、ボロボロになって裏地があらわになります。その度に、買い替えてきたのですが、数年前から使っている今のブックカバーも例にもれずボロボロになってきたので、買い替えを検討しました。

長く使うものであり、毎回ボロボロになる合皮製のブックカバーに嫌気がさしたので、今回は革製のものを買ってみようと検討しました。選んだのが、TOLVE本革ブックカバーです。今回の記事は、このブックカバーを少しばかり使ってみたレビューになります。ご購入を検討されている方はご参考ください。

購入したのは、6色あるうちのヴィンテージブラウンです。

使ってみて、特筆すべき点は、以下の三点です。

  • 価格と本革の質のバランスが良い
  • しおりは付いてない
  • 対応する文庫本の厚さは21mm

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TOLVE ブックカバー

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しおりと、折り返しはない

お手頃価格なのに革の質感が良い

税込み2730円という、本革としては決して高価ではない価格帯でありながら、質感は思ったよりも良いです。私は、靴、鞄、財布、手帳に革製品を愛用していますが、それらと比較してみても、値段相応以上の質を感じました。革製品はある程度、長く使って分かることもあるので、その品質について一概に断定することはできませんが、第一印象は非常に良いです。

ただし、一点だけ付け加えるとすれば、革の質が良いだけに、しっとりと滑らかな肌触りなので、手の中で若干滑りやすい点が挙げられます。好みなどの個人差に左右されるところですが、合皮、ビニール、布製のほうがホールド力は良いかもしれません。私の場合は、滑りやすいと感じつつも、慣れの問題の範囲かとも思っています。

しおりが付いていない。

ブックカバーにはしおりとして使える紐が付属しているものがありますが、TOLVE のブックカバーにはしおりがありません。

非常に些細な違いなのですが、面白いことに人間の行動は道具の小さな違いによって大きく変わることがあります。紙のしおりだと、どのようなことが起きるかというと、落として無くす、とっさに電車から降りるときに挟み忘れる、挟んだまま本を図書館に返却する、そもそもしおりを持ち忘れる、ということがあります。ブックカバーにしおりが付いていると、上記の問題はほぼ解決します。お裁縫の心得がある人は、紐を自分で縫い付けるのもアリだと思います。ブックカバーとして致命的ではないのですが、ここが改良されると完璧だと思います。

折り返しがないので、分厚い文庫本は入らない。

ブックカバーには折り返しがあるものがあります。

これは、文庫本の厚さに幅広く対応するための機能なのですが、TOLVE のブックカバーには折り返しがありません。開いて裏を見てみると左右が同じ構造をしています。

販売サイトでは厚さ21mmまでと表記されており、これよりも厚い場合はブックカバーに収まりません。私が手元にある文庫本を探したところ、『ハイペリオンの没落・下巻』がもっとも分厚く、その厚さは25mm強でしたが、察しの通り入りませんでした。

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厚さ 25mm の文庫本は収まらない

市販されている文庫本のほとんどはカバーできるものと思いますが、中には分厚くて使えない場合もありそうです。厚さ21mmまでという仕様が現実的かどうかは、今後見極めていきたいと思います。

いずれにしても、愛用に足る良品です。使い込むことによって、味わいがどう出てくるかが楽しみです。

【FEH】リリーナ育成計画

育成の背景と目的

主に、フレンドダブルと、縛鎖の闘技場で、アタッカーとしての役割を担うのが目的です。以前、紹介したニノの赤魔法バージョンになります。

yayoi-tech.hatenablog.com

紹介

例のごとく10凸。

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リリーナ「美しき盟主」

選定理由

  • 低レアであること(☆5限定や、聖杯配布ではないこと)
  • アタッカーの素質を持っていること

低レアの歩行、赤魔では、リリーナ、ソフィーヤ、マーク、サーリャ、レイ、ヘンリーの6人がいます。この中で特に攻撃的なのがリリーナと、サーリャです。リリーナの特徴は素で37という高い攻撃で、サーリャの特徴は素で34という高い速さです。アタッカーとして手軽に育成するのであれば、このどちらかが候補にあがります。

リリーナ

HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 35△ 37 25△ 19 31 147

△:得意

フォルブレイズ
  • 威力:14
  • ターン開始時、敵軍内で最も魔防が高い敵の魔防-7(敵の次回行動終了まで)
  • 自分から攻撃した時、戦闘中の攻撃+6

微妙に魔防が高いのが特徴ですが、武器の効果の「鬼神の一撃」と噛み合わず、若干ミスマッチになるのが残念です。受けとしてビルドすることは無いので、高めの魔防は無駄になりがちです。いざという時に、ある程度の耐久力はあると考えることにしましょう。

悩むのは個体値に、攻撃↑と速さ↑のどちらを選ぶかというところでしょう。速さ↑を選ぶ理由は、速さを得意としているので上がり幅が大きいことと、どのみちブレードほどの破壊力は無いので、一発の威力を高めるよりは、追撃の可能性を広げたほうが使い勝手が良いという点です。相手の追撃の可能性を狭められるので、いざという時の耐久力にも寄与します。ただし、リリーナ自身の元々の速さは高くないので、いっそのこと捨ててしまって、一発の威力に賭ける考え方もあります。その場合は、攻撃↑を選択することになります。

どちらが正解ということではなく、最適な個体値はプレイスタイルや運用目的によるでしょう。

攻撃の理想値は、37 + 14 + 7 + 6 = 64 になります。これがバフなしで単独で出せるのですから、使い勝手は良いはずです。

サーリャ

HP 攻撃 速さ 守備 魔防 総合
☆5 Lv.40 基準値 39 32 34 23 20 148

得意なし

サーリャの禁呪
  • 威力:14
  • 自分が受けてる強化の合計値を攻撃に加算
  • 周囲2マスの敵は、戦闘中、攻撃、速さ-4

まず、ブレード系の効果が単純に強力です。ニノと違って、武器効果に自己バフはありませんが、何らかのバフを貰えば攻撃に不足を感じることは無いでしょう。ただし、最近は凪を代表とする、バフを無効化するスキルが浸透しています。凪スキル持ちには思うようにダメージが乗らない可能性があります。

攻撃の理想値は、32 + 14 + 4 = 50 になります。これにバフによるブレード効果が乗ることが前提になります。

サーリャの面白いところは FEH で初めて実装された紋章系のデバフを持っていることです。この恩恵はサーリャ自身だけでなく、周囲の味方にも影響を与えます。

単独で高い攻撃能力を持っているリリーナと、味方からの支援を前提とし味方も支援できるサーリャ、というのがそれぞれの特徴となります。

今回はリリーナを選択しました。ブレードはブレードの申し子ともいえるニノを既に育成済みなので、違った毛色が欲しくなりました。

スキル

  • フォルブレイズ(特殊錬成)
  • 守備の応援
  • 月虹
  • 獅子奮迅3
  • 攻め立て3
  • 魔防の威嚇3

獅子奮迅と攻め立ては、アタッカーの定番構成です。

スキルは一考の余地がありそうです。私の場合、速さ↑を選んで10凸していますが、それでもなお、速さの低さに不満を抱きます。この場合は、飛燕の一撃で Aスキルと聖印枠を埋めて、速さを徹底的に上げたほうが使いやすいのではないかと考えています。また、Cスキルの魔防の威嚇はほとんど意味をなしていません。相互鼓舞や波が欲しいと思うところです。高めの魔防を活かして、謀策というのもアリです。

評価

決して弱くはないし、強くて、使い勝手も良いです。ですが、どうしても比較してしまうと、ニノには劣ります。というよりも自己バフでブレードを使えるニノの使い勝手が良すぎるとも言えます。ニノの場合はブレードを無効化されても、持ち前の速さでごり押ししてしまうこともあります。リリーナの場合は、環境に左右されない自立した高い攻撃能力があるとはいえ、やはり追撃をとれない速さの低さに不満が集まりがちです。この点では、個体値に攻撃↑を選んで、攻撃に特化したスキル構成にするのは一理あります。あるいは、私のように速さ↑を選択している場合は、飛燕の一撃などで徹底的に速さを補強したほうが良いかもしれません。

一方で、改めて考えるとサーリャの期待値もかなり高いです。武器効果のデバフはサーリャ自身に必ず効果があることを考えれば、その速さはニノよりも高くなります。10凸前提なら、かなり多くの敵に追撃を取れます。

私の場合は、霧亜が既に兵舎にいるので、赤魔・歩行の活躍の機会が奪われがちというのもあります。誰を育成するにしても、自分の兵舎をよく見て競合のいないキャラを育成することをおススメします。

【読書感想文】草原の風

私は歴史小説が好きだ。その面白さを最初に教えてくれたのは吉川英治三国志であるが、その三国志を通じて知ったのが宮城谷昌光であった。歴史の面白さは、好きな時代、例えば三国時代から派生して、近隣の時代の歴史を徐々に知っていくところにある。本作の時代背景は、三国時代のおよそ二百年前、劉邦が建てた漢という国を再興した劉秀なる人物の物語である。

漢という国は、王莽という人物によって一時中断されたのを契機に、前半を前漢、後半を後漢と呼ぶ。前漢後漢を合わせて治世は四百年に渡り、これは中国史上で最初の大王朝となった。この後漢の末期が三国時代と重なる。

王莽は前漢に代わって新という国を建てたが、あまりにも政治的な失敗が続いたため、中国では各地で反乱がおこった。この反乱に乗じた一人が劉秀である。劉秀は前漢の皇族の末裔ではあったものの、既に家勢は衰退して自身は無位無官であった。滅亡した王朝の復興を唱えて天下統一を果たしたのは、中国史上で劉秀だけである。

中国の歴史では王朝を建てた皇帝は数多くいれど、劉秀の存在はその功績に比べてかなり目立たないほうである。その理由は大きく二つある。ひとつは、劉秀が皇帝になるまでの過程には多くの障害があったとはいえ、人生全体を見渡してみると、波乱万丈というよりはつつがなく成功して人生を終えた印象が強いからである。三国志のような視点と同じ視点で劉秀という人物を見てしまうと、物語性に魅力を欠いているのである。どれだけ心血を注いでも北伐を果たせなかった諸葛亮には、神格じみた魅力が付与される。劉秀が苦労人であったことは間違いないが、その苦労人が苦労のすえ成功を収める道筋に魅力を付与するには、また別の視点が必要である。そしてもうひとつは、何を隠そう劉秀自身が目立たない性格であったからである。

史書には「仕官当作執金吾 娶妻当得陰麗華」と残っている。日本語に訳すと「仕官するなら執金吾、嫁を娶らば陰麗華」という意味になり、さらに超訳すれば、「将来の夢は警視総監! 陰麗華ちゃんは俺の嫁!」 これが若かりし日のオタク、劉秀の呟きである。執金吾は首都の警察業務を束ねる武官でありながら服装が華美であり、あこがれやすい官職であった。陰麗華は劉秀の地元では有名な美少女であった。このどこにでもいるような呑気なオタクが、執金吾を飛び越えて皇帝となり、憧れの陰麗華を皇后とするのであるから、史書の言葉はどこまで後付けなのか疑いたくなるものである。

一方で、劉秀は人の風上に立つべくして立った人間である。三十一歳という若さで皇帝に即位し、在位は三十二年に及ぶ。その後、二百年に及ぶ後漢王朝の礎となった。これは、劉秀という人物に多くの優秀な人物が集まったことの証拠である。劉秀が人の風上に立ちうる人でなければ成し得ないことだ。

そんな劉秀を本作はどのように描いているのかという疑問に対しては、実際に本作を読んでもらうことにしよう。

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

以降は、私が読んで考えたことの抜粋である。

なんじは大悪人の面相をしているな。多くの人を殺しても偽善の仮面がはがれるのほどの大悪人だ。 上巻、p138

長安留学中の劉秀が、学友の彊華から言われた言葉。劉秀自身が偽善ほど質の悪いものはないと思っているがゆえに、劉秀はこののち数日間鬱悶することになる。

彊華は一言でいえば変人であり、学舎の中で孤立した存在であった。学生はみな彊華から距離を置いたが、劉秀だけがただひとり彊華とまともな会話をした人物となった。そんな劉秀を彊華もまた変人と見たのであろう。彊華は内なる劉秀の感想を、率直に劉秀本人に突き付けたのである。劉秀には人の言葉を聞くという性質がある。劉秀は彊華の言葉に悪意を感じ取らなかった。多くの人は人の話を聞いているとき、その話の内容について考えているのではなく、次に自分が何を話すかを考えているという。劉秀は自分が話す言葉を考えるのではなく、人が話した言葉を考えているのであった。

人は何かを失えば、何かを得られる。多くのものを両手で抱えて生まれ育った者は、それらを落とさぬようにするだけで、あらたなものを得ることはできない。そう思えば、――この両手は、天を支え、地を抱けるほど空いている。 上巻、p177

実家と養家を去り、宗家のもとで暮らすことになったとき、孤独感を強め自分の未来の暗さを予感した劉秀の心情。

世は王莽政権の末期であり、各地で反乱がおこり、社会全体の見通しは暗くなっている。いっぽう劉秀個人に視点を戻しても、父劉欽は南頓県の県令であったが既に亡く、自分自身は無位無官のままである。ただし、劉秀には逆転の発想という、人生哲学ともいうべき思考の柱があり、このときも、持つ者は失うだけであり、持たざる者は得るだけだと考えた。

劉秀は稼穡の達人でもあった。稼穡とは畑仕事のことであり、劉秀は良く働いた。率先して働く姿勢は生涯かわらず、そこに人は惹かれて、彼のもとには優秀な人が大勢集まった。そして人を用いることに無駄がなく、自然を相手に無駄なことを行わない稼穡が常に劉秀の根底にあった。

良いものさえ作れば、かならず売れる、というのは妄想にすぎません。作るより、売るほうがむずかしいといえる。作ったものを、広く遠くまで人々に知ってもらうには、そうとうな工夫が要ります。 上巻、p298

長安で劉秀に薬売りを教えられた朱祜が、その後順調に商売を続けていることに対して劉秀が言った言葉。それに対して朱祜は「文質彬彬ですね」と応えている。

文質彬彬とは外見と内面が程よく調和していることを意味する。なにを外、なにを内とするかによって、人や物にとらわれず広く当てはめることのできる言葉である。劉秀は良いものを作れば売れるという考えは妄想に過ぎないと断言する。私は心が痛い。世の中を見渡してみると、確かに必ずしも良いものが売れているわけではない。広く知ってもらえたものが売れているのだ。

紊れた服装は、わざわいを招く、<中略>正しい服装は、祥祉を招くであろうよ。 中巻、p244

劉秀たち反乱軍の行軍をみた河南群の沿道の人々の感想。

劉秀たちは王莽政権に対する反乱軍であるがゆえに、軍装は乱れがちであった。そのなかで劉秀だけが、漢の伝統的な服装を心掛けた。その行軍を傍から見る庶民の中には学のある者もいる。劉秀は細かい気遣いで輿望を得た。

ここにも文質彬彬の言葉が当てはまる。反乱軍は勝利し続け実力を伴っていたからこそ、正しい服装に輿望が集まった。実力が伴わなければ、高級ブランドを身にまとっても虚勢にしかならないのは現代にも通じる。

王莽、王朗などは、汚れた時の化身であるといってよい。これから劉秀がなすべきことは、穢悪な時を滌い清めることであろう。 下巻、p66

人の成否は徳の薄厚にありと鄧禹が述べたとき、王莽や王朗を憎む自分の徳や慈悲は何だろうかと自問したときの気付き。

劉秀は、悪政を敷く施政者を憎むのではなく、悪政を敷く施政者を生み出した、時代の仕組みに着目した。

宮室の外にある晩夏の光を、吹き始めた風が揺らしているようである。河北は秋の訪れが早い。光も風も、夏の暑苦しさをまぬかれようとしている。 下巻、p276

皇帝の位につく劉秀の前に彊華が現れたとき、劉秀がまぶしさを感じた情景。

風が光を揺らすとは味わい深い表現である。宮城谷昌光は情緒的な表現を多用する人ではないだけに、この彊華と劉秀の再会が特別なことを思わせる。彊華という人物は史実であり、皇帝即位を躊躇う劉秀に予言書を託したとある。彊華は一貫して、奇人でありながら真実の人であり、彊華がもたらした予言書の信ぴょう性は、そのまま彊華の人間性が反映された。

妄をつかない人の言は、奇言となり、その行動は、奇行となり、その人は、奇人となる。そう想うと、妄には、この世を潤霑させるはたらきがあるのだろう。 下巻、p278

劉秀が学生の頃と変わらない彊華を見て持った感想。

妄は嘘と取って差し支えないだろう。たしかに、世の中のすべての人間関係が、嘘のない正直だけでやりとりされていたら、ほとんどの人間関係は成り立たなくなるかもしれない。相手を傷つけない優しい嘘のような、嘘を特別視した表現もあるが、そんな嘘は何も特別なものではない。世の中に空気のように満ち溢れている。私たちは、息を吐くように優しい嘘を吐いているのだ。