弥生研究所

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ルパン三世 THE FIRST~ブレイク・スナイダー流に解析する物語の構造

物語の管理を主力とする業界では、この本は当たり前の本でもあるらしいです。門外漢の私にとっては、そういった当たり前の本と出会うことも難しかったりするのですが、それゆえにいざ出会って読んでみると、この手の本は目から鱗が落ちるような経験をすることが多いです。

ところで、11月27日、『ルパン三世 THE FIRST』が地上波で初放送となっていました。

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せっかくなので、『ルパン三世 THE FIRST』を『SAVE THE CAT』流に分析したいと思います。

本当のジャンルとは

『SAVE THE CAT』が面白いのは、物語のジャンルに新しい軸を作ったことです。ブレイク・スナイダーはこれだけとは限らないと釘を刺したうえで、以下のジャンルを提唱しています。

  1. 家の中のモンスター
  2. 金の羊毛
  3. 魔法のランプ
  4. 難題に直面した平凡な奴
  5. 人生の節目
  6. バディとの友情
  7. なぜやったのか?
  8. バカの勝利
  9. 組織のなかで
  10. スーパーヒーロー

一般的に、物語のジャンルと言えば、アクション、ホラー、コメディ、SFなど、そういった類のジャンルを思い浮かべると思います。ブレイク・スナイダーが提唱するジャンルは一見、何なのか良く分かりません。しかし、この新しいジャンルで物語を見てみると、思いもよらない二つの作品が、実は同じジャンルということがあります。例えば、『スター・ウォーズ』と『オーシャンズ11』が同じジャンルとは俄かには信じられないことでしょう(ちなみに、両者はどちらも金の羊毛というジャンルです)。

では、今作『THE FIRST』のジャンルは何でしょうか。私はバディとの友情だと考えます。ひとつひとつのジャンルの説明は『SAVE THE CAT』を実際に読んでもらうこととして、バディの友情とは、反発しつつも信頼関係を築いていく過程を物語にしたものです。ルパン三世シリーズはおおむね、バディとの友情を主軸に置きつつ、異なるジャンルを隠し味として加える手法を取っています。ルパン三世が、作品によって印象を異にするのは、隠し味として加えられているサブジャンルが異なるからです。例えば、『ワルサーP38』では、家の中のモンスター、組織のなかで、といったサブジャンルが加えられています。家の中のモンスターというジャンルは、ジョーズやエイリアンに共通するもので、極限の緊張感を特徴とします。『カリオストロの城』は、金の羊毛というサブジャンルが加えられています。カリオストロの財宝を狙ったルパンが得たものは、最終的に財宝ではなく、過去との決別、主人公たちの精神的な成長だけでした。今作のサブジャンルをあえて考えるとすれば、人生の節目でしょうか。リティシアがランベールという養育者から自立していく物語と、今作を捉えることもできます。

主人公は誰か

結論から言えば、今作の主人公は、リティシアです。実はルパン三世シリーズの主人公は、ほとんどの場合ルパンではありません。何故かというと、ルパン三世シリーズは認知度を高めコンテンツとして成熟するにつれて、主人公であるルパンが主人公の役割を全うしにくくなったからです。これは、長く続くシリーズ物の宿命でもあります。この問題の解決策として、ルパン三世シリーズはルパンではなく、ゲストキャラクターに主人公の役割を負わせるようになりました。

では、物語における主人公の役割とは何でしょうか。それは、視聴者に共感してもらうことです。そして、共感してもらうためには、主人公は決定的な問題を抱え、その問題を解決することによって、変化していくことが求められます。問題を抱えず、変化しない登場人物は主人公の役割を全うできません。

今作のルパンは何も問題を抱えず、何も葛藤せず、何も変化しません。これは次元、五右衛門、不二子、銭形をとっても当てはまります。変化すべき対象として捉えられるのは、常にリティシアだけです。葛藤を持つ者だけが主人公となります。

ビートシートに当てはめる

『SAVE THE CAT』ではブレイク・スナイダー・ビート・シートという物語のテンプレートを紹介しています。このテンプレートは、英雄の旅と呼ばれる神話に通じるものでもありますが、その詳細は『SAVE THE CAT』を読んでください。ここでは、『THE FIRST』を実際にビートシートに当てはめることで、物語の展開を分析します。

  • オープニング・イメージ
    • アバンタイトルまで。ブレッソン教授が、娘夫婦に日記を託して自宅から逃亡させる。ブレッソンはその直後に突入したナチス兵たちの凶弾に倒れる。逃亡を図った夫婦もナチスの追跡を受け、カーチェイスのすえ事故死する。生き残ったのはまだ赤ん坊である夫婦の娘・リティシアだけ。追跡者であるランベールも負傷し、リティシアが抱いていた鍵のみを奪って現場から逃亡する。
    • この時点で、登場人物の名前までは明かされないが、主要な人物であるリティシアとランベールは登場している。この事件を発端にしてリティシアには強力な運命の拘束が待ち受けているであろうことを視聴者に予感させる。
  • テーマの提示
    • リティシアは日記を盗む過程で、同じく日記を盗もうとしたルパンと鉢合わせする。「泥棒は嫌々やるもんじゃねぇぜ」ルパンはリティシアを見た直後から、リティシアが本心から日記を盗もうとしていないことを見抜く。このセリフは、序盤だけでなく物語の節目で幾度となく形を変えて表現される。
  • セットアップ
    • 最終的に日記を奪い去ったのはランベールに雇われた不二子であった。盗みが不調に終わったルパンは銭形に捕縛されるが、次元と五右衛門の助けによって解放される。冒頭の日記の争奪戦によって、ルパンシリーズの主要となる登場人物はすべて出そろう。一方、ゲストとなる登場人物も同様に出そろう。ランベールの背後にいるゲラルトと呼ばれる男の存在が明らかになる。
  • きっかけ
    • リティシアとルパンの出会いが、リティシアへのきっかけとなっている。しかし、リティシアは簡単には変化しない。簡単に変化するような変化には意味がないからだ。リティシアはルパンに協力するふりをしてランベールに通じ、ルパンを利用しようとする。
  • 悩みのとき
    • リティシアには、考古学に対する非凡な情熱と才能ゆえに、ボストン大学への進学という夢があった。リティシアは、進学にはランベールの賛同と援助が不可欠と考えており、そのリティシアの思いを逆手に取るランベールは、リティシアの才能を私欲のために利用していた。リティシアもまた、ランベールのために本心ではないことをすることに葛藤があった。世界の何が変化すべきなのか、視聴者は理解する。
  • 第1ターニング・ポイント
    • 日記には、エクリプスと呼ばれるエネルギー発生装置に関する情報が記載されていた。ルパンの助けによって日記を得たリティシアはルパンに銃口を向ける。ルパンはランベールたちに拘束される。しかし、リティシアは、ゲラルトがナチスの復活を目指すアーネンエルベの一員であること、そしてエクリプスをそのために利用しようとしていることを知ると、激しく葛藤する。ゲラルトは真実を知ったリティシアを殺すべく迫るが、間一髪リティシアを救ったのがルパンであった。
    • リティシアはこの第1ターニング・ポイントをもって、ルパンを利用する立場から、ルパンに協力する立場となる。同時に、ランベールの束縛と庇護を受ける立場から、自立した立場となる。この変化は不可逆である。リティシアは、自らが背負っていた運命の拘束を、自らの力で解く第一歩を踏み出した。
    • リティシアが機内からパラシュート無しで追放されるシーンは、閉鎖的な環境から開放的な新世界への変化を象徴している。また、パラシュート無しで飛び込んだ(飛び込まざるを得なかった)リティシアを救ったのがルパンであったことは、リティシアがまだ導き手を必要としていることを示唆している。
  • サブプロット
    • ルパンシリーズにおけるサブプロットは、ルパンシリーズを象徴する掛け合いと取ることができる。ブレイク・スナイダーによれば、サブプロットはロマンスの形を取ることが多いとされ、ルパンシリーズもまた例外ではない。本作のヒロインであるリティシアがルパンにささやかな好意を寄せていることは明らかである。『カリオストロの城』におけるクラリス然り、ヒロインとルパンの関係性はルパンシリーズの定番である。ヒロインとの関係性はルパンだけに止まらない。『燃えよ斬鉄剣』では五右衛門と桔梗がその役を果たした。さらに『炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜』でヒロインの相手役となったのは、なんと銭形であった。
  • お楽しみ
    • 日記を読み解いたルパン一行は、敵を出し抜いてエクリプスが眠るとされる遺跡を攻略する。遺跡内には様々な罠があり、ランベールたちが立ち往生する中、ルパンたちはメンバーそれぞれの活躍によって試練を乗り越えていく。
  • ミッドポイント
    • ルパンたちは、試練を乗り越えた先にエクリプスを発見する。しかし、まさに成功直前というところで、ランベールたちに不意を突かれ、リティシアは捕まり、エクリプスは奪われる。物語の主導権が、ルパンたちからランベールたちへ移る。
  • 迫りくる悪い奴ら
    • エクリプスを起動させたランベールはブラックホールを生み出して、あたり一帯を消滅させる。その尋常ならざる力を得たランベールは半ば狂人となって、ゲラルトの意向すら無視して、自らが世界の王になると言う。ランベールの中の権勢欲と劣等感が、最大に発露するシーンである。
  • 全てを失って
    • リティシアが失ったものはランベールである。エクリプスを止めようとするリティシアに銃を向けるゲラルト。まさにゲラルトが発砲する瞬間、リティシアの代わりに銃弾を受けたのがランベールであった。死に際のランベールの回想には、リティシアを養育した動機は私欲であったとしても、そこには愛が全く無かったわけではないことを表現している。また、リティシアにとっても、ランベールがどんなに非道な人間だったとしても、育ての親であることに変わりがなかった。リティシアは唯一の家族を失う。
  • 心の暗闇
    • ランベールを失い、ルパンたちを失ったリティシアは、ゲラルトにとらわれて、ヒトラーと対面する。失意のリティシアは抵抗空しく監禁され、ヒトラーはエクリプスを使うべくゲラルト共に立ち去る。
  • 第2ターニング・ポイント
    • エクリプスに案内されたヒトラーは車椅子に乗っていたにもかかわらず、おもむろに立ち上がる。驚き不審がるゲラルト。一方で、監禁されるはずのリティシアを監視していたのは、アーネンエルベに変装した次元であった。そしてヒトラーの仮面を脱ぎ去るルパン。絶体絶命、為す術無しの状態から、一気に形勢を逆転させるこのシーンこそ第2ターニング・ポイントにあたるものである。
  • フィナーレ
    • ルパンはエクリプスそのものを消し去るためにブラックホールを発生させる。それを止めようとするゲラルトであるが、手遅れであることを悟ったゲラルトは、ルパンを道ずれにしようとする。ブラックホールが辺りを食らいつくしていく緊張感の中、ルパンとゲラルトは最後の戦いを行い、そしてルパンは勝利する。
  • ファイナル・イメージ
    • 全てが結着しようとする中、ルパンたちを逮捕しようと銭形が動き出す。ルパンは銭形から逃げる最中、一通の封筒をリティシアに渡す。それは、ボストン大学からの招待状であった。もはやリティシアには自らの才能を発揮するにあたって、何の束縛も障害もなかった。

結局面白かったのか

今作『THE FIRST』をビートシートに当てはめてみると、綺麗に当てはめることができます。『THE FIRST』がきっちり映画として成立しているのは、結果的にビートシートに忠実だからでしょう。ただし、面白かったかでいうと、可もなく不可もなくというのが率直なところです。この原因は何でしょうか。

ひとつ目は、リティシアの主人公として求心力の弱さです。上述の通り、リティシアは解決すべき問題を抱えた主人公です。しかし、その葛藤が若干力不足です。リティシアの葛藤は、言ってみれば毒親からの独立です。共感を得やすくはありますが、ルパン三世の物語に組み込むにはいささか平凡に過ぎます。それが、ナチスの復活といった悪と対比されると、主人公の葛藤にしては陳腐という印象になります。

ふたつ目は、悪役が力不足です。ランベールは最終的に世界の王になるとのたまい、狂人じみた悪役を演じますが、それでいながらリティシアへの良心を捨てきれず、悪役に徹し切れていません。ちなみにランベールが葛藤を持っているという意味では、リティシアと役割が被ります。悪役が葛藤を持っていては悪役になりきれません。結局、ランベールは良いヤツでも悪いヤツでもなく、ただの小物として退場することになります。さらに、ランベールを小物せしめているゲラルトも、結局はヒトラーの手下にすぎず、その行動原理は官僚的でカリスマ性は皆無です。視聴者からの同情や共感を一切受け付けない圧倒的な悪の権化が不在なのです。

物語は綺麗にビートシートにハマりながらも、脚本の洗練が足りないために、形式的になっています。もうすこし登場人物(特に悪役)の掘り下げがされていれば、もっといい作品になったのではないかと思いました。

『SAVE THE CAT』を読むことによって、私の映画の見方も少し変わりました。何が面白いのか、何が面白くないのかということに対して、もう一歩踏み込んで分析できるようになりました。『SAVE THE CAT』は物語を商品とする人でなくとも、映画好きの人にはお勧めできる本です。『ルパン三世 THE FIRST』は分析してみるにはちょうどいい作りの映画でもありました。

ルパン三世と言えば、私の心によく残っているのは以下の作品です。

この頃は、録画と言えばまだVHSの時代でして、映像が劣化するくらい何度も見返した記憶があります。いずれ、これらの作品も分析してみたいですね。

三国志初心者にオススメする本4+1冊

最近はいろんなところで三国志を知る人が増えたと思いますが、なかでもゲームで三国志を知る人は多いのではないでしょうか。 私が子供のころなどは、三国志のゲームといったらコーエー戦略シミュレーションゲームでしたが、 今では三国無双シリーズもありますし、スマホゲームなどの進出で、三国志を題材にしたゲームが本当に増えました。 三国志をテーマにしたゲームでなくても、三国志とコラボしたりして、三国志の露出はどんどん増えているように思います。

ゲームは面白いですが、しかしゲームだと三国志の全体像は見えないんですよね。 そこで、三国志を知っているようで知らない初心者の方にオススメする本を数冊ご紹介します。 三国志を知るならば何よりも本が一番です。

吉川英治三国志

小説です。 紹介しておいてなんですが、実のところ退屈という感想をよく聞きます。 私は中学時代に擦り切れるくらい読んだものなのですが、なにせ戦前に執筆された三国志ですから、現代の小説と比べるとどこか刺激の少なさを感じるのかもしれません。 小説も進化しているでしょうから、様々なテクニックが施された現代小説に読み慣れていると、吉川英治はどことなく素朴で退屈に感じるのだと思います。 それでもなぜ私が吉川英治をお勧めするかというと、この作品が日本の三国志の文化や価値観の根底を作ったからです。 その後の日本の三国志観に大きく影響を与えた作品ですから、初めて読む三国志としては最適でもあります。 普段、小説をあまり読まない人や、中学生くらいのお子さんにも最適だと思います。

(この表紙が懐かしい!)

横山光輝三国志

漫画です。 劉備とか洛陽とか、そういった中国の人名や地名、固有名詞にそもそも馴染みがない人は、やはり漫画がいいかなと思います。 続出する固有名詞に抵抗を感じる人は意外と多いです。 最初は、人名なのか地名なのか国名なのか直感で分からないのです。 かく言う私もそうでした。 その点、漫画は視覚情報を補ってくれますから、あまり抵抗なく読み進められるのではないでしょうか。 子供でも無理なく読めます。 横山光輝の『三国志』は吉川英治の『三国志』をそのまま漫画にしたものと言ってよいと思います。 実は私にとって初めての三国志横山光輝だったのですけど、全60巻というボリュームが当時小学生であった私には集めるのに根気がいるものだったせいで、私が三国志を通しで読んだのは吉川英治が最初なのでした。 今は漫画喫茶とかありますしね。カジュアルワイド(全25巻)、愛蔵版(全30巻)などもあるので、大人買いするのもありです。

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

  • 作者:横山 光輝
  • 発売日: 1988/11/20
  • メディア: コミック

北方謙三三国志

小説です。 吉川英治の『三国志』に退屈を覚える人には、むしろ北方謙三の『三国志』をお勧めします。 一般にハードボイルドとして知られる著者ですが、その経験が三国志に新しい風を吹き込んでいます。 時代の流れや歴史というマクロな視点よりも、登場人物の生き様のようなミクロな視点で物語が進みます。 クローズアップされる人物には著者の独自性が現れています。 どこか人間臭さが排除されがちな歴史小説の中で、登場人物たちに強い個性をもたせた北方謙三の『三国志』は、三国志の中でも異色といえるでしょう。

三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志 (1の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

李學仁・王欣太蒼天航路

漫画です。 作者の王欣太自身が「吉川英治の『三国志』を読んだが冒頭から嫌気がさした」と述べているように、吉川英治に馴染めなかった人は『蒼天航路』をお勧めします。 ただ普通に読んでも面白いのですが、吉川英治横山光輝が作った三国志のスタンダードを知ってから読むと、これがまた面白いです。 人物に強くフォーカスしたときの表現力は漫画ならではといえるかもしれません。 北方謙三が人物に強くフォーカスして表現しきれなかったもの、あるいは横山光輝が漫画を媒体にしながらも表現しなかったものがこの作品にはあります。

宮城谷昌光三国志

正直に言えば、本書は初心者向きではありません。 三国志が好きだと自覚している人や、歴史好きの人に向けられた小説です。 ですので、三国志をより楽しみたい人への、次のステップとしての本になります。 最大の特徴は三国志演義を筆頭とする脚色が一切なされておらず、史実が重視されている点にあります。 従って、物語の面白さは、歴史の面白さに限りなく近いものになっています。 史実をもう少し詳しく知りたいけど、正史や史書はハードルが高い人には、導入点にもなります。

三国志 第一巻 (文春文庫)

三国志 第一巻 (文春文庫)

まとめ

いかがでしょうか。 上記で紹介した三国志をどれか一つでも通しで読めば、三国志がどんなものかはほぼ理解できるでしょう。 三国志を人に教えることもできます。 これをきっかけに三国志の沼にハマっていくもよし、ハマらないのもよしです。

【読書感想文】重耳

中国の春秋時代と言えば、周が東西に分裂してから、晋が三国に分裂するまでの時代を指す。と言っても、すぐにピンとくる時代ではない。何しろ西暦にして紀元前七世紀のことである。二千七百年前の人間の興亡など気が遠くなるというものである。春秋時代の前代を西周と呼び、次代を戦国時代と呼ぶ。この戦国時代の覇者が秦の始皇帝であり、歴史は前漢劉邦に繋がっていく。ここまで時代が下ってようやく、漫画『キングダム』を始めとした馴染みが出てくる。

物語の時代である春秋時代について、もうすこし紹介しておこう。春秋時代は、周という国が中華圏を統一していた。統一と言っても現在の中国大陸全域を統治していたのではなく、黄河流域を中心に点在する都市国家によって、封建制のもと統治が行われていた。周の歴史は、西周の時代も含めると片足が伝説の中に埋もれていて、その始まりは定かではない。紀元前11世紀に武王・姫発が、暴虐を極めた殷の紂王を討ち、周を建国したのが始まりである。時代が下るにつれて、周の権威は衰えるばかりで、諸侯が領土と権勢を争って戦争を絶え間なく起こした。実力を失っても名望を持っていた周が、諸侯に対して一定の影響力を持っていたのが春秋時代であり、周の権威が完全に失墜し、諸侯が王を自称したのが戦国時代である。

この物語の主人公である重耳(ちょうじ)は、この春秋時代の大国、晋の公子である。重耳には多くの兄弟がいたが、特に兄の申生(しんせい)と、弟の夷吾(いご)の二人は、重耳と合わせて引き合いに上がる。物語は典型的な貴種流離譚である。父である詭諸(きしょ)の老齢に伴って、晋の公室に驪姫(りき)の乱と呼ばれる後継者問題が起きた結果、申生は廃嫡されたのち自殺を命じられ、重耳と夷吾は亡命を余儀なくされる。重耳は亡命したとき四十三歳であったが、こののち十九年間の放浪生活を経たのち、祖国に君主として帰還し天下の覇権を手にした。これだけでも、重耳の偉業が良く分かる。重耳は後に春秋五覇の代表格とされる。

驪姫の乱という最大の苦難に当たって、三人の兄弟がとった対応が三者三様であったため、その因果応報を教訓とし、君主への諫言としても引き合いに出される。歴史小説をよく読む人は、重耳の名や、その触りを知っていることが多いかもしれない。

申生の気性は、清廉潔白であり、人として汚い部分を持たず、孝行者であり、ただひたすらに人格者であった。それゆえに朝廷内で、最も衆望を集める存在であった。しかし、人格者であるがゆえに、父からの寵愛が消え、陰謀の魔の手が迫っても、反乱を起こすこともなく、亡命することもなく、自殺することになる。彼が、陰謀の魔の手を予知していなかったわけではない。彼の臣下は、こぞって反乱や亡命を勧めた。しかし、申生は何もしなかった。自分の正当性を、ただ神の判断にゆだね、誹謗中傷に対して自己弁護することもなく、無抵抗を貫いたのである。

夷吾の気性は、才気煥発であった。若くして機知に豊富であり、その分かりやすい優秀さから、申生の次に衆望を集めた。長兄の申生が自殺し、次兄の重耳が亡命すると、みずからも梁へと亡命した。ただし、亡命先が重耳とは異なる辺りに、彼の意向が読み取れる。後に、晋国内の混乱を収めて重臣の里克(りこく)によって迎えられると、それを断った重耳とは対照的に、晋へ帰国し晋公に上った。ただ、その政治は酷薄であり、里克ら重臣の弾圧や、亡命中の重耳の暗殺を謀るなど、才気の下に隠れた小心さが見え隠れする。対外的にも失敗が続き、秦との戦いに敗れると、太子の圉(ぎょ)を人質に出さざるを得ず、秦に対して事実上の従属を強いられた。

重耳の気性は、とらえどころがないというのが率直な表現かもしれない。見方によっては愚鈍にも見えるその性格ゆえに、若いころは特に、三人の公子の中では、もっとも評判が立たなかった。しかし、その器の見えぬ器量ゆえか、重耳のもとには人材が集まり、名声は徐々に上がった。長兄の申生が自殺すると、縁類である北狄の国に亡命する。弟の夷吾が晋に返っても、一貫して帰国せずに放浪した。弟の夷吾が亡くなると、その失政の反動もあって、晋国内の賛同と、秦の後援を得て、ついに、晋公として祖国に帰還する。このとき、重耳は既に六十二歳であった。

申生、重耳、夷吾は、いずれも将来を嘱望された優秀な公子であり、三人は直接争うこともなかったが、結局、晋公として最後に覇権を握ったのは重耳であった。三人からどのような教訓を得るかは、人によって異なるだろう。申生のように人格の善性だけでは、世の中の逆境を乗り切れない。時には毒をもって毒を制すことも必要である。一方で、夷吾のように才能だけで、その内面に善性を欠くようでは、人心は得られず失敗する。文質彬彬という言葉のように、人格の善性と、才能の発露が程よく調和して、初めて重耳のように至るのかもしれない。その重耳が若いころはいたって評価が上がらなかったのだから面白い。

三人の公子は、その結末を置いておけば、いずれも優秀な人物であることに変わりはない。公子たちが優秀であったのは、天性ではなく、その周りの臣下たちが優秀だからであった。そして、優秀な臣下が晋という国に集まったのは、重耳たちの祖父である称(しょう)が類まれな名君だったからである。

称の言葉はよく心に響く。

申生の天性など、はっきりいえば、どうでもよいのだ。明君になれるかなれないかは、師と傅しだいよ。わしの人のよさはな、こういうことを、いまここで汝に頼むところにある。(中略)こういうことは、死ぬまぎわに頼むものよ。さすれば、汝は断れなくなる。が、わしはみたとおり元気そのものだ。断りやすかろう。考えておいてくれ。 上巻、p78

これは、狐氏の賢人と尊称された狐突(ことつ)に対して、生まれたばかりの孫である申生の師になってほしいと頼んだ時の、称の言葉である。物語としては、狐突にはこの申し出を断りたい理由があるのであるが、重要なのはその理由ではない。私が注目したのは、わざわざ断りやすい状況を作って、自分の要求を伝えた、称の人格であった。称と狐突の関係は主君と臣下の関係である。いうなれば、称は狐突に頭ごなしに要求を命じることもできるし、用意周到に断りにくい状況を作って要求を伝えることもできる。ところが、称は狐突に対して交渉の小技を弄すのではなく、ありのままの希望を本心として伝えた。称と狐突は、単なる主従関係、利害関係ではなく、互いにその人格に対して敬意を持っていた。

私は、この称の言葉に深く感じ入るとともに、私自らも、人への要求を伝えるときは断りにくい状態を作らないようにしたいと思うのであった。何故ならば、私自身も時に、人から断りづらい状況下で要求を伝えられることがあるからだ。私は、そういう時、残念ながら、そのような人とは長期的な関係を維持するのは難しいかもしれないと毎回思う。しかし、称と狐突の関係を見てみれば、なにを隠そう、私には単純に敬意が足りず、また尊敬もされていなかったのだということが分かるのである。ただただ反省するばかりである。

称と、重耳は名君であることに異論のある人はいないであろうが、称の子であり、重耳の父である詭諸は暗君と評価されがちなのが歴史の皮肉である。詭諸は武勇に優れて、周辺諸国を次々と滅ぼしたが、晩年は愛妾の驪姫の讒言に踊らされ、その治績を汚してしまった。なにしろ、詭諸は父親の妾にすら手をだす、単純な欲求の持ち主であった。その単純さは、こと軍事には向いていたが、政治、外交には不向きであった。称は詭諸の晩節を知る前に世を去るが、生前、いつしか称が、子である詭諸の器量の限界を受け入れたとき、汝は地味な花になれと言い、器量いっぱいに生きよ、と念じるのであった。

気付いてみれば、『重耳』の物語は親子三代の物語なのである。この三代の中で、不思議なことに私が最も共感したのは、詭諸であった。それは、三代の中で詭諸がもっとも不肖だからなのか。称に父性を多分に感じたのであろうか、器量いっぱいに生きよ――それは、私に言われたような気がした。

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(中) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

重耳(下) (講談社文庫)

【読書感想文】草原の風

私は歴史小説が好きだ。その面白さを最初に教えてくれたのは吉川英治三国志であるが、その三国志を通じて知ったのが宮城谷昌光であった。歴史の面白さは、好きな時代、例えば三国時代から派生して、近隣の時代の歴史を徐々に知っていくところにある。本作の時代背景は、三国時代のおよそ二百年前、劉邦が建てた漢という国を再興した劉秀なる人物の物語である。

漢という国は、王莽という人物によって一時中断されたのを契機に、前半を前漢、後半を後漢と呼ぶ。前漢後漢を合わせて治世は四百年に渡り、これは中国史上で最初の大王朝となった。この後漢の末期が三国時代と重なる。

王莽は前漢に代わって新という国を建てたが、あまりにも政治的な失敗が続いたため、中国では各地で反乱がおこった。この反乱に乗じた一人が劉秀である。劉秀は前漢の皇族の末裔ではあったものの、既に家勢は衰退して自身は無位無官であった。滅亡した王朝の復興を唱えて天下統一を果たしたのは、中国史上で劉秀だけである。

中国の歴史では王朝を建てた皇帝は数多くいれど、劉秀の存在はその功績に比べてかなり目立たないほうである。その理由は大きく二つある。ひとつは、劉秀が皇帝になるまでの過程には多くの障害があったとはいえ、人生全体を見渡してみると、波乱万丈というよりはつつがなく成功して人生を終えた印象が強いからである。三国志のような視点と同じ視点で劉秀という人物を見てしまうと、物語性に魅力を欠いているのである。どれだけ心血を注いでも北伐を果たせなかった諸葛亮には、神格じみた魅力が付与される。劉秀が苦労人であったことは間違いないが、その苦労人が苦労のすえ成功を収める道筋に魅力を付与するには、また別の視点が必要である。そしてもうひとつは、何を隠そう劉秀自身が目立たない性格であったからである。

史書には「仕官当作執金吾 娶妻当得陰麗華」と残っている。日本語に訳すと「仕官するなら執金吾、嫁を娶らば陰麗華」という意味になり、さらに超訳すれば、「将来の夢は警視総監! 陰麗華ちゃんは俺の嫁!」 これが若かりし日のオタク、劉秀の呟きである。執金吾は首都の警察業務を束ねる武官でありながら服装が華美であり、あこがれやすい官職であった。陰麗華は劉秀の地元では有名な美少女であった。このどこにでもいるような呑気なオタクが、執金吾を飛び越えて皇帝となり、憧れの陰麗華を皇后とするのであるから、史書の言葉はどこまで後付けなのか疑いたくなるものである。

一方で、劉秀は人の風上に立つべくして立った人間である。三十一歳という若さで皇帝に即位し、在位は三十二年に及ぶ。その後、二百年に及ぶ後漢王朝の礎となった。これは、劉秀という人物に多くの優秀な人物が集まったことの証拠である。劉秀が人の風上に立ちうる人でなければ成し得ないことだ。

そんな劉秀を本作はどのように描いているのかという疑問に対しては、実際に本作を読んでもらうことにしよう。

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(上) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(中) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

草原の風(下) (中公文庫)

以降は、私が読んで考えたことの抜粋である。

なんじは大悪人の面相をしているな。多くの人を殺しても偽善の仮面がはがれるのほどの大悪人だ。 上巻、p138

長安留学中の劉秀が、学友の彊華から言われた言葉。劉秀自身が偽善ほど質の悪いものはないと思っているがゆえに、劉秀はこののち数日間鬱悶することになる。

彊華は一言でいえば変人であり、学舎の中で孤立した存在であった。学生はみな彊華から距離を置いたが、劉秀だけがただひとり彊華とまともな会話をした人物となった。そんな劉秀を彊華もまた変人と見たのであろう。彊華は内なる劉秀の感想を、率直に劉秀本人に突き付けたのである。劉秀には人の言葉を聞くという性質がある。劉秀は彊華の言葉に悪意を感じ取らなかった。多くの人は人の話を聞いているとき、その話の内容について考えているのではなく、次に自分が何を話すかを考えているという。劉秀は自分が話す言葉を考えるのではなく、人が話した言葉を考えているのであった。

人は何かを失えば、何かを得られる。多くのものを両手で抱えて生まれ育った者は、それらを落とさぬようにするだけで、あらたなものを得ることはできない。そう思えば、――この両手は、天を支え、地を抱けるほど空いている。 上巻、p177

実家と養家を去り、宗家のもとで暮らすことになったとき、孤独感を強め自分の未来の暗さを予感した劉秀の心情。

世は王莽政権の末期であり、各地で反乱がおこり、社会全体の見通しは暗くなっている。いっぽう劉秀個人に視点を戻しても、父劉欽は南頓県の県令であったが既に亡く、自分自身は無位無官のままである。ただし、劉秀には逆転の発想という、人生哲学ともいうべき思考の柱があり、このときも、持つ者は失うだけであり、持たざる者は得るだけだと考えた。

劉秀は稼穡の達人でもあった。稼穡とは畑仕事のことであり、劉秀は良く働いた。率先して働く姿勢は生涯かわらず、そこに人は惹かれて、彼のもとには優秀な人が大勢集まった。そして人を用いることに無駄がなく、自然を相手に無駄なことを行わない稼穡が常に劉秀の根底にあった。

良いものさえ作れば、かならず売れる、というのは妄想にすぎません。作るより、売るほうがむずかしいといえる。作ったものを、広く遠くまで人々に知ってもらうには、そうとうな工夫が要ります。 上巻、p298

長安で劉秀に薬売りを教えられた朱祜が、その後順調に商売を続けていることに対して劉秀が言った言葉。それに対して朱祜は「文質彬彬ですね」と応えている。

文質彬彬とは外見と内面が程よく調和していることを意味する。なにを外、なにを内とするかによって、人や物にとらわれず広く当てはめることのできる言葉である。劉秀は良いものを作れば売れるという考えは妄想に過ぎないと断言する。私は心が痛い。世の中を見渡してみると、確かに必ずしも良いものが売れているわけではない。広く知ってもらえたものが売れているのだ。

紊れた服装は、わざわいを招く、<中略>正しい服装は、祥祉を招くであろうよ。 中巻、p244

劉秀たち反乱軍の行軍をみた河南群の沿道の人々の感想。

劉秀たちは王莽政権に対する反乱軍であるがゆえに、軍装は乱れがちであった。そのなかで劉秀だけが、漢の伝統的な服装を心掛けた。その行軍を傍から見る庶民の中には学のある者もいる。劉秀は細かい気遣いで輿望を得た。

ここにも文質彬彬の言葉が当てはまる。反乱軍は勝利し続け実力を伴っていたからこそ、正しい服装に輿望が集まった。実力が伴わなければ、高級ブランドを身にまとっても虚勢にしかならないのは現代にも通じる。

王莽、王朗などは、汚れた時の化身であるといってよい。これから劉秀がなすべきことは、穢悪な時を滌い清めることであろう。 下巻、p66

人の成否は徳の薄厚にありと鄧禹が述べたとき、王莽や王朗を憎む自分の徳や慈悲は何だろうかと自問したときの気付き。

劉秀は、悪政を敷く施政者を憎むのではなく、悪政を敷く施政者を生み出した、時代の仕組みに着目した。

宮室の外にある晩夏の光を、吹き始めた風が揺らしているようである。河北は秋の訪れが早い。光も風も、夏の暑苦しさをまぬかれようとしている。 下巻、p276

皇帝の位につく劉秀の前に彊華が現れたとき、劉秀がまぶしさを感じた情景。

風が光を揺らすとは味わい深い表現である。宮城谷昌光は情緒的な表現を多用する人ではないだけに、この彊華と劉秀の再会が特別なことを思わせる。彊華という人物は史実であり、皇帝即位を躊躇う劉秀に予言書を託したとある。彊華は一貫して、奇人でありながら真実の人であり、彊華がもたらした予言書の信ぴょう性は、そのまま彊華の人間性が反映された。

妄をつかない人の言は、奇言となり、その行動は、奇行となり、その人は、奇人となる。そう想うと、妄には、この世を潤霑させるはたらきがあるのだろう。 下巻、p278

劉秀が学生の頃と変わらない彊華を見て持った感想。

妄は嘘と取って差し支えないだろう。たしかに、世の中のすべての人間関係が、嘘のない正直だけでやりとりされていたら、ほとんどの人間関係は成り立たなくなるかもしれない。相手を傷つけない優しい嘘のような、嘘を特別視した表現もあるが、そんな嘘は何も特別なものではない。世の中に空気のように満ち溢れている。私たちは、息を吐くように優しい嘘を吐いているのだ。

時間がない人向けの要約『時間は存在しない』

正直に告白しよう。途中から良く分からない。

私の凡々たる思考では、にわかに理解できるものではなかった。というよりももっと時間が必要というべきか。

それにしても、宇宙という世界を前にして人類の科学技術は未解決問題ばかりで全く心もとない。一方で、今まで人類が蓄積してきた科学技術の知識と経験は途方もない量で、何かの災厄でそれらが失われたとしたら、取り戻すのに気が遠くなる程度には、難易度が一般人には容易に理解できない領域まで踏み込んでいる。人はだれしも知識ゼロの赤ん坊からスタートすることを考えると、いくら先人が露払いをし道を開拓したとしても、到達できる科学技術には頭打ちが来るのではないかと怖くなるところでもある。

理解はできなくても知的好奇心はある。学問というのは自分の理解できる範囲で理解する程度に収めるのが一番楽しい。自分の知的好奇心以外の何かに追われて学習する大変さは、学校教育の経験者なら誰もが通る道であろう。プロの研究者としての数学者の資質は体力だともいう。私は、頭が疲れて目がかすんできたら寝るだけである。

私は自分の理解を進めるために、読書と並行して要約する癖があるのだが、せっかくなのでそれを共有したいと思う。要約の性ではあるが、著者の文章を正確に要約したものではなく、私の理解を要約した側面があることに注意されたい。要約が正確とは限らない。そもそも私自身が正確に理解していないのである。

タイトルでは「時間がない人向け」と称していながら、要約がそれなりの量になっているのは、私自身が有意義に読書した証左でもある。この点で、私は本書を人にお勧めできる。時間という概念に興味のある方は、以降の要約など読まずに、原本を読んでいただきたい。ただし、要約にも一定の価値がある。本書は著者による話の脱線が少し多い。専門書や論文ではなくエッセイなのだから何を書くのも自由なのだが、読者の時間に対する知的好奇心とは一致しないエピソードの独白が多いのである。エッセイなのだからそれも含めて楽しむべし、と言いたいところではあるが、私は遠慮なく飛ばしてしまったので、人のことは言えない。

著者自身は、第一部は実験において結果が得られた裏付けのある事実としているが、第二部以降はあくまで有力な候補の一つであるといっている。そもそも科学とは誤りと修正の歴史でもある。いずれにしても、私たちが素朴に感じる時間の概念と、時間の本質には大きな隔たりがあることは確信できる。物理学では量子などの世界を構成する根本的な部分で時間は存在しなくなっている。では、私たちが経験している時間の正体は何か。それは物理学ではなく、脳科学や神経学にバトンを譲らなければならないのかもしれない。

時間は存在しない

時間は存在しない

第一部

第一部では、私たち人間が知覚している時間の概念を破壊することで、私たちの時間に関する知識と経験をゼロにリセットしている。

第一章:時間の崩壊

  • 時間の流れは均一ではなく、場所によって早かったり遅かったりする。そのことに気付いたのがアインシュタインであった。アインシュタインは考えた。太陽と地球はどうやって重力で引き合っているのか。太陽と地球の間にあるものは空間と時間だけである。ならば、太陽と地球が周りの時間と空間に変化をもたらしているはずだと。この考察からひとつの仮定が導き出された。物体は周囲の時間を減速させる。物体の質量が巨大であるほど、また物体に近いほど時間は遅くなる。実際に山の上の高所とその下の低地では、低地のほうが時間の流れが遅くなることが明らかになっている。重力によって物体が落下するのは、下のほうが地球による時間の減速が大きいからである。
  • 時間は唯一無二のものではなく、空間の各点に異なる時間が存在する。アインシュタインは個々の時間が互いにどう影響するかを考え、個々の時間のずれの計算方法を示した。時間は単一ではなくネットワークなのである。これがアインシュタイン一般相対性理論による時間の描写である。
  • 時間には単一性がない。

第二章:時間には方向がない

  • 過去から未来という一方向の時間の流れはいったい何なのか。私たちは、過去と未来を明確に区別している。しかし、意外なことにほとんどの物理法則は過去と未来を区別できない。これは、現在の状態から完璧な過去を再現することが可能であり、未来を確定できることを意味している。ニュートン運動方程式は、物体の現在の状態から、物体の過去あるいは未来の状態を算出することができる。
  • これらの過去と未来を区別しない物理法則は、総じて現在の状態を確定している。時には不確定要素を排除するための条件が前提となっている場合もある。現在の状態を正確にすべて考慮することができれば、過去と未来は再現可能になり、過去と未来を区別する時間の流れは喪失する。しかし、実際には現在の状態を全て正確に考慮することは不可能であり、私たちの知覚はぼやけている。ぼやけているからこそ、過去と未来を違うものだと区別できるのである。
  • 時間には方向性がない。

第三章:現在の終わり

  • アインシュタインは、質量の影響で時間の流れが均一ではないことを発見する前に、電磁気学の研究を通じて、速度が速いほど時間が遅くなることに気付いた。光速で運動している物体は時間の経過はゼロになる。
  • 太陽系から最も近い恒星系であるプロキシマ・ケンタウリはおよそ4光年の位置にある。いま私たちが観測するプロキシマ・ケンタウリの輝きは4年前にプロキシマ・ケンタウリが放ったものである。ここで、もしプロキシマ・ケンタウリに我々と同等の生命がいて同じように太陽系の輝きを観測していたらどうなるだろうか。現在の私たちが観測しているのは4年前という過去のプロキシマ・ケンタウリであるが、現在の私たちを観測するプロキシマ・ケンタウリは4年後という未来のプロキシマ・ケンタウリになる。まるで文通である。太陽系とプロキシマ・ケンタウリでは現在を共有することができない。
  • 現在とは宇宙全体に広がらず、自分たちを囲む泡のようなものだ。現在という時間の幅をどれくらいとるかによって、その泡の大きさは変わる。私たち人間が識別できるのはせいぜい十分の一秒程度なので、これは地球全体が一つの泡に含まれる程度になる。しかし、光速で隔てられた距離ではそれぞれの場所にそれぞれの現在がある。
  • 普遍的な現在は存在しない。

第四章:時間と事物は切り離せない

  • アリストテレスは時間とは変化を計測したものと主張し、ニュートンは何も変化しなくても経過する時間があると主張した。この二人の巨人の主張は真っ向から対立している。結論から言えば、この二つの主張はどちらも正しく、どちらも間違っていた。この二つの考えを統合したのがアインシュタイン重力場の概念である。
  • ニュートンが直感した何も変化しなくても経過する時間は存在した。時間は物質が存在しなくてもそれ自体として存在する。しかしそれは絶対的な存在ではなく、物質と相互に影響しあうものであった。アインシュタインはこれを重力場と表現した。重力場は真っ平ではなく、物質の存在によって伸びたり縮んだりして歪んでいる。重力によって球が落下するのは、重力場の歪みの勾配を球が転がっているのだと表現できる。
  • 時間は独立した絶対的なものではなく、事物と相互に影響している。

第五章:時間の最小単位

  • 量子の世界にも時間は存在する。ゆえに時間は量子の性質とも相互に影響している。量子力学によって発見された、粒状性、不確定性、関係性の三つの特徴は、時間の概念をさらに複雑にした。
  • 時計で計った時間は「量子化されている」と表現される。これはいくつかの値だけを取って、ほかの値は取らないということが可能であり、まるで時間が糸ではなく粒のように扱えるからである。時間は連続した線ではなく、不連続な点なのである。この粒には最小の単位、つまり最小の時間の幅がある。これをプランク時間という。
  • 量子は次の瞬間にどこに移動するかは予測できない。これを量子の不確定性という。量子は確率の雲の中に散っており、量子ほどの小さい時間の中では、過去と未来の違いも確率の雲の中に散ってしまう。
  • 量子の位置は予測できなくても確定することはできる。量子は相互に影響する物理的な対象に対してのみ具体的な存在になる。それ以外の存在に対しては不確かさが伝播するのみである。これを量子の関係性という。
  • 時間は不連続な粒であり、不確かで、相互作用によってのみ具現化する。

第二部

第二部では時間のない世界がどのようなものかを理解していく。

第六章:この世界は、物ではなく出来事で出来てる

  • 物とは、しばらく変化が見られない出来事でしかなく、しかも塵に返るまでの期間の状態でしかない。すなわち物を把握するということは、その出来事を把握していることになり、物そのものを把握することはできない。

第七章:語法がうまく合っていない

  • 私たちが、現在・過去・未来にとらわれているのは、使用している言語の語法によるものでもある。私たちの言葉は過去・現在・未来の違いを「あった」「ある」「あるだろう」と区別してる。しかし、上・下という概念が地球規模では意味を持たなくなるように、過去・未来も同様に普遍的な意味を持たない。ただ私たちの言葉は、普遍的な意味を持たない過去・未来を包括てきていないのだ。

第八章:関係としての力学

  • 量子力学では既に時間という変数の存在しない方程式が成り立っている。空間は量子の相互作用のネットワークによって生まれる。それは時間の中にあるものではなく、間断ない相互作用によってのみ存在する。その相互作用が世界のありとあらゆる出来事の発生であり、時間の最小限の形態なのである。
  • 時間と空間は、時間と空間とは関係のない量子力学の近似なのだ。そこに存在するのは、量子の相互作用と、それによって生まれる出来事だけ。そこは時間のない世界である。

第三部

第三部ではまっさらになった時間の概念を再構築していく。

第九章:時とは無知なり

  • 時間は時間のない世界から生じる。
  • マクロの状態にある特定の変数は、時間のいくつかの性質を備えている。第二章で述べたことでもあるが、マクロな状態、つまりぼやけが時間を決めているのである。ぼやけが生じるのは、世界が夥しい数の粒子からなっており、かつその粒子は量子的な不確定性を持っているからである。
  • 量子は測定する順番が重要で、速度を測ってから位置を測るのと、位置を測ってから速度を測るのでは結果が異なる。これを量子変数の「非可換性」という。量子は相互作用によって具現化し、その結果は相互作用の順序に左右される。この順序が、時間の順序の始まりである。

第十章:視点

  • 過去と未来の違いはエントロピーの違いにある。エントロピーは乱雑さであって不可逆である。エントロピーは減少するとはなく常に増大する。とすると過去はエントロピーが低い状態と言える。なぜ過去はエントロピーが低かったのか。
  • 時間に方向性があるのは、宇宙の仕組みではなく、宇宙と私たちの相互作用の仕組みである。私たちは私たちの世界を内側から見ている。私たちにとって天空は回っているが、それは宇宙が回っているわけではない。私たちが回っているから、天空が回って見えるのだ。時間にも同じことが言える。時間の流れは宇宙にあるのではなく、私たちに見えているものなのだ。

第十一章:特殊性から生じるもの

  • この世界を動かすのはエネルギーではなくエントロピーである。エネルギーは保存されるため、生み出されることもなければ消失することもない。にもかかわらず、私たちは同じエネルギーを使い続けることができず、常に供給し続けなければならない。実は私たちに必要なのは、エネルギーではなく、低いエントロピーを高いエントロピーに変換する過程そのものなのである。エネルギーはその媒介に過ぎない。
  • 宇宙はそれを構成する量子の相互作用によって緩やかにエントロピーを増大させている。生命ですらエントロピーの増大の過程で生まれた。生命は秩序だった構造をしているように見えるかもしれない。しかし、より低いエントロピーを食物から得ているだけで、生命は自己組織化された無秩序なのである。
  • 過去は現在に痕跡を残す。痕跡が残るのは何かが動くのを止めるからである。これは非可逆な過程で、エネルギーが熱に変化するときに起こる。熱が存在しなければ痕跡は残らない。私たちはその痕跡を知覚してその結果に先立つ原因を捉えるようになる。これらは、過去のエントロピーが低いという特殊な事実から生じる結果であり、その特殊さは私たちのぼやけた視点にとって特殊なのである。

第十二章:マドレーヌの香り

  • 第六章では世界の成り立ちは物ではなく出来事だと述べた。では「わたし」という存在はいったい何か? 私たちも有限な出来事なのである。しかし、私たちには自己を統一した存在として認識するアイデンティティがある。このアイデンティティを確立させる重要な要素が記憶である。
  • 記憶はエントロピーの増大によって過去が現在に残した痕跡である。私たちはメロディを聞いたとき、一つの音の意味はその前後の音によって与えられている。現在というその一瞬では、私たちは一つの音しか聞けないのに、メロディの美しさに感動することができる。時間が精神に存在すると考察したのはアウグスティヌスであった。
  • 時間とは私たちヒトと世界との相互作用の結果であり、私たちのアイデンティティの源である。

解説『ハイペリオン』巡礼の道のり

長々と『ハイペリオン』の内容をまとめてきましたが、これで最後です。 巡礼者たちが自らの物語を語りながら、<時間の墓標>を目指す行程をまとめました。

一日目

  • 聖樹船<イグドラシル>で巡礼者たちが低温睡眠から目覚める
  • イグドラシル>船内で巡礼者たちが食事をとる
  • 司祭の物語
  • 夕刻、ハイペリオンキーツ市の宇宙港へ降下
  • シオ総督と領事の再会
  • <シセロの店>で食事をとる。
  • A・ベティックが巡礼一行を艀(ベナレス)に案内する
  • フーリー河の水路を通り、シュライク大聖堂跡で、ヘット・マスティーンと合流する

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二日目

  • 朝、ベナレスがカーラ閘門を通過
  • ベナレス船上で朝食をとる
  • 兵士の物語
  • 日没のおよそ一時間前、ベナレスが<水精郷>に到着
  • マンタを休息させてから<水精郷>を出発
  • ベナレス船上で夕食をとる
  • 詩人の物語

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三日目

  • 正午、ベナレスが<叢縁郷>に到着
  • 風莢船が到着すまで待機する
  • 日没、A・ベティックたちと別れる。まもなく、風莢船が到着
  • 風莢船にて夕食をとる
  • 学者の物語
  • アウスターの攻撃が始まり、<イグドラシル>が炎上する

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四日目

  • 朝、ヘット・マスティーンの失踪が発覚する
  • 午後の半ば、風莢船が<巡礼の休息所>に到着
  • <馬勒山脈>を越えるため、ゴンドラに乗り換える
  • ゴンドラ内で夕食をとる
  • 探偵の物語

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五日目

  • ゴンドラが<時観城>に到着
  • <時観城>にて夕食をとる
  • ヘット・マスティーンらしき人物が墓標に向かって歩いているのを目撃する
  • 領事の物語

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六日目

  • 夜明け前、<時観城>を出発
  • 一行は徒歩で<時間の墓標>を目指す
  • ハイペリオンの没落』へ

解説

巡礼一行にとっては目まぐるしい六日間だったと言えるでしょう。六日目以降は、物語は『ハイペリオン』から『ハイペリオンの没落』に移り、巡礼者たちはみな、環境的にも心理的にも極限状態へと向かっていきます。

それにしても、時間の墓標に至るまでの道のりは、旅の記録、紀行としての側面もあって十分に魅力があります。艀船でフーリー河を遡上するときのベナレスからの景色、風莢船からの眺望、ゴンドラから見た雲上の絶景。著者のダン・シモンズハイペリオンの美しい眺めを描くことに余念がありません。この巡礼者たちの旅の過程が、商業的なツアーとして再現されたら、きっと盛況なことに間違いないでしょう。もっとも、巡礼の目的地は時間の墓標である以上、その旅はいつどこでシュライクに殺されようとも分からない危険なものです。巡礼の過程で見られる美しさは、巡礼者だけが見られる特権かもしれません。あるいは、強い意志によって巡礼をするその精神状態が、美しさをより鮮やかにしているとも言えます。

参考

ハイペリオン 年表 時間表 時の墓標 巡礼

感想

今回、『ハイペリオン』のあらすじや解説をまとめるに当たって、改めて思ったことは、ハイペリオンシリーズはやはり面白いということです。すでに何度読んだか分からない小説を、再び精読できたのは、その面白さの証拠だと思います。何度も読むことによって、その面白さがじわじわと分かる場合もあります。六つの物語のうち、司祭、兵士、学者、探偵の物語は率直に分かりやすい物語なのに対して、詩人と領事の物語は一見分かりづらく、何度も読むうちにじわじわとくる典型です。

それにしても長い。四部作全体で見れば、物語はまだ四分の一に過ぎないのです。続く『ハイペリオンの没落』についても、いつか何かしらの文章を書きます。

それまで、アデュー。いや、レイター・アリゲーター

追記:そういえば、アデューというのはフランス語で「さようなら」の意味ではありますが、日本語の「さようなら」よりも重みがあり、「永遠の別れ」に近い、長い決別を意味するそうです。その原義は「神のもとへ」だとか。物語上でアデューを使うのはシリだったと思いますが、言葉の意味をより正確に知ると、行間の心理描写が際立ちますね。

解説『ハイペリオン』領事の物語

ハイペリオンの六つの物語のうち、最後の物語である、領事の物語について紹介、解説します。領事の物語は、一番読みにくい物語かもしれません。それでいて、最後の物語にふさわしい伏線回収の要素を多く持っています。といっても、物語は『ハイペリオン』から『ハイペリオンの没落』へ移っていくので、全体の物語としては、まだ半分です。

前回の物語はこちら。

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解説(はじめに)

領事の物語は少し難解なので、解説から入ります。まず、登場人物から整理します。マーリン・アスピックは連邦の若きシップマンで、マウイ・コヴェナントに転位ゲートを建設する事業に従事していました。シリはマウイ・コヴェナントの先住民の少女で、初期の播種船でマウイ・コヴェナントにたどり着いた開拓民の末裔です。二人には、アーロンとドネルという息子がおり、領事はドネルの息子、つまりマーリンとシリの孫にあたります。

シリとマーリンが7度にわたって逢瀬を重ねた記録が、領事によって語られるのですが、その時系列がばらばらで断続的なので、領事の物語は一見してその内容を把握しづらい面があります。また、マーリンにとっては5年間の物語でありながら、シリにとっては65年間の物語であることが、非現実的な飲み込みづらさを生んでいます。

マーリンは超光速でマウイ・コヴェナントと連邦を往復しているため、その往復期間はマーリンにとって9か月、シリにとって11年になります。マーリンが一年弱の航行を終えたとき、シリは11歳も歳をとっているのです。その二人に許された逢瀬の時間はたったの7回。しかも最後の7回目には既にシリは他界していました。二人がともに過ごした期間は一年にも満たないわずかな時間でしたが、二人は愛し合い、子供も設けました。時空の隔たりがあるからこそ、シリとマーリンの最初の出会いは現地で伝説となりました。そんな奇蹟的なロマンスが、領事の物語の根底にあります。そして、彼らとマウイ・コヴェナントが辿った歴史が、領事の行動原理を形成しています。

時系列を整理すると次のようになります。

マーリン シリ アーロン ドネル 領事 出来事 主なページ(文庫本)
19歳 15歳 マイクの死。その事件が後に伝説になる。 P352~断続的に
20歳 26歳 0歳 シリがアーロンを身ごもる。多島海のイルカの描写。 P373
21歳 37歳 10歳 0歳 シリがドネルを身ごもる。 P361
21歳 48歳 21歳 10歳 アーロンが独立主義者として惑星警察に抵抗し殺害される P414
22歳 59歳 21歳 年齢差のある官能の描写。 P355
23歳 70歳 32歳 転位ゲート開通後の会話。 P395
24歳 43歳 9歳 シリは既に死亡。転位ゲートの開通と崩壊。シリの反乱の勃発。 P346~断続的に

※年齢は目安です。

シリの物語に切なさを感じるのは、実はごく身近にある出来事に似ているからです。例えば、70歳の母と35歳の息子という関係性を設定してみましょう。シリとマーリンのように航時差で隔てられてはいないとはいえ、一年に一度会うような間柄であれば、似たようなことが起こります。老齢の母の一年と、まだまだ青年と言ってもよい息子の一年には、かなりの違いがあります。個人差にもよりますが、正月やお盆に帰省して、半年ぶりに会った父と母が老け込んだなと思った経験を持つ人は多いと思います。この切なさは、若い人にはきっと分かりません。事実、私が『ハイペリオン』を初めて読んだ大学生の時、シリとマーリンの物語の切なさは頭では理解できても、心で感じることは出来ませんでした。しかし、歳を重ねてから読んでみるとこれはいけない。涙が出てくるのです。思えば、シリとマーリンは初めは恋人関係でありますが、シリの加齢とともに母と子の親子関係としても捉えることができるような気がします。

領事の物語:思い出のシリ(あらすじ)

巡礼者である領事は、古いコムログを取り出して、その記録を語りだした。その内容は、今ではシリの反乱と呼ばれる(そして、無残にも失敗に終わった)マウイ・コヴェナントの独立戦争の、前日譚ともいうべきものであった。

シリとマーリンが出会ったのは、シリの反乱が勃発する65年前のことだ。もっとも、マーリンにとっては、5年前の出来事でしかないのだが。転位ゲート開設の乗組員として、連邦とマウイ・コヴェナントを往復するマーリンには、シリとの逢瀬は時間的にあまりにも限られていた。シリとマーリンを隔てた航時差が生み出す現実は残酷で切ないものだった。

シリは政治家として立身した。彼女のイデオロギーは一貫して独立主義者に与するものではなかった。しかし、後にシリの反乱と呼ばれるように、独立運動の精神的主柱となった背景には、シリとマーリンの息子であるアーロンが独立主義者に紛れて殺害されたことが大きい。そして、マウイ・コヴェナントが転位ゲートで連邦と繋がれば、マウイ・コヴェナントは連邦の政治と経済の食い物にされ、いままでのマウイ・コヴェナントではいられないことも。最初の転位ゲートが開通したとき、シリはすでに他界していたが、計画されていた反乱は実行された。転位ゲートは開通と同時に破壊され、マウイ・コヴェナントは一瞬の後に再び11年の時空によって隔絶された。

連邦の FORCE 艦隊が現れるまでの5年の間に、反乱軍は艦隊を急造したが、それらは FORCE によってあっけなく蹴散らされた。マウイ・コヴェナントはやがて停戦し、そして正式に連邦に加盟した。マーリンは多島海の戦いで戦死したとされる。シリの一族、つまり領事の一族は、その多くが反乱に殉じた。ただ、シリの息子であり領事の父であるドネルは、連邦の上院議員となり、マウイ・コヴェナントの初代惑星知事となった。領事はそのもとで外交官としてのキャリアを歩み始める。

マウイ・コヴェナントがそうであったように、連邦は開拓星の、先住民、先住文化、先住性物を尊重しなかった。連邦がかつて知的生物に遭遇しなかったのは偶然ではない。開拓星が転位ゲートによって連邦と繋がる前に、知的と評価される種は駆逐されてしまうからだ。領事は外交官として開拓星に赴任し、連邦の暗部で手を汚し続けてきた。ファール、ガーデン、ヘブロンと転任を続けるうちに、ついに領事は精神を病んだ。

全く知られていないことだが、<テクノコア>は実戦部隊を持ちアウスターを執拗に攻撃していた。そして、アウスターと FORCE 双方の実力を試すために、ブレシア人を焚きつけて、アウスターを攻撃させた。かのブレシアの戦いは連邦による執拗な挑発に対するアウスターの報復であり、始まるべくして始まったのである。驚くべきことに、この計画は<テクノコア>だけでなく、連邦の上院でさえも加担していたという。結果として、アウスターは大挙してブレシアになだれ込み、<テクノコア>と連邦は目的を果たした。<テクノコア>は双方の実力を分析するに足るデータを得、連邦は厄介な自治政府が壊滅したブレシアで漁夫の利を得ることができた。当時、ブレシアに赴任していた領事は、これにより妻グレシャと息子アーロンを失った。

ブレシアの戦役によって昇進した領事は、アウスターとの交渉役に任じられた。領事に直接話をしたのがグラッドストーンだった。その要点は、アウスターを挑発し、連邦を攻撃させることにあった。対象はハイペリオンだ。ハイペリオンアウスターに攻撃されれば、連邦はハイペリオンを強制的に併合せざるを得ない。<時間の墓標>は未来から遡ってきた存在ゆえに、誰に利するものか分からない。<テクノコア>はそのため、頑なにハイペリオンの併合に反対してきた。ハイペリオンを併合すれば、<テクノコア>の穏健派が勢力を拡大させることは確実とみられた。

自ら進んでその任についた領事は、個人用の宇宙船が与えられ、外宇宙を放浪し、ついにアウスターと接触を持つに至った。アウスターは<ウェブ>の人間がこの千年間に成し得なかったことを成し遂げていた。アウスターの船団での生活を領事はそう表現する。領事はアウスターに全てを打ち明けた。そして、アウスターもいろいろな情報を領事に与えた。そのひとつは<大いなる過ち>についてであった。<大いなる過ち>は決して過ちなどではなかった。オールドアースの破壊は、人類を宇宙へ旅立たせるために、<テクノコア>と連邦が手を組み、意図的になされたものであった。<テクノコア>の管理下にないアウスターだからこそ、連邦内において<テクノコア>によって巧みに隠蔽されている事実を良く知っていた。

<ウェブ>へと戻った領事は、グラッドストーンに結果を報告した。罠だと知りながらアウスターはハイペリオンを攻撃すること。そして、戦いが始まったとき、二重スパイとしてアウスターに通じるため、ハイペリオンの領事になってほしがっていることを。しかし、アウスターが<時間の墓標>を開く技術を持っていることだけは伏せた。領事はハイペリオンに派遣された。ほどなくして、アウスターのエージェントから連絡が入った。彼らは<時間の墓標>を調査するためにハイペリオンまで来た。アウスターは転位ゲートの技術を持っていなかった。というよりも、転位ゲートの技術は<テクノコア>のみが保守、管理する技術であり、連邦の技術者ですらその原理は明らかでなかった。故に、アウスターはその技術に強く興味を持ったが、結果としてその原理を解明することは出来なかった。しかし、その失敗に至る過程を経て、彼らの時空に対する理解は大きく進歩した。アウスターもまた<時間の墓標>が未来から遡っていることを知っており、遺跡を取り巻く抗エントロピー場を破壊することで、時間の遡行が止まること、つまり<時間の墓標>が開くことを仮定していた。彼らはその仮定を、実験によって確認するために来たのだ。

領事はエージェントを<時間の墓標>へと案内した。アウスターのエージェントは、抗エントロピー場を崩壊させる装置(開放装置)を持っていた、しかし、今はまだ使うときではないとエージェントは言った。アウスターの政治的上層部は、まだハイペリオンへの侵攻を決定していなかったからだ。装置は、侵攻が確定的になって初めて起動される。装置をいったん作動させたら、場の崩壊は止められない。領事は、<時間の墓標>が開いたら戦争に勝利するしか道がないことを念を押して確認したのち、エージェントを射殺した。そして、開放装置を起動した。一見して遺跡に変化はない。一年以上をかけて、場はゆっくりと崩壊していくのである。領事はまずアウスターに連絡をいれた。事故が起きて、エージェントはシュライクに殺害され、開放装置が作動してしまったと。そして、グラッドストーンに連絡を入れ、アウスターの侵攻がほぼ確実であることを告げた。しかし、開放装置のことだけは伝えなかった。

グラッドストーンは領事の労をねぎらい<ウェブ>へ戻そうと言ったが、領事は断ってハイペリオンに近い辺境惑星へ宇宙船を向けた。

解説(続き)

領事の物語は、中に二つの物語を持っています。ひとつは、シリとマーリンの物語である前半部分で、もうひとつは、領事自身の独白である後半部分です。

前半は、学者の物語とはまた別の側面で、胸が締め付けられる物語です。学者の物語はレイチェルが若返っていくという悲劇の物語でしたが、今度はシリが年老いていくという逆の悲劇の物語でもあります。一方で後半は、六つの物語の最後を飾るにふさわしい新事実が明らかになります。前半と、後半のギャップが激しいので、ここもまた理解しづらい理由かもしれません。

プロローグにおいて、グラッドストーンは巡礼者の中にアウスターの内通者がいることを領事に告げました。領事こそがその内通者です。グラッドストーンは領事を連邦のスパイとしてアウスターに送り込んだ張本人ですから、アウスターのスパイがいることを領事に告げるのはどことなく不自然に感じます。グラッドストーンから見れば、アウスターのスパイがいるとしたら、領事はまず最初に疑われる人物だからです。プロローグにおいてグラッドストーンがスパイのことに言及したのには、注意を促すためというよりは、どことなく言動の怪しい領事の心中を察知して、釘を刺したと見るべきかもしれません。

一見して、領事の行動は理解しがたいものがあります。それを理解するために必要なのが、前半のシリとマーリンの物語です。連邦が各惑星を開拓していく構図は、かつてヨーロッパの列強がアメリカ大陸やアフリカ大陸を植民していった構図の相似形です。SFは社会風刺の受け皿とも言われるように、シモンズは過去の風刺されるべき歴史を上手く未来に再利用しました。歴史は繰り返すということです。故郷であるマウイ・コヴェナントが連邦によって蹂躙されていったときから、領事は連邦への復讐を誓いました。多くの一族が戦争に身を投じたのとは違うやり方で、領事は復讐を試みます。そのためなら、ファール、ガーデン、ヘブロンといった開拓星が、マウイ・コヴェナントと同じ道を辿ったとしても、外交官として手を汚すことも厭いませんでした。外交官として出世し、連邦の中枢の一員になったとき、連邦に対して内部から復讐を全うすることができます。領事はその機会をひたすら待ち続けたのです。その間に精神を病み、妻子すら失いました。そして訪れた決定的な機会が、<テクノコア>も巻き込んだ、連邦とアウスターの全面戦争でした。

領事の物語は、得体のしれない存在であったアウスターに、もっとも近づいた物語でもあります。兵士の物語では、アウスターは純粋な連邦の、そして人類の敵でした。しかし、現実はそう単純ではありません。連邦はアウスターを蛮族とすら表現しますが、実のところアウスターは連邦よりも科学面でも文化面でも連邦とは違う独自の進化を遂げた存在です。ブレシアの戦いは、アウスターの一方的な攻撃によって始まったと考えられていましたが、実は<テクノコア>が主導して、連邦が度重なるアウスターへの攻撃を行った結果、報復としてブレシアは攻撃されたのでした。そして、この度、アウスターがなぜハイペリオンを攻撃するのかも明らかになります。<テクノコア>は<時間の墓標>が未知ゆえに、人類が<時間の墓標>に近づくことを警戒しました。アウスターは<テクノコア>とのしがらみを持たないために、積極的に<時間の墓標>へ近づきます。そのアウスターの動きを、連邦は<テクノコア>に対するけん制として、利用しようと画策します。

連邦、アウスター、<テクノコア>の三つ巴の勢力図が浮き彫りになります。巡礼者たちは自らの物語を語り終え、巡礼の旅は<時間の墓標>へ差し掛かります。『ハイペリオン』の物語はここで終了になります。物語は『ハイペリオンの没落』へ続きます。