弥生研究所

人は誰しもが生きることの専門家である

【読書感想文】空白の五マイル

ある時、なにげなく黄河や長江の源流域を Google map で眺めていたら、チベット高原の南部をひたすら東進する川を見つけた。川がどのような流路を辿ってどこに繋がるのかという好奇心は、人間の根源に近いところにあるような気がする。私はその川筋を辿ってみたのだが、すぐにやめた。最初は川幅も広くて東に直進するだけだったその川は、やがて川幅を狭めて強く蛇行し、追うのに根気を求められたからだ。代わりに川の漢字表記であった「雅魯蔵布」を検索してみると、その川はヤルンツァンポと読む大河であることを知った。そして流路を見失った場所こそツァンポー峡谷といい、世界最大級の峡谷で長らく未踏の地であったのだった。wikipedia で調べてみると、何やら最近、日本人の探検家が未踏査部分を探検したらしい。その日本人探検家こそ、本書の著者・角幡唯介(かくはたゆうすけ)である。

ヤルンツァンポ川の源流はマーナサローワル湖にあり、この湖は標高の高さと、湖水の透明度の高さなどから、チベット三大聖湖と呼ばれ、多くの宗教宗派の聖地とされている。この湖を発したヤルンツァンポ川は、東へと直進しチベットの中でも比較的穏やかな南チベットの盆地を形成している。その後、川はツァンポー峡谷で大きく南へ屈曲し、ヒマラヤ山脈の南側の低地に流出し、ブラマプトラ川、ジョムナ川と名前を変えてガンジス川と合流、インド洋に注ぐ。

ツァンポー峡谷はヒマラヤ山脈の東端に位置し、青い空の月面と表現されるようなチベット高原とは異なり、湿潤で木々が鬱蒼として豊かな森林を成す。これは、チベット高原ヒマラヤ山脈によって湿気を遮られているのに対して、その東端にあるツァンポー峡谷には回り込むように湿気が流入しているからである。峡谷に近い林芝市は、チベットのスイスと形容されるような景勝を持っているほどである。ツァンポー峡谷を構成するのは、ナムチャバルワ山や、ギャラ・ペリ山などの7500m級の大岳で、ヤルンツァンポ川はその間をこじ開けるように流れる。ツァンポー峡谷がいかに険阻であるかは想像がつくであろう。

ゆえに、ツァンポー峡谷は歴史上、長く未踏であり、ヤルンツァンポ川が峡谷に消えた後、どこに流れ着いているのかは歴史上の謎であった。いわば、その川を下って帰ってきたものはいないというのが、ヤルンツァンポ川であった。この謎に突き動かされて、著者を含む多くの探検家がこの地へ分け入ったことには、畏敬と共に共感を覚える。

探検史については、むしろ本書に詳しいため、興味を持った方はぜひ手に取ってみてほしい。本書の構成は、ツァンポー峡谷の探検の歴史を解説するとともに、著者自身の探検の経緯が紀行文として記述されている。しかし、著者自身による探検という意味では、やはり些かパンチ力に欠けるというのが正直なところかもしれない。初者自身も自覚されていることではあるが、著者がツァンポー峡谷に入ったのは2002年から2008年であり、この頃には携帯電話も普及し、Google map などで航空写真も見られる時代であった。本来の探検の意義は20世紀で終わり、現代の探検は、その意味を懐古と共に失ったか、あるいは変容させている。読者として著者自身の探検にスケールの大きさを感じないのであれば、それは著者の責任というよりは、時代の変化によるものであろう。残念あるいは寂しい気持ちがありながらも、著者が多くのページを割いたその探検史こそ本書の魅力かもしれない。なお、著者は朝日新聞社に務めた経歴を持ち、本書が開高健ノンフィクション賞を受賞しているように、文章や構成は読みやすく面白い。

エベレストが観光化、商業化しているように、ツァンポー峡谷も一観光地になるかもしれない。チベットにはペマコ・ベユルという伝説がある。シャングリ・ラのモデルと言われ、それはいわば桃源郷なのであるが、そもそも桃源郷とは、古代中国で漢文化の進出によって消失しつつあった少数民族の村落をモデルにしており、精神の内面に存在し、心の外に求めると見いだせないものとされる。著者は残された未踏の5マイルの中で大洞穴をみつけ、その洞穴をペマコ・ベユルに重ねた。探検とは、まさに桃源郷を求める行為に他ならないのではなかろうか。とすると、いつの時代であろうとも、探検は世界が狭くなるとともに陳腐化していったのだ。その度に、人間は、探検の対象を外に求めるのではなく内へ求めた。現代において探検を外に求めれば、先人が食い散らかした残飯のような余地しか残っていない。これから世界がもっと狭くなれば、人類は月にだって火星にだって探検に行くだろう。しかしそれすらも陳腐化する時代は来るのである。